第十一章 遅すぎた衝突
歩行者信号が赤になる。
玲子は足を止めた。
後ろから歩いてