第二章 偶然の横断歩道
新しい第二章です。タイトルも変えました。
久しぶりの自宅に戻ってきた。
中層階に位置する部屋の窓を開けて夜風を通す。
糊でパリパリになった清潔なシーツと、ふんわりとしたホテルのタオルも悪くはない。
けれど、使い慣れた自分のタオルと寝慣れたベッドには敵わなかった。
ツアー中、彼女のSNSは開かなかった。
聞いたら、あの公園に行きたくなってしまうから。
事務所近くの行きつけの店で打ち上げは行われた。
初めてでもないのに全国ツアーの達成感はやはり格別だ。
店員も交えて大盛り上がり、酒もたらふく飲んだ。
メンバーの目を盗むようにSNSを開いた。
何もUPされていない。
最新投稿の日付は、あの日のまま。
安心したような寂しいような。
ベッドに体を預けて、もう一度SNSを開いた。
さっきと変わらない画面。
正太朗は、ゆっくりと睡魔に誘われ眠りに落ちていった。
*
喉の渇きで目が覚めた。
打ち上げで酔って帰宅し、軽くシャワーだけ浴びて、そのまま寝てしまったことを思い出す。
裸足でフローリングをペタペタ歩き、冷蔵庫を開ける。
空っぽだった。
正太朗は財布だけ持って家を出た。
朝日が差し込み始めたばかりの外は、まだ明るさが足りない気がする。
人も車も少ない早朝の道は、歩いていて気持ちがいい。
水を買うだけなら、家から一番近いコンビニでよかったのに。
なんとなく、散歩してしまった。
目の前のコンビニに入って500mlの水を3本買った。
レジ袋をぶら下げて外に出る。
*
歩行者信号の青を知らせる小鳥のような音に、なにげなく顔を上げた。
道路の向こう側、一人歩く女性の姿。
正太朗は走り出していた。
点滅し始める歩行者信号。
渇いた体で全力で走る。
買ったばかりの水が、やけに重い。
(待ってくれ…!)
今、この機を逃がしたら。
二度と会えない気がした。
*
横断歩道の途中で赤に変わった信号。
それでも全力で駆け抜けた。
信号を渡り切って、膝に手をつき、呼吸を整える。
顔を上げると、彼女の背中が少し遠くに見えた。
あと少しで追いつく―――
声をかける直前、正太朗は一つ唾を飲み込んだ。
言葉が出ない。
喉が締まる。
やっと出たのは、
「あの……!」
それだけ。
彼女が足を止める。
ゆっくり振り向く。
朝の光が、彼女の髪を透かす。
目が合う。
でも、その目には、認識の色がない。
当たり前だ。
一度も話したことなどなかったのだから。
「なにか…?」
「あー…えっと…」
襟足を掻く正太朗に、彼女は困ったように苦笑いしたように見えた。
「すみません、急いでいて……」
社交辞令のように小さく会釈する。
正太朗はまだ、何も言えていない。
彼女が一歩、離れる。
行ってしまう―――
「ちょっと待って! 桧山…だよな? 俺、小学校のとき、いっしょだったんだ」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなる。
焦りが、そのまま言葉になる。
玲子は一瞬、目を瞬かせる。
「……小学校?」
警戒と戸惑いが混ざった視線。
「ごめんなさい、ちょっと……思い出せなくて」
やわらかい拒絶。
「あー…そうだよな。もう何年も前のことだし」
締め付けられる胸に気づかれないよう、正太朗は愛想よく笑う。
「あのさ、少し話……あ、急いでるんだっけ。あ、連絡先教える!」
言った瞬間、正太朗はポケットに手を入れる。
反対側も探る。
スマートフォンがない。
ポケットにあるのは財布と鍵。
喉が渇いただけだった。
家からすぐ近くのコンビニで水を買ってすぐ帰るつもりだった。
家を出るとき、財布だけ掴んで飛び出した自分を悔やむ。
覚えていない、目の前の元同級生。
本気で困っている。
少しだけ、彼女は苦笑いする。
玲子はバッグを開けて、小さなメモ帳とペンを取り出す。
覚えてもいない相手に、ずいぶん大胆なことをしている。
「使いますか?」
玲子から差し出された助っ人アイテム。
正太朗は、一瞬驚いた顔をしたあと、救われたような気分でメモ帳とペンを受け取った。
「あ!サンキュじゃない、ありがとう、ちょっと待って今書くから」
急いで、まずは名前を書く。
次に携帯番号。
090…35…
その次。
3だっけ。
いや、5?
ちがう、9だったか?
頭が真っ白になる。
自分の番号が出てこない。
こんなこと、何年もしていない。
番号を口に出すことも、紙に書くことも。
(スマホとってくるからちょっと待っててほしいっていうか…?
いや、俺のこと覚えてないのに、紙とペンまで貸してくれて、さらに待っててくれなんて言えないよな。
どうしよう…どうする…)
正太朗の思考が空回りする。
すっと、遠慮がちに玲子の手が伸びてきて、正太朗の手からメモ帳とペンを受け取る。
「え…いや、ちょっと待って。今、思い出す…」
玲子は小さく首を横に振った。
取り上げたわけじゃないよ、と。
視線をメモ帳に落とし、すらすらとペンを動かし始める。
十一桁の数字。
そして、ページを一枚、きれいに切り取る。
小さな音。
「よかったら…」
玲子から差し出された一枚の紙を正太朗は受けとった。
桧山玲子。
懐かしい名前だった。
それが今、玲子自身の手で書かれている。
インクが朝日に少し光る。
「じゃあ…」
玲子は今更、恥ずかしくなってきた。
すっと背を向けて、歩き出す。
走り出したいのを堪えて普通に歩く。
右手と右足は一緒に出ていないだろうか。
正太朗は、玲子の後ろ姿をぼう然と見つめる。
でも、焦りはなかった。
手の中の一枚の紙が心を落ち着かせた。
次の瞬間。
「連絡する!」
声が、勝手に飛び出す。
思ったより大きかっただろうか。
通勤途中の人が振り返る。
何人かは、正太朗をじっと見た。
その視線で、はっとする。
(まずい)
顔。
知られている存在。
玲子は一瞬、足を止めた。
ほんの少しだけ肩越しに、小さく会釈する。
振り返らない。
その会釈は、
“聞こえたよ”
という返事みたいだった。
正太朗はパーカーのフードを深くかぶると、自分も背を向けて歩き出した。
その背中を、玲子が見つめていたことも知らずに。




