【李寧国記 番外編】光の子
※文中の一部に残虐な表現がございます。苦手な方はお戻りください。
「神は、このように仰っています──」
信徒たちの崇拝の眼差しを受け、可憐な少女は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。まだ幼い彼女の発する言葉に、人々は涙を浮かべて歓喜し、あるいは縋るような眼差しを向けている。
私はその異様な光景を、ただ黙って見つめることしかできなかった。
李寧国南西部、榕州。
そこに、我々寿天教徒の本拠地はあった。
四十年ほど前、時の皇帝に迫害を受けた当時の教祖は、教団の規模を縮小し、皇都を離れざるを得なかった。密かに彼らを支援していた貴族たちの縁を辿り、今はこの静かな地域で細々とその教えを説いている。
現在の教祖・李氏は、その迫害を生き抜いた筋金入りの信徒だった。彼は復権を誓い、綱紀の緩んだ教団の建て直しを図っている。
寿天教はもともと、かの女神をこの地に招いた高僧が立ち上げた宗教団体の流れを汲む集団の一つだった。何度か形を変え、拠点を変え、李寧国の歴史とともに、少しずつ現在の教えを信奉する組織となっていった。
とはいえ、時代の影響を受けて爆発的に民衆に受け入れられるまでは、寂れた民間宗教に過ぎなかった。その勢いを失った今、終焉は近いのではと悲観する者も決して少なくなかった。
(姫巫女様を、見付けるまでは)
その少女の噂を聞き付けたのは、本当に偶然だったそうだ。布教のため、李寧の方々を回っていた信徒たちが、現地で「神をその身に降ろす少女がいる」との話を聞き、慌てて李教祖に報告をした。
李教祖は信徒を連れ、その地に──李寧国西部・秝州へ飛んで行った。そして、少女の身体に残る神の気配に、彼は驚愕したという。
それは紛れもなく、彼らが崇拝する女神・寿天の残滓だった。
たまたま信徒たちが立ち寄った地で、敬愛する女神の気配を纏う少女を見付けたのは天命だと、彼らは色めき立った。そして、親の目を盗んでその少女に接触し、無断で彼女を連れ出し、榕州に戻ってきた。
たった六歳だという少女は、親から引き離され、見知らぬ土地に連れて来られたにも関わらず、平然としている。物珍しげに周囲に目をやり、寿天様を祀った祭壇を不思議そうに見上げていた。
幼い少女はふと私の方を振り返り、首を傾げる。大きな瞳に滑らかな肌、ふっくらとした唇の、とても愛らしい面差しだった。
彼女は鈴を鳴らすような可憐な声で尋ねてきた。
「……あの、これは何ですか?」
私は微かな動揺を覚えながら、たどたどしく教団や祭壇の由来について説明した。彼女は大きな瞳を瞬かせ、興味深そうに話を聞いている。
しばらくそうして話し込んでいると、不意に遠くから複数の足音が響き、私はギクリとして息を呑んだ。眼前の少女がパッと顔を輝かせ、顔を上げる。
「……おや、香蕾様。何の話をなさっていたのですかな?」
「おじいさま!」
榕州までの道中で、すっかり懐いたのだろう。少女は側近を引き連れて近付いてきた李教祖を「おじいさま」と呼び、元気よく駆け寄っていった。私はその様を、複雑な気持ちで見つめている。
私は、この老人が苦手だった。
いつも穏やかに微笑み、信徒たちの苦境を訴える声にも真摯に耳を傾ける。四十年前の糾弾で多くの信徒を失い、風前の灯火となっていた組織を建て直した英雄。誰もが李氏を、そのように称賛する。
けれど、私は気付いてしまったのだ。老人の濁りかけた瞳はいつも冷たく光り、誰のことも見ていないことを。
