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第十四章 やさしい境界

月曜日。


玄関の前で、やわらかく手を振る。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


扉が閉まると、部屋は静かになった。


足音が遠のいていく。

その音が消えたあとで、背を向ける。


廊下を抜け、リビングに入る。


香ばしいバケットのにおいが残っている。

さっきまであった気配は、もうない。


そのまま、奥の扉へと視線を向けた。


母親は、ゆっくりと歩き出す。


ドアに手をかける。

この先に踏み込んでいいのか。


指先が、木目をなぞる。


そっと押す。

扉は、音もなく開いた。


部屋の中は、整っていた。


必要なものだけが、きちんと収まっている。


年頃の女性の部屋にしては、少しだけさみしい。


母親は、ベッドの手前に置かれたチェストの前で足を止めた。


一番上の引き出しに、手をかける。


指先が、取っ手の上でためらう。


それでも、引いた。


見られたくないものを入れているのだろう。


昔から、そういうところがあった。


家具が変わっても、その癖だけは変わらない。


引き出しの奥、畳んだハンドタオルの下に、スマホが半分だけ隠れていた。


母親は、それをしばらく見つめる。


「やっぱり…」


娘は、距離を置いている。


少し前、玲子はスマホを落としたと言っていた。


ごまかしたのだろう。


あのときの言い方に、違和感が残っていた。


玲子は、そういう子ではなかったはずだ。


大事なものを、落とす子ではない。


母親は、スマホに手を伸ばした。


電源ボタンに触れたまま、指先だけが沈む。


押し込むと、画面がゆっくりと明るくなる。


不在着信と未読のメッセージ。

同じ番号が、並んでいる。


名前は表示されていない。


どれにも、返信された形跡がない。


母親は発信ボタンに指を乗せた。


「出るかしら…」


男か、女か。


どんな相手なのか。


呼吸を整え、その声を待った。


 *


スマホが震えた。


テーブルの上のスマホに、視線を落とす。


表示された名前に、眉が動いた。


胸の奥で、鼓動がとくん、とくんと鳴る。


表情はそのままに、胸の内だけが静かにざわついた。


玲子からだった。


「出ないの?」


隣のメンバーが、軽く覗き込む。


「……いや」


短く返して立ち上がり、スマホを手に取る。


「ごめん、ちょっと外す」


軽く手を上げて、その場を離れた。


廊下に出ると、扉が閉まる。


周囲の音が遠のき、正太朗は通話ボタンを押した。


「もしもし! 桧山?」


「玲子ちゃんじゃないわ」


やわらかい声が、耳に届く。


正太朗は、眉を寄せた。


誰だ。


「今、玲子ちゃんに会いに日本に来ているの」


すぐには呑み込めず、ひと呼吸遅れて気づく。


母親か。


「急にごめんなさいね」


「いえ……」


玲子に、なにかあったのか。


「少しお茶できない?」


「え……?」


思ってもいなかった言葉に、返事が途切れた。


差し迫った話ではなさそうだ。


「あ、少しなら出られます」


「よかった」


受話口の向こうで、ふふっと小さな笑いがこぼれた。


「どこに向かえばいいですか?」


「そうねえ…」


ひと息、考えるような間があった。


まさか、決めてないわけじゃないよな。


「おととい、玲子ちゃんとたまたま入ったカフェがおいしかったのよね」


いや、どこだよ。


「お店の名前は?」


「うーん……偶然通りかかっただけなのよ。あ、ちょっと待って」


かすかな物音が聞こえる。


「あったわ、レシート。住所とお店の名前言うわね」


紙をめくる音のあと、ゆっくりと言葉が続く。


「……ここ、わかるかしら」


「はい、大丈夫です」


入ったことはないが、店の外観は思い浮かんだ。


「よかった。じゃあ、先に行ってるわね」


「すぐ行きます」


「ええ、気をつけていらしてね」


通話が、やわらかく途切れた。


正太朗は、しばらくスマホを見つめていた。


現実感が、遅れてくる。


玲子の母親と会うという事実だけが、静かに残った。


 *


テラス席に出る。


昼の光が、思っていたよりも強い。


見下ろすと、通りを行き交う人の流れが目に入る。


その奥に、ひとりの女性が座っていた。


すぐにわかった。


小学校の頃、授業参観で見かけたことがある。


