7歳でも生きる為に必死です。
屋根の藁はなんでこんなに退屈なんだろう。
少年は、天井の藁をただ見ていた。ほかに、することがなかった。
体が熱くて、腕を上げたり、首を動かしたりするのもだるかった。動かさないでじっとしていると、体が布団に沈んで、自分のものではないみたいに重くなる。
木の棒に紙が貼られた窓。その隙間。光の間を影が横切る。小さな影は、すぐにいくつも通り過ぎて、少年の顔に縞模様を作る。外を誰かが駆けていった。石壁の向こうから、笑い声が聞こえてくる。
「うらやましくなんかないや」
姉さんが帰ってきたら、また話してくれる。姉さんの話は面白い。
今日は川で何をした、森で木の実を拾った。自分が行けない場所のことを話してくれる。面白くて、それはどういうことか聞いてみるけど、どういうことかよく分からないまま、いつも話は終わった。
影は、また横切る。目で追うけれど、影は壁の向こうへ消えて、光だけが、ただの光に戻る。
もういいのだ。
重い腕をゆっくり伸ばして、枕元の木札に指を伸ばす。木札は、黒い線が折り重なっているだけ。
すごく前のことだ。あの日も、熱で寝込んでいた。枕元には、祖母の置いていった木札があった。
はじめはただ眺めていた。黒い線が折り重なっているだけの木の板。擦ると線がにじんだ。にじんだのが面白くて全部そうしようと頑張っていると、バル婆がまたその上から線を書いた。幼い男の子はそういう遊びなんだと思った。
でも、線をにじませた次の瞬間に木札を奪われた。バル婆は、にじんだ文字を綺麗に布で拭っていく。そして、布の中の綺麗な部分で男の子の真っ黒の指も拭っていった。
「……レンは遊んでただけだね。ここに置いてたあたしが悪いのさ」
バル婆がレンの指を拭く。何度も拭く。人差し指の先だけ、黒いまま残った。
「すぐに取れるさ」
黒い線は再び、ゆっくりバル婆の手で木札に引かれた。そのあとにバル婆が口を動かす。同じ線が、ふたつあった。その時のバル婆の口は同じ形で二回動いたように見えた。
レンは、別の札を引き寄せた。今度はにじまないように札の側面を持つ。バル婆はじっとレンを見ている。さっきと、同じ線の形を探していく。
「面白いかい?」
バル婆は、もう使わなくなった木札とまだ何も書かれていない木札を持ってきて布団の上に広げる。孫は何かを見ながら左右に木札を分けていく。
「……し」
レンは祖母に向かって小さな声を上げる。指は木札を指差している。
「し、じゃなくて、これは木。……木札っていうんだ」
レンは首を振って、ちがう、と言った。すぐに木札を並べる。同じ黒い線が描かれている部分を順番に指差して、もう一度言った。
「し!」
バル婆は目を大きく開いた後、口を小さくあけた。
そしていくつかの札を並べ替えて、レンに向かって顎をしゃくった。レンは、じっと木札を見直してから、同じ黒の線がある部分を指差した。バル婆は頭を少しだけかいてから、レンの隣に座った。
「……すごいじゃないか」
バル婆に褒められた。
レンは、あの線が引かれた札をくまなく探す。7つ見つかったけど、微妙に線の位置がずれている木札があった。最後まで悩んで、バル婆から一番遠い、はじの方にその札を置いた。
バル婆は指差すたびに頷いて、7枚目まで来てしまった。はじの方に置いた札の、あの線がずれた木札だ。震える指で指差して、バル婆の顔を覗き込む。バル婆は鼻を人差し指でぽりぽりかいた。
「それは、ち、だよ」
レンはもう一度7枚目の札を見直す。
本当だ。これは、ち、だ。し、じゃなかった。
今度は、ち、の線を探そうとしたところでバル婆が布団から立ち上がる。綺麗に並べた札がずれて目が泳いだ。
「おっと、ごめんよ」
せっかく並べたのに!
