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第十二章 近くて、遠い

遠ざかっていく足音が、やがて聞こえなくなった。


エントランスに、静寂が落ちる。


玲子は、動けなかった。


背中に触れている壁の冷たさだけが、やけに鮮明だった。


呼吸の仕方を忘れたみたいに、吸った息を飲み込んだ。


さっきの正太朗の声が、頭の中で何度も反復する。


――ふざけるな!


――勝手に決めつけるな!


私が間違えてるの?


私が何を決めつけてるの?


わからない。


視線が、足元に落ちる。


さっき落としたバッグが、そこにあった。


拾わなきゃ。


そう思っているのに、体が動かない。


代わりに、指先だけが小さく震えている。


あんな風に、誰かに大きな声を向けられたことはなかった。


ガラス扉に映る自分の姿。


走った名残と湿気と汗でボサボサの髪。


テレビで見た正太朗は、踊り終わっても息一つ乱れていなかった。


その正太朗が、さっきまで息を切らして玲子の前にいた。


もう関わることなどないと思っていたのに。


  *


正太朗は、大股で歩き続けた。


足を止めたら、来た道を走って戻ってしまいそうだった。


胸のざわつきが、消えない。


正太朗は、髪に手を突っ込み、ガシガシと掻いた。


玲子に会いたくて。


謝りたくて。


ただ、それだけで追いかけた。


その先のことなんか、考えてなかった。


――ふざけるな!


――勝手に決めつけるな!


湿気を含む風がまとわりつくかのように、さっき吐いた言葉が頭の奥にこびりついて離れない。


指先が白くなるくらい、拳を握りしめた。


言ってしまった。


玲子を見つけて、玲子が日本にいてくれたことに喜んでいたはずなのに。


謝って、玲子とちゃんと向き合ってみたかった。


責めるつもりなどなかったのに。


車を止めてある駐車場まで戻ってきたものの、正太朗は車に乗り込む気になれなかった。


「……なんでこうなるんだよ」


バン、と車のボディを叩く。


その音が静かな住宅街に響いていた。


 *


正太朗は、車に乗り込んだ。


エンジンをかけて、ゆっくりとアクセルを踏んだ。


街灯に照らされた住宅街を抜け、夜の街へ出た。


あと信号をひとつ越えれば、見慣れた通りに入る。


無意識に、ハンドルを切っていた。


前方に、記憶に新しい建物が見える。


エントランスの明かりだけが、静かに浮かんでいた。


速度が、わずかに落ちる。


視線が、引き寄せられる。


人影が見えた気がして、思わずブレーキを踏み込んだ。


突然の減速に、体が前に揺れる。


ドアハンドルに手をかけ、ガラス扉の向こうに目を凝らす。


出てきたのは、見知らぬ女性だった。


正太朗の車を怪訝そうに一瞬見た後、何事もなかったように通り過ぎていく。


正太朗は、身をかがめるようにしてマンションを見上げた。


どの部屋なのかも、わからない。


そのまま、アクセルを踏んで、マンションの前を通り過ぎた。


バックミラーに、エントランスの光が小さく映る。


すぐに、それも見えなくなった。


正太朗は、前を向いたままアクセルを踏む。


ハンドルを握る。


ブレーキを踏む。


ウインカーを出す。


交差点を曲がる。


手も足も、正確に動いていた。


それでも、どこを走っているのか、考えていなかった。


信号をいくつか越える。


止まり、進み、また止まる。


その繰り返しの中で、時間だけが過ぎていく。


ふと、視界に建物が入る。


そこで初めて、自分がどこにいるのか気づいた。


自分のマンションの前だった。


車をゆっくりと駐車場に入れる。


エンジンを切ると、静寂が車内に落ちた。


しばらく、そのまま動かなかった。


やがて、ドアを開ける。


外に出ると、地下の駐車場は少しひんやりしていた。


ドアを閉める音が、やけに大きく響く。


そのまま、エントランスに向かう。


エレベーターの前で、立ち止まる。


ボタンに手を伸ばして——

そのまま、止まった。


押せなかった。


ゆっくりと、手を下ろす。


正太朗は、そのまま背を向けた。


エントランスを出る。


行き先は、決めていない。


それでも、足は止まらなかった。


暗がりの中に、看板が浮かんでいる。


一瞬だけ迷って——

正太朗は、扉を押した。


 *


ドアが開く。


うつむいたまま、正太朗が入ってくる。


カウンターの端、いつもの席に腰を下ろす。


マスターが、ちらりと顔を上げる。


「ひどい顔だな」


「……いつもの」


マスターは何も聞かずにグラスを取り出すと、水の入ったグラスを滑らせる。


「そんなんで飲んだら、悪酔いするぞ」


正太朗は、何も言わずにグラスを掴む。


そのまま、一気に飲み干した。


喉が鳴る。


空になったグラスを、カウンターに置く。


「……一杯だけでいいから、くれよ」


マスターは、何も言わなかった。


棚からボトルを取り出し、グラスにゆっくりと酒を注ぐ。


正太朗の前に、静かに置いた。


正太朗は、グラスを見つめたまま動かない。


ふと、肩越しに振り返る。


テーブル席が、視界に入る。


玲子と座った場所。


今は、誰もいない。


正太朗の視線を追うように、マスターもちらりとそちらを見る。


すぐに、何もなかったかのように視線を戻した。


「……あいつが、遠い」


正太朗は、しばらくそのまま動かなかった。


やがて、グラスを持ち上げ一口含む。


そのまま、ゆっくりと喉に落とした。


言葉は、続かなかった。


もう一度グラスを傾ける。


今度は、ゆっくりと。


マスターは、何も言わない。


布巾でグラスを拭く手だけが、静かに動いている。


店内の低く流れる音楽の中、正太朗は静かに目を閉じた。



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