表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/13

第五章 再会の裏返し

とっくに五分は過ぎていた。


玲子もわかっているはずなのに、まだ席を立たない。

正太朗は、それが少し嬉しかった。


マスターは気を利かせたのか、いつの間にかテーブル席から離れていた。


カウンターの奥で、氷を削る音だけが静かに響いている。


テーブルの上のグラスを、玲子はしばらく眺めていた。


丸い氷が、ゆっくりと溶けていく。


玲子はマドラーでグラスの中を軽く回した。


そして、ぽつりと聞いた。


「……どうして私だとわかったの?」


正太朗は、すぐには答えなかった。


いや、答えられなかった。


なにから伝えたらいいのか、わからない。


夜の公園。

朝の横断歩道。


どの順番で話すべきなのか。


「……たぶん」


そう言いながら、正太朗の中ではもう答えは決まっていた。


玲子が顔を上げる。


「一昨日の朝の前に、俺、桧山を見つけてる」


玲子の眉がわずかに動く。


「……見つけてるってなに?」


正太朗は玲子を見た。

玲子も、正太朗を見ていた。


「夜の公園」


玲子の目が、ほんのわずかに瞠目する。


「歌ってただろ。俺たちの『願いの翼』」


玲子が、目をそらした。


「……知らない。私じゃない」


「…いや」


あの横顔は、確かに今目の前にいる桧山だった。


「声も同じだったんだ。

いつも聞いてるSNSの歌声と」


正太朗は、ゆっくり言葉を探す。

あの夜の光景を思い浮かべながら。


「小学校のとき、神社でも一人で歌ってただろ?

そのときと、なんか重なったんだ」


正太朗の視界の端で、玲子の手が、ぴくりと動いた気がした。


「でも、気づいたら桧山はいなくなってて」


正太朗は、あのときの虚無感を思い出して、短く息を吐いた。


「だから一昨日、見かけたとき――なんか嬉しくて。気づいたら、後を追ってた」


正太朗が顔を上げて玲子を見ると、ほんのり暗い店内でもわかるほどに、その表情は青ざめていた。


「そんなの知らない。そのSNSも私じゃない」


玲子の手が、わずかに震えていた。


「桧山、どうして……」


「私じゃない!」


静かな店内に、張りつめた空気が走る。


グラスを拭いていたマスターの手も止まった。


自分の声の大きさに気づき、玲子ははっとした。


視線を落とし、バッグをつかんで立ち上がる。


玲子は逃げるようにテーブル席を離れた。


「桧山!」


バッグを漁る。


こんなときに財布がなかなか出てこない。


震える手で、千円札を何枚か抜き取り、マスターのいるカウンター前に置いた。


「え、いや、多いって。ちょっと…!」


玲子は店を飛び出した。


ここにいたくない。


誰も私を見ないで。

気づかないで。

放っておいて。


冷たい夜の空気が、頬に触れる。


背後で扉が開く音がした。


「桧山!」


正太朗の声。


玲子は足を速める。


けれど――

後ろから駆けてくる足音が、はっきり聞こえた。


玲子は思わず足を止める。


「…ついてこないで」


はっきりとした拒絶だった。


一昨日の朝は拒絶されなかったのに。


柔らかな表情で、携帯の番号を書いて渡してくれたのに。


――どこで間違った?


玲子は背中を向けたまま、小さくつぶやいた。


「…知られたくなかった」


夜の空気に溶けるような声だった。


「とりあえず、送ってくから」


玲子は激しく首を横に振ると、残りの階段を駆け上がって行ってしまった。


正太朗は、追いかけることができなかった。


階段の壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。


――どうして、こうなった。


「いつまで、そうしてるつもりだ」


俯いた顔をわずかに上げると、開けっ放しの扉に寄りかかってマスターが立っていた。


また顔をうずめてしまった正太朗に、マスターが肩をすくめる。


「追えば逃げるぞ、ああいうのは」


それから顎で店の中を指した。


「ほら、戻れ。氷溶ける」


正太朗が、店内に戻ると、カウンターにマスターはいなかった。


そのかわり、奥からいい匂いがしてくる。


しばらくして、ドンっとカウンターにトマトのパスタが置かれた。


にんにくの香りが食欲をそそる。


「腹減ってんだろ」


正太朗はフォークを手に取った。


一口、口に運ぶ。


にんにくの香りとトマトの酸味が、じわっと広がった。


「うまい…」


「当たり前だろ。誰が作ったと思ってんだ」


勢いよく食べ始めた正太朗を、マスターはロックグラスを傾けながら静かに眺めていた。


「おかわり」


「ねえよ。腹減ってんなら、牛丼でも食って帰れ」


今日の分の会計を済ませて、正太朗はカウンター席を立った。


正太朗の表情は、まだ沈んだままだ。


「正太朗」


扉に手をかけた正太朗をマスターが呼び止めた。


正太朗は振り返らない。


「人生の先輩としての忠告だ。あの子をお前の世界に引きずり込むな。住む世界が違う」


「そういうんじゃねえよ」


入ってきたときとは対称的に、正太朗は静かに店を出て行った。


バーをあとにして、正太朗はとぼとぼと歩いていた。


気づくと、あの横断歩道に来ていた。


一昨日の朝、玲子と再会した場所。


信号は赤。


道路の反対側の歩道を、玲子が歩いていた。


横顔が街灯に照らされる。


その目には、光がなかった。


二人は、互いに気づかない。


横断歩道は渡らない。


それぞれの方向へ、そのまま通り過ぎていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