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第十三章 やさしい視線

あれから、どれくらいたったんだろう。


指折り数えようとして、やめた。


時間の感覚が、うまく掴めない。


いつも通り、朝が来て。


いつも通り、仕事に行って。


いつも通り、帰ってきたはずなのに。


あの日のことを、考えないようにしていた。


思い出せば、息が詰まりそうになるから。


それでも——

ふとした瞬間に、浮かんでくる。


玲子は、エレベーターに乗り込むと壁に体を預けた。


正太朗と話したあの場所が、扉で見えなくなった。


鍵を開け、玄関のドアを開けた。


玄関の明るさに、目を細める。


どうして、電気がついているの。


玲子は、玄関のライトを見上げた。


奥から、ふわりと紅茶の香りが漂ってくる。


足元に目を落とすと、花柄のパンプスがきちんと揃えて置かれていた。


リビングの扉を開ける。


そこにいた。


ティーカップが、そっと受け皿に戻される。


小さな音が、部屋に落ちた。


かわいらしい顔が、ふんわりと微笑んだ。


「おかえりなさい、玲子ちゃん」


「ママ……」


「玲子ちゃんとケーキでも食べようと思って、来ちゃった」


玲子の母は、ソファから立ち上がると台所へ向かった。


「連絡くれれば、迎えにいくのに」


「だって、玲子ちゃん仕事中でしょ? タクシーがちゃんとここまで送ってくれたわよ」


それは、そうだろう。


住所を伝えれば、ここまで来るくらい、難しくもない。


スーツから普段着に着替えて、リビングに戻ると玲子の分の紅茶も置かれていた。


「明日は土曜日だからお休みよね? 一緒にお買い物行きましょ」


「明日は仕事なの」


「えー」


残念そうに、母親が眉を下げる。


「一日くらい休んでも大丈夫よ。あ、パパに言っておいてもらいましょ」


「ママ……そういうの、職権乱用っていうんだよ」


玲子は呆れ気味に小さく呟く。


「そんな難しいこと言わないで。一日くらい、誰も困らないわよ」


玲子は、言葉に詰まった。


明日は、少し書類を整理するだけのつもりだった。


一日休んでも、たしかに困ることはない。


「……うん」


小さく、頷く。


その瞬間、母は花が咲いたみたいに顔を明るくした。


 *


手には、小さな紙袋がいくつか。


靴や、洋服。


歩くたびに気になる店に入るものだから、大きいものは後で届けてもらうことになった。


それでも少し、買いすぎじゃないだろうか。


「ママ……そろそろ」


「えー。だって、玲子ちゃん、全然ママと買い物行ってくれないんだもの」


楽しそうに笑いながら、もう次の店に足を向けている。


「せっかくの、女ふたりでのお買い物でしょ」


玲子は、言葉を飲み込んだ。


いくつか店を回って、気づけば、紙袋はまた増えていた。


店内で品を選ぶ母親をあとを追っていると、店員が紙袋をにひとつにまとめてくれる。


「玲子ちゃん、見て! このワンピース素敵よ!」


ワンピースというよりもドレスだ。


「…どこに着ていくのよ」


「いつパーティーがあるかわからないじゃない?」


「あったとしても、行くのはパパとママだけでしょ」


玲子は、母親の手からドレスを受け取り、ポールに戻した。


「パーティーの予定が入ったら、そのとき買ってもらうから」


このままでは、ショッピングエリアから抜け出せない。


通路を抜け、建物の外へ出る。


歩き続けているうちに、人の流れが少しずつまばらになっていく。


ショッピングエリアを抜けると、外の光が一気に視界に広がった。


木々の間を抜けるように、ゆるやかな道が続いている。


買い物袋を揺らしながら、そのまま歩く。


遠くで、子どもの笑い声がした。


玲子が小さいころは、お弁当を持って家族三人で公園に来たものだ。


娘の成長を喜ぶ気持ちはある。


それでも、ひとりで日本に行ってしまったことを思うと、少しだけ寂しさも残る。


母親は、歩みを緩めて何気なく娘に視線を巡らせた。


その視線に玲子も気づく。


「ママ、どうかした?」


「ううん、なんでもない。玲子ちゃん、すっかり大人になったなって」


「なによ、それ」


小さく笑って、玲子はまた歩き出そうとする。


「見て、玲子ちゃん、あのカフェ素敵じゃない?」


母親の声に、足を止める。


木々の向こう、通りに面した一角に、テラス席のあるカフェが見えた。


「入ってみましょ」


母親は、ためらいもなく歩き出す。


玲子も、その後ろを追った。


ガラス扉を押すと、やわらかい空気が流れ込んできた。


外のざわつきが、少し遠くなる。


母親が、ケーキセットを二人分頼む。


玲子は、テラス席から歩道を眺めていた。


ウッドデッキで、歩道より少し高くなっている。


目の前を行き交う人の流れが、ゆっくりと目に入る。


そのとき——


視界の端に、見覚えのある横顔が入った。


正太朗だった。


その隣に、女性がいる。


横顔のまま、何かを話しているようだった。


少しだけ顔を傾けて、相手のほうを見た正太朗は、笑っていた。


正太朗が女性と歩いていても、不思議ではない。


小学生の頃だって、女子に囲まれていた。


今は、人気グループの一員だ。


だから、おかしいことじゃない。


「ありがとう」


ケーキセットを運んできた店員に母親が笑顔で礼を言う。


玲子に向き直ると、その視線の先を不思議そうに追った。


「玲子ちゃん、どうかしたの?」


視線の先と玲子の顔を交互に見る。


「知り合い?」


何気ない調子で、続ける。


「……ううん。似てる気がしただけ」


平静を装って、玲子はケーキにフォークを入れた。


「そう」


母親は、やわらかく頷いた。


それ以上は何も聞かず、紅茶に口をつける。


その仕草は変わらないまま、視線だけが一瞬、玲子と、通り過ぎて行く正太朗の背中に向いた。


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