今もそう。小さな顔を赤らめて一生懸命話し掛ける少女を、老人は値踏みするような目で見下ろしている。
「──お気に召したのなら、お傍にはこの春砡を置きましょう。春砡、姫巫女様を頼むぞ」
唐突に名を呼ばれ硬直する私に、少女は朗らかに笑って言った。
「よろしくお願いいたします。ええと、しゅんぎょく」
幼くても貴族の令嬢。少女は優雅に微笑み、鷹揚に頷いてみせた。
神をその身に降ろすという少女には、優れた道士でもある教団幹部たちによって厳しい修行が課された。
彼らが彼女に望むのは、女神・寿天との一体化だ。穢れを好む強大な女神を宿すには、自身も穢れを溜め込む必要がある。幹部たちは幼気な少女の一挙手一投足を厳しく見張り、彼らが与えた「姫巫女」という役割に相応しくないと判断した時には、容赦なく罵倒した。
「こんなことも出来ないのか!」
「まったく……。こんなにも力のない神を降ろしたところで、何の役にも立たんわ!」
「……ご、ごめんなさ、」
小さな声が紡ぐ謝罪は、幹部の一人が卓を殴り付ける音にかき消される。少女は目尻に涙を浮かべながら、それを零さないよう必死で耐えていた。
剣呑な雰囲気の修行場に、好々爺然とした李教祖が入ってくる。彼は幹部たちを一瞥し、真っ直ぐに少女の元へ歩み寄った。老人は彼女の耳元で何かを囁き、涙目の彼女は縋るように老人を見上げて頷く。
すぐに老人は部屋を出て行き、少女の修行は再開された。
この四ヶ月あまり、繰り返されてきた光景だ。
ただし、幹部たちの罵詈雑言は、李教祖の命令で行われていることだと、私は知っている。周囲を憎ませ孤立させ、暗い感情を育て、唯一彼女に優しく接する教祖に精神的に依存させる。それが、彼らのやり口だった。
本来であれば、親元で何一つ不自由のない生活を送り、家族の愛情に包まれて生きているはずの少女。彼女はいつかの夜、寝台の中で、離れ離れになった双子の姉について、嬉しそうに語ってくれたものだ。
「双子でいらっしゃるのなら、姫巫女様に良く似て、さぞ可愛らしいお姉君なのでしょうね」
「うーん、あんまり似ていないの。私はお母似で、お姉様はお父様似。でも、とてもおきれいなのよ」
目を輝かせ、鼻息も荒く語る少女は年相応に愛らしい。私は思い切って彼女に問い掛けた。
「姫巫女様。──お家に、帰りたくはないですか? 修行はお辛くありませんか……?」
だが、姫巫女と呼ばれる少女は朗らかに笑い、首を振る。
「平気よ。おじいさまがいらっしゃるもの。──はやく女神さまをこの身におろせるようになって、おじいさまの手助けをしたい」
「姫巫女様……」
月の輝く漆黒の空を見上げる少女の瞳は、どこか狂信的な光を帯びている。私はその光に怯み、何も言えなかった。
(……やっぱり、こんなの間違っている)
少女は歯を食いしばり、壮年の男たちの罵声に必死に耐えている。私は修行場の隅で拳を握り締めつつ、その様子をじっと見つめていた。
ただ一方で、違和感を抱いてもいたのだ。
私は気付いていた。少女はその日以降、毎晩のように自らの姉について語ってくれる。けれど決して、両親やその他の家族については話そうとしないことを。
少女に「家に帰りたくないか」と尋ねたあの日以来、幹部たちの私を見る目は険しくなった。
「……春砡。李教祖が隣町での説法役をお前に命じられた。名誉だと思え」
「ですが、私は姫巫女様のお傍に……」
「春砡」
有無を言わせぬその口調は、鞭打つようだった。──いや、「よう」ではない。彼らに不穏分子だと判断されれば、実際に鞭で「教育」される。執拗なその折檻で、生命を落とした仲間も多い。
