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第四章 約束のバー

正太朗と玲子が初めての電話をしてから二日が経った。


今夜は、約束の日。


玲子は、正太朗からきた地図アプリのリンクを頼りにバーに向かった。


金曜日の夜ということもあって、人通りも多い。


表通りの明るさを抜けると、通りは少し暗くなり、表通りとは違った静寂に包まれていた。


スマホの画面に表示された青い点。


「ここ……?」


玲子は視線を横に流した。


看板は控えめで、注意して見なければ通り過ぎてしまいそうだった。


玲子はもう一度スマホを見た。


間違いなさそうだ


地下に続く狭い階段を玲子はゆっくりと降りて行った。


一段降りるごとに、外のざわめきが遠ざかっていく。


階段の先に、小さな灯りが見えた。


趣のある木の扉の前で、玲子は一瞬だけ立ち止まる。


扉を押すと、静かな音楽が流れていた。


バーの中は思っていたより狭そうだ。

カウンターが数席と、奥に小さなテーブルが二つ。


一瞬見渡した限りは、他の客は見えない。


玲子はゆっくりと店の中へ足を踏み入れた。


カウンターの奥で、グラスを磨いていたマスターらしき人物が顔を上げて柔らかい笑みを唇に乗せた。


「いらっしゃい」


「あ、こんばんは…」


玲子は小さく会釈する。


「こちらに、どうぞ」


マスターは玲子が席に迷わないように、一番奥のカウンター席にコースターを置いた。


回転椅子を少し回り、席に着く。


「あいつは、まだ来てないからちょっと待ってやって」


どうやら、正太朗からマスターに話は通してあるようだ。


「お酒は飲める?」


「はい。あまり強いものでなければ…」


「了解」


マスターはそう言うと、棚からボトルを取り出した。


丸く削られた氷がグラスに落ちる。


氷とガラスがぶつかった音が小さく店内に響いた。


玲子はカウンターに軽く手を置き、店の中をもう一度見回した。


ほんのり暗い店内で、暖色系の柔らかな照明の光が木のカウンターを照らしている。


「このいう店は、初めて?」


マスターがシェーカーを振りながら聞いた。


「はい」


玲子は頷く。


「そうか」


マスターは軽く笑う。


「これを機に、いつでも来てよ」


「はい」


玲子は、もう一度静かに頷いた。


シェーカーの音が止まる。


マスターはカクテルをグラスに注いだ。


淡い色の液体が、静かに満ちていく。


マスターはグラスを玲子の前に置いた。


「どうぞ」


玲子は、グラスに手を伸ばし、一口ゆっくりと口に含んだ。


甘すぎず、柔らかい味だった。


「……おいしい」


玲子が小さく言うと、マスターは満足そうに頷いた。


「こういう店は、一人一人のお客さんの好きな味を覚えておくんだよ」


玲子はもう一口、カクテルを口に含んだ。


丸いなめらかな氷が唇にひんやり当たって気持ちがいい。


マスターが時計をちらりと見た。


玲子も、つられて壁の時計を見る。


約束の時間まで、あと五分。


階段の方から、足音は聞こえない。


「……もう来るよ」


マスターが軽く言った。


玲子は小さく頷く。


「はい」


十分。


十五分。


階段の扉は開かない。


玲子はスマホを取り出して時間を見る。


二十一時十六分。


マスターが氷を削る手をやすめないまま、ちらりと玲子を見た。


「あいつ、たまに遅れるんだ」


玲子は少し笑う。


「そうなんですね」


カクテルは半分くらいになっていた。


三十分。


店の扉は、まだ開かない。


玲子はもう一度スマホを見る。


新しいメッセージはきていない。


マスターは何も言わない。


ただ、グラスを削る音だけが静かに響いていた。


四十五分。


カクテルの氷は、もうほとんど溶けている。


玲子はグラスを見つめたまま言う。


「来ないやつじゃないよ」


玲子は答えず、グラスの残りを飲み干した。


時計の針が、十時を回る。


一時間。


それでも、階段の扉は開かなかった。


マスターは何も言わず、新しいコースターを指先で整えている。


玲子はスマホの画面をもう一度見る。


メッセージは、来ていない。


玲子は小さく息を吐いた。


「……そろそろ、帰ります」


マスターの手が一瞬止まる。


「そうか」


静かな声だった。


玲子は椅子を軽く回して立ち上がる。


「お会計お願いします」


「いいよ。あいつに請求する。約束すっぽかした分、しっかり上乗せしておくよ」


玲子は思わず小さく笑った。


「それは、ちょっと可哀想かも」


「いいんだよ」


マスターは肩をすくめる。


「こういうのは、来なかったやつが払うもんだ」


玲子は軽く頭を下げた。


「じゃあ……ごちそうさまでした」


椅子を元の位置に戻す。


「また来てよ」


マスターは穏やかに言う。


玲子は少しだけ笑った。


「はい」


そのときだった。


階段のほうから、バタバタと駆け下りてくる音。


バンッと大きな音を立てて扉が開いた。


外の空気が、わずかに店の中へ流れ込む。


玲子とマスターが同時に視線を向ける。


そして――

正太朗が姿を現した。


息を少し切らしている。


「おい。扉が壊れるだろうが」


マスターが呆れたように言う。


正太朗は息を整えながら、マスターのほうを向きもせず、軽く手を上げた。


「悪い」


それから、ふと視線をカウンターに向ける。


そして玲子の姿を見つけた。


一瞬、言葉が止まる。


「……」


玲子も立ったまま、正太朗を見ていた。


マスターが小さく鼻を鳴らす。


「一時間だぞ」


正太朗は顔をしかめた。


「そんなに?」


「そんなにだ」


マスターはグラスを棚に戻しながら言う。


正太朗は一歩、カウンターの方へ歩く。


まだ息が少し上がっている。


「……ごめん」


短く、そう言った。


「走ってきたの?」


「タクシー捕まらなくて、走った」


マスターが腕を組む。


「だったら連絡くらい入れろ」


正太朗はポケットからスマホを取り出した。


真っ暗な画面。


画面をタップしても、横のボタンを押しても光らない。


「……電池切れてた」


マスターは深くため息をついた。


「ったく、お前は…」


玲子はその様子を見て、ふっと小さく笑った。


「もしかして、もう帰るところだった?」


「当たり前だろうが。一時間だぞ」


玲子は少しだけ考えてから答える。


「今、立ったところ」


玲子はそう言って、バッグを肩にかけた。


正太朗は、慌てて言葉を探す。


「……ちょっとだけ」


正太朗は開いた両手を玲子の目の前に掲げた。


視界を遮るような大きな手に、玲子は目を瞬いた。


「十分でいい」


それから、すぐに言い直す。


「……いや、五分でも」


玲子は小さく息を吐いた。


「……五分だけ」


正太朗の表情が少しだけ明るくなる。


予約していたテーブル席に、改めて二人で腰をおろした。


マスターがカウンターの向こうから声をかける。


「五分だからな」


「わかってるよ!」


正太朗とマスターのやり取りに、玲子は小さく笑った。


はっと我に返ったように、正太朗は玲子に向き直る。


それから、少しだけ真面目な顔で言った。


「来てくれて、ありがとう。あと、待たせてごめん」


「うん」


ふたりの再会の夜が、ようやく始まった。



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