バル婆は寝室を出て、そのままどこかに消えてしまった。
レンは今度は、ち、を探すことにした。また、木札を並べてみると今度は5枚見つかった。ち、だとは思うけどバル婆に見てて欲しかったから、戻ってくるのを待っていた。
うんと、しばらく時間が経ってから、バル婆が戻ってきた。
「レンは文字が好きなんだね」
ち、を確認してもらおうとレンが木札を並べて待っていたら、バル婆にそう言われた。バル婆は木札をたくさん抱えていた。
その日からレンは、片端から文字を読んだ。
家じゅうの書きつけを見た。古い木札。畑の覚え書き。誰かからの、文字の連なった紙きれ。一つ知ると、文字が繋がった。同じ線を、別の札で見つける。見つかった文字が増えるほど、読めるものは、増えていく。
読めると、その向こうが見える気がした。行ったことのない森。会ったことのない人にあてた手紙。レンの知らないことが、線の中にしまってある。
それを一つずつ、開けていく。森を駆ける。知らない人と、話す。姉さんの言っていたことが、はじめて分かった。
そしていつからか、タオじいさんがやってきた。バル婆は畑。姉さんもいない。タオじいさんは、そういう時にやってきた。
はじめは、もう読み込んだ線ばかりだった。何度も、何度も見せられて、ぜんぶ間違えずに言えるようになった。すると今度は、別の線が出てきた。蜘蛛の巣みたいに絡んではいない。でも、子供の蜘蛛の巣くらいには絡んでいる。
その線は、一つのかたまりなのに、いくつも読み方があった。今までの線より、ずっと難しい。眉のあたりに、力がこもる。タオじいさんはツンと眉間を触ってレンに言う。
「バルに教えてやってくれって言われたときは、ただの暇つぶしだったんだがなあ」
タオじいさんはふん、と鼻を鳴らした。感謝しろよ、と言って、またレンの眉間を小突く。それで、指が動いて、レンはかたまりの一画をなぞりはじめる。
一つ、また一つ、読める線が増えていく。タオじいさんは、それが合っているときはすぐに別の線にうつった。でも、間違っていると何度もやり直しをさせた。そして、間違えずに読めるようになった後も、たまにいきなり聞いて来て、そういう時はまた間違えた。それでまた、やり直す。
レンは自分の見つけ方で、自分の速さで、蜘蛛の巣をほどいた。間違えることも沢山あった。これはこういう文字だと思い込んで、後で、タオじいさんに眉間を小突かれて違うと気づく。
熱で寝込む日は、もうこわくなくなった。寝ているあいだも、できることがある。文字に向かう時間は、たっぷりあった。
小さな文字の中に、森も川もあった。レンはそこを歩いていた。
「タオさんから、レンに頼めって言われたんだがねえ……」
バル婆の友達の、おばあさんだった。バル婆が湯呑をおばあさんに手渡した。おばあさんは、レンの寝床のそばに座ってぽつぽつと話す。
「子どもは、……無事に生まれたかい? 元気で、暮らしてるのかい?……たまには、帰ってきておくれ」
レンは、それを聞きながら、筆を走らせた。話す速さと、書く速さは、少し合わなかった。何度も、待ってもらった。
書き終えて、読み上げた。おばあさんは、自分の言ったことが、そのまま線になって並んでいるのを、じっと見ていた。それから、何度も、レンとバル婆に礼を言って、帰っていった。
それからはたまに、知らない人が来るようになった。手紙を書いてくれ。この紙に何と書いてあるか読んでくれ。大人からの頼みごとばかり。
また少しだけ、森や川から遠くなった気がした。
頼まれた手紙を書いた後、入れ替わりで姉さんが帰ってきた。足は濡れていて、すねには短い草と泥がついていた。
「魚、とれなかったよ」
姉さんがバル婆に言った。バル婆は姉さんの足をさっと見てすぐに拭いて、ついでに床も拭いていく。
レンは、姉さんの足を見ていた。本物の川の水で、濡れている。自分の手を見た。レンの手には、筆だこができはじめている。
姉さんの足には水気を拭いてもらったのに、草が一本見えた。自分の手には、小指のはじに小さな墨のシミが残っていた。
「ありがとうな」
レンは手紙を読んだり、書いたりしたら、丸い小さなお金をもらうことがあった。若い男の手から、丸いものを渡された。握っていると、手に変な匂いが残った。
「寝る時くらい朱文をはなしたらどうだい?」
バル婆がレンに袋を渡しながら言った。素直に受け取って袋に朱文を入れる。
手紙を一つ書く、一枚、読んでやる、一枚。レンは、それを使わずに取っておいた。時々、袋を布団の下から取り出して、中を空けた。
手のひらに、朱文を並べて、数える。一、二、三……。この前より、増えている。ひとしきり眺めて、また袋に戻す。