姫巫女様はお可愛らしい。気の毒だとも思う。
けれど、自分の生命と引き換えにしてまで守れるかと言われれば、私にそこまでの覚悟はない。私はすごすごと引き下がり、大人しく信徒の群れの末尾についた。
ちらりと背後を振り返れば、李老人が恭しい手つきで少女の髪を撫でている。その光景に、私は言葉に出来ない嫌悪感を覚えていた。
年が明け、少女は七歳になった。そしてその頃には、より神格の高い神を、ある程度自在に呼ぶことが出来るようになっていった。
ある日ついに、束の間ではあったものの、李老人が秝州で感じたという古の女神の気配が、少女の小さな身体に宿ったという。幹部たちは狂喜乱舞し、噂を聞き付けた信徒たちも涙を流して祭壇を拝んだ。
大騒ぎする人々を、私は複雑な目で眺めていた。その頃には姫巫女様の傍付きを外され、元通りの末端信徒の身に戻っていた。
女神をその身に宿してからは、一転して、全ての幹部たちが少女にひれ伏した。皇族もかくやというような扱いで、箸より重いものには一切触れさせない。彼女の言動一つ一つに大袈裟に感嘆し、彼女が眉を顰めればこの世の終わりのように騒いだ。
少女は持って生まれた気質によるものか、そうした扱いにも増長することなどなく、ただ愛らしく微笑んでいる。その姿がかえって不気味で、私は視線を背けてしまった。
私たちの信奉する邪の女神は、絶世の美女でもある。その神を身に宿したせいか、少女の面差しは長じるにつれて、日に日に輝きを増していった。
気がつけば時間は流れて、彼女は十四歳となった。
鄙には稀な少女の美貌を見つめる男たちの瞳の色に、私は吐き気を覚えた。
それはひとえに、姫巫女と崇められる少女に、黒い感情を抱いてしまったためでもあった。その頃、私と恋仲になっていた信徒の男が、デレデレと締りのない顔で彼女の美貌を褒めたたえた時。私は確かに、十も年下の少女に嫉妬をしていた。
(馬鹿げている。相手はたった十四歳の少女なのに……)
自分自身にも周囲にも向けたその言葉を、私は呪言のように繰り返し唱えた。
ある日、私は片付けた洗濯物を手に、寮内を歩き回っていた。熱心な寿天教徒は教団の施設である寮に移り住み、集団生活を送っている。私はそこまで熱心な信徒であるとは言えなかったが、飢饉で家族を亡くしており、その施設に身を寄せていたのだ。
その施設の一際贅沢な母屋には、姫巫女様や教祖、幹部たちの居所もある。施設全体の炊事洗濯などの雑用は、末端信徒の仕事だった。
私は敷布を抱えながら、廊下を右に左に進んでいく。そのうち、珍しく客間の扉が小さく開いているのを見つけ、何の気なしに近寄った。
扉の隙間から中を覗き見て──私は戦慄した。
「なんて美しいんだ……、僕の女神……!」
恍惚とした声を漏らす男が、一心不乱に絵筆を動かしている。その視線の先にあるのは、しどけなく襟元を緩め、何かの血に全身を黒く染め艶かしい表情を浮かべる、十四歳の少女の姿だった。
(なんてこと……!)
私は悲鳴を上げそうになるのを、懸命に堪えた。
そうして思い出す。今日は、長年寿天教徒を密やかに支援する地方貴族、孫家の次男が訪れていたことを。
十代も終わりの彼は定職にも就かず、愚にもつかない絵を描き続けている。当主である父は彼の行状に眉を顰めつつ、跡継ぎでもないため好き放題させているようだ。
近頃、その父親と息子は度々教団施設を訪れている。当主は教祖をはじめとした幹部たちと密談しているようだが、その息子がまさか、こんなにも不届きな絵を描いていたとは。
(ああ、寿天様……!)
