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第八章 赤い文字

玲子は自分の部屋にいた。


チェストの前に立ち、一番上の引き出しを開ける。


外したヘアクリップをしまうためだった。


その引き出しの中に、場違いなものがひとつだけ存在感を放っている。


玲子のスマホだった。


画面は暗いままだった。


もう何日も、そのままだ。


玲子には、もう一つスマホがある。


仕事で支給されているものだ。


めったに鳴ることはないが、仕事の電話はそちらにかかってくる。


海外にいる両親にも、この番号は伝えてある。


友達もいない。


だから、自分のスマホがなくても、生活に支障はなかった。


心を落ち着かせるためには、このほうがいいと思った。


玲子はスマホを手に取る。


数日たって、ようやく決心がついた。


電源を入れる。


黒い画面に、白いロゴが浮かび上がった。


玲子はスマホをチェストの上に置く。


お湯を沸かそうと、キッチンへ向かった。


喉が渇いていたわけではない。


ただ、少し時間がほしかった。

紅茶でも入れれば、少しは落ち着く気がした。


そのとき、着信音が鳴った。


玲子はびくっと肩を震わせる。


ゆっくり振り返り、チェストの上のスマホを見る。


画面には、海外にいる母親の名前が表示されていた。


玲子は通話ボタンを押した。


「もしもし」


『やっと出た』


受話口から、母のかわいらしい声が聞こえてくる。


『何度かけても電源が入ってないって出るから、心配したのよ』


玲子は小さく息をついた。


「会社のスマホの番号、教えてあるでしょ」


『あら、そういえばそうだったわね』


母はくすっと笑った。


『でも、本当に心配して、パパと日本に向かっちゃうところだったわ』


玲子は一瞬だけ言葉を探す。


「あ…スマホ、落としちゃって。ついさっき引き取りに行ってきたところ」


急に思いついた嘘にしては、うまく言えた気がした。


『玲子ちゃんは昔からしっかりしてたのに、そんなこともあるのね』


母は疑う様子もない。


昔から、こういう人だった。

絵本の中の少女みたいに、いつもどこかふわふわしている。


『あ、玲子ちゃんに似合いそうなポシェット型のスマホケース探してみようかしら』


玲子は胸の奥で、ほっと息をついた。


『それで、玲子ちゃんはまだ日本にいる気なの?』


母が聞いてくる。


「うん」


玲子は短く答えた。


『パパに頼めば、こっちでも働けるのよ』


「私には、日本のほうがあってるの」


『そう…わかったわ。体に気をつけて。また連絡するわね』


通話が切れると、部屋はまた静かになった。


耳からスマホを離す。


目の前には、スマホの画面。


SMSのアプリの左上に、赤い数字がひとつ表示されていた。


――きっと、迷惑メールか何かだ。


気にする必要などない。


玲子は、目的があってスマホの電源を入れたのだから。


親指で画面をなぞる。


SNSのアプリを開く。


数日前から、決めていたことだった。


ユーザー画面を開く。


スクロールしていくと、赤い文字が現れた。


『アカウントを削除する』


見られたくないなら、やってはいけなかった。

聞かれたくないなら、始めてはいけなかった。


自己満足だった。


だから、再生回数も保存数もフォローもコメントも。

自分以外の情報が入ってこないように、システム上すべてオフにした。


誰にも見られないように。

誰にも気づかれないように。


新しい秘密基地。


でも――見つかってしまった。


嘘をついた。

私じゃないと。


知られたくなかった。


自分勝手な思いを、正太朗に押し付けて傷つけてしまった。


「ごめんなさい…」


玲子は、静かにその赤い文字に指を乗せた。


――さようなら。


  *


玲子からはいっこうに返事がこない。


SMSの画面は、正太朗の二つのメッセージのまま止まっていた。


それでも、SNSだけは欠かさずチェックしていた。


動きはない。


今日も、何度目かの玲子のSNSをブラウザから開く。


読み込みの青いバーが、ゆっくりと伸びていく。


「何かネットが重いな……」


予告もなくシステムメンテナンスが入ることも、珍しくない。


青いバーが右端まで到達する。


画面が切り替わった。


『ユーザーは存在しません』


正太朗は、もう一度ブラウザを更新した。


『ユーザーは存在しません』


ブラウザのアプリを落とし、もう一度ブックマークから飛ぶ。


『ユーザーは存在しません』


正太朗は画面を見つめたまま固まった。


理解が追いつかない。


玲子のSNSが――消えている。


正太朗はスマホを握り直した。


玲子の番号を開く。


だが、指が動かない。


しばらくそのまま画面を見つめていた。


それでも――

正太朗は、発信ボタンを押した。


呼び出し音は鳴らなかった。


『おかけになった電話は、電源が入っていないか――』


正太朗は、そっと通話を切った。


SMSの画面を開いた。


そこには、自分の二つのメッセージが並んでいる。


『大丈夫』


『また会えたら嬉しい』


三通目を送ろうとして、入力しては消し、入力しては消す。


正太朗の二つのメッセージの上にある「ごめんなさい」。


玲子から初めて来たメッセージだった。


浮かれていた。


まだつながっているって。


この「ごめんなさい」に、どれだけのものが含まれていたのか。

正太朗は、想像もしていなかった。


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