教室の後ろに立つその人を見て、女子たちが小さく騒いでいた。


——可愛い、って。


驚くほど、あのときのままだった。


玲子の母親だった。


正太朗は、ゆっくりと歩み寄る。


母親は、気配に顔を上げた。


「あら」


やわらかく、目を細める。


「電話でお話した方よね? 来てくれたのね」


正太朗は、軽く頭を下げた。


「……お久しぶりです」


母親は、きょとんと目を丸くした。


「え?」


「小学校のときに、授業参観でお見かけしたことがあって……」


「小学校?」


綺麗な顎に手を添える。


「五年生から、卒業まで一緒でした」


「小学校の卒業式……ああ!直前まで玲子ちゃんのお洋服迷ったのよね」


思い出すところ、違くないか…。


「あの頃のお友達と、まだつながっていたのね」


「……いえ、最近、再会して」


「まあ! そうだったの」


再会と聞いて、母親はどこか楽しそうだった。


いや、むしろ。


ロマンチックな再会だったほうが、よかったのかもしれない。


「でも……」


母親の次の一言に、正太朗はカップに口をつけたまま、視線だけを上げた。


「玲子ちゃん、あなたのこと見かけたとき、どうしてあんなに驚いた顔してたのかしら」


「え?」


正太朗はカップを置いた。


思ったより、強く音が鳴る。


かしゃん、と音が鳴り、母親は少しだけ目を丸くした。


「いつですか、それ!」


「え、一昨日よ」


少しだけ首をかしげる。


「あなた、そこの道歩いていたでしょう? 女の子と」


女?


一昨日……。


思い出そうとする。


けれど、すぐには浮かばない。


「私、ちゃんと『お知り合い?』って聞いたのよ。それなのに、玲子ちゃんってば、なんでもないっていうんだもの。ここのケーキ、二回目だけど、やっぱりおいしいわね。あら、甘いもの苦手だったかしら」


「あ、いえ。いただきます」


フォークを入れながら、記憶をたぐる。


ふいに、顔が浮かんだ。


同じ事務所の、新人モデル。


CRAQのファンだと言って、話しかけてきた。


「思い出しました。同じ事務所の子です」


「事務所?」


母親が小さく首をかしげる。


「仕事の関係で……」


「あら、そうなのね」


それ以上は聞かず、母親はバッグの中からスマホを取り出した。


テーブルの上に、そっと置く。


画面には、着信履歴が表示されていた。


正太朗は、視線を落とす。


そこに並んでいた番号を見た瞬間、思考が止まった。

見間違いじゃない。自分の番号だった。


名前は、表示されていない。

ただの番号として、並んでいた。


カップを持つ手が、強ばる。


「これ、玲子ちゃんのなの」


母親は、やわらかく言う。


「あなたからの着信、出ていないみたいね」


責めるような調子ではない。

ただ、事実だけを静かに置いていく。


正太朗は、何も言えなかった。


「玲子ちゃんは、どうして嘘をついているのかしら」


母親の声が、静かに重なる。


正太朗は、視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐いた。


「……たぶん」


言葉の前に、間が落ちる。


「会いたくなかったんだと思います」


「実はね、日本に来たの」


視線をやわらげる。


「玲子ちゃんを、ノルウェーに連れて帰ろうかと思って」


ティーカップに指先を添える。


「最近、元気がなかったみたいだし。ノルウェーに帰れば、きっと元気になると思うの」


母親は、紅茶を一口飲んだ。


「ノルウェー……」


正太朗は、小さく呟く。


母親は、やわらかく微笑んだ。


「玲子ちゃんに会いたくなったら、いつでも遊びに来て」


軽い調子だった。


遠い場所の話をしているとは思えないほどに。


「……待ってください。連れて帰るのは、嫌です」


母親は、きょとんと瞬きをした。


「まあ……どうして?」


「ちゃんと……話させてください」


顔を上げられない。


膝の上で、ぎゅっと手を握る。


母親は、しばらくその様子を見つめていた。


「帰るのは、少しだけ待つわね」


まるで、天気の話でもするような調子だった。


「玲子ちゃん、頑固なところがあるから大変よ」


くすっと、やわらかく笑う。


「また会いましょう」


そう言って、母親は席を立った。


軽やかな足取りのまま、店を出ていく。


正太朗は、しばらく席を立てなかった。



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