思わず内心で神の名を叫び、私が後ずさった、その時だった。
「……何をしている?」
ねっとりと湿った嗄れ声が、私の耳元で囁く。
その場で固まった私に、老人──教祖である李氏は、うっそりと笑った。
「何を見たというのだ? 春砡。まるで、地獄の獄卒にでも会ったような顔だな」
「あ……あぁ……」
全身を戦慄かせ、私はゆっくりと背後を振り返る。両唇の端を柔和に釣り上げ、そのくせ全く笑っていない凍った目で、李教祖が私を見ている。
私は声を震わせながら、老人に訴えた。
「教祖……様! 孫氏の息子が、ひ、姫巫女様に、とんでもないことを……!」
その言葉に血相を変えると思ったが、老人は私の予測に反して、ただ穏やかに口元だけを笑ませている。
彼は私の身体を扉から引き離し、皺の目立つようになった指を一本、自分の唇に添えた。
「静かにせんか。中の袁基様が驚かれるであろう」
袁基──孫 袁基。出来損ないと揶揄される貴族の次男の名を、私はようやく思い出す。
否、他に思考を逸らせるしか、正気を保つ術がなかったのだ。老人の言い分はまるで、たった十四歳の少女にあのような苦痛を味合わせることを、公認しているように聞こえたから。
壊れたように震える私に、老人はさぞ可笑しそうに喉を鳴らした。
「……心配せずとも、香蕾は孫家の娘と戸籍を偽り、後宮に送り込むつもりだ。万が一にも貞操を汚すような真似はさせないと、孫氏とも誓約を交わしている」
あまりに惨いその言葉に、私は愕然と目を見開いた。
幹部たちは、李老人は、少女を徹底的に利用するつもりだ。女神を降ろす憑代というだけではなく、貴族との取引材料として。
そして、彼らが目論む寿天教徒の復権と、彼らを糾弾した皇族の子孫への復讐の、道具として。
私は血相を変えて身を翻した。
七年前、たった数ヶ月世話係を務めただけの少女のために、生命は捨てられないと思った。でも、一人の人間として、世間知らずの少女がこんな風に扱われるのを、見過ごすことは出来なかった。
老人の腕を掻い潜り、私は必死の形相で扉に取り付く。
そして、大声を張り上げようと息を吸った。
「ひめ……」
発しようとした言葉はしかし、音にはならなかった。
灼熱の衝撃と共に腹から生えた汚れた切っ先を、私は呆然と見下ろす。
「……ぁ……」
掠れた声で呻き、私は自分の腹部を見下ろす。
膝が崩れかけたところで刃が引き抜かれ、私はそのまま地面に横様に倒れ込んだ。
ひゅうひゅうと喉が鳴る。視界が真っ赤に染まり、呼吸が出来ない。
血に倒れたまま全身を震わせる私に、その時、鈴の音のような愛らしい声が呼び掛けた。
「──春砡?」
(ひめみこ、さま……)
逃げてと、声の限りに叫んだと思った。現実には微かに唇が動いた程度で、脳天を貫く痛みに、ただ身体を震わせることしか出来ない。
彼女に刃を突き立てた老人は、朗らかに笑っている。
「香蕾。袁基様の絵は完成したのかい?」
「ええ。ひと段落したから、もう良いって」
(なんということ……)
その少女のあっけらかんとした物言いに、私の失われつつある理性は激しい嫌悪に襲われる。けれど、もはや指先一つ動かせず、私の身体は微かな痙攣を繰り返す。
薄れ行く意識の中、可憐な声が笑って言った。
「寿天様のために、……私は、どんな穢れも受け入れてみせます」
「それでこそ我らが姫巫女。──私の可愛い、孫娘」
(狂っている……。こんな……こんな……)
今から約五十年前。邪教と判断された寿天教は、時の皇帝により有無を言わせず解体された。心の支えを失った人々は、身を寄せ合い、それでも信仰を捨てず、今日まで生きてきた。
その希望となったのは、教団の腐敗から救ったと尊崇される一人の老人と、彼が見出した光の御子だった。
私たちは、狂信の果てに、途方もない化け物をこの世に解き放ってしまったのだ。
投稿しても良いものか……、と迷った作品でもありました。
香蕾は邪教徒に連れ去られたからおかしくなった、というより、もともと持っていた残虐性や歪んだ優越感が、寿天教徒という集団との親和性を生んだのかなと思います。