そして布団の下の、いつもの場所に隠す。隠し場所は誰にも言わない。
――朱文がどれくらいたまった頃だったのか。
姉さんが、布団でうずくまっていた。脂汗が、顔に浮いている。森や川を駆けていた足が、丸まって、動かない。レンは、それを寝床から見ていた。
次の日には起き上がったけど、それからの姉さんは、どこか前と違った。
話し方が少し落ち着いた。物を見るとき、前よりじっと見るようになった。時々、レンの知らない言葉を小さく呟いて、聞き返すと、なんでもない、と笑った。
なぜ変わったのか、レンには分からなかった。
おかゆが煮えてくる匂いがした。レンは、すぐに寝室を出て居間に向かう。
「……姉さん、何作ってるの」
姉さんが振り返って、レンににっこり微笑んだ。
「特別なおかゆ」
「昨日と匂いが違う」
レンはくんと顔を上向けて鼻から匂いを吸い込んだ。いい匂いだ。
「入れるものを少し変えてみたの」
「なんで」
「食べてみれば分かるよ」
レンは、ふーん、と言って食卓につく。朝はいつも通り二人で向かい合って食べる。レンはおかゆに口をつけて言った。
「おいしい」
「そう?」
「うん。なんか、分からないけど食べやすい」
「よかった」
レンは黙って食べ続ける。姉さんは、レンをじっと見ながら何か考えるようにぼーっとしていた。レンの茶碗が空になる。
「おかわり、する?」
「うん」
言われるままに毎日食べているうちに、熱を出す間が空くようになった。寝込んでも、起き上がるのが、前より早くなってきた。
レンの体は少しずつ、今までとは違っていくみたいだった。長い付き合いの重い体が、少しずつ言うことを聞いてくれるようになった。
姉さんは、レンのことばかり気にかけるようになった。
前は、外へ駆けていく姉さんの背中を、見送るばかりだった。それが今は、姉さんがそばにいる。レンの顔を覗き込んで、今日は調子がどうかと聞く。
なぜ、と思った。
姉さんが小声で夜中に話しかけてきた。レンは、目が覚めた
「もしかして、また痛いの?」
「ううん。でも、たまに違和感があるの。痛みってほどじゃないけど、前より少し長く続くようになってきてるんだよね。……記録をつけておきたいんだけど——わたし、字が書けないから」
姉さんが自分に相談したんだ。レンは部屋を見回してから最後に姉さんをじっと見た。
「……ぼくに、書いてほしいってこと?」
「うん。それと、字を覚えたい」
レンは顔を上げた。外を駆けて、川で魚を捕って、木に登る、あの姉さんが字を覚えたいと言った。
「テンに覚えられるかな?」
頑張るから、とテンは言って、手のひらをこすり合わせる。
レンだけの場所だった文字に、テンが入ってくる。外を駆けて、川で魚を捕って、木に登る、あの姉さんが。レンは棚をゴソゴソ探って、基本の文字を書いた紙を見つけた。とっておいてよかった。テンに紙を渡した。
テンは首を傾けて、口を少しだけ開けて、その紙を見ていた。
レンは、木札を並べて、いちばん易しい形から教えた。この線とこれを繋げると、こうなる。自分が解いてきた順に、テンに渡していく。
ところが、テンは違った。
一度教えると、もう忘れない。レンが何日もかけて気づいたことを、ひと息で吞み込んでいく。それどころか、レンの教えていない先を、勝手に当ててしまう。
「じゃあ、これはこう読むの?」
当たっていた。なぜ分かるのか。レンはその夜、何かに追いかけられる夢を見た。
「……覚えるのが速すぎるよ」
「そう? レンの教え方がいいのかもね」
テンは、けろりと笑った。レンは、口を尖らせた。でも口の端が少し上がるのが分かった。
レンは、札を挟んでテンと向かい合う。
テンの背中を見送るばかりだったのが、今は同じ札を、二人で覗き込んでいる。テンの指が、レンの並べた札を、なぞる。レンの瞳はテンの指を追っていた。
文字は、ずっと、レン一人のものだった。誰とも分け合えない、自分だけの場所。
レンは、テンの指が止まるのを待って、ただ、次の札を並べた。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
レンの目には、姉さんに何が起きたのか、最後まで分かりませんでした。
なぜ姉さんが変わったのか、なぜ、あのおかゆは効いたのか。
テンを主人公にした「村娘は生きる為に必死です。」(完結済み)では、彼女の側から見た同じ日々を書いています。もしよければ、姉弟のもう半分も、覗いてみてください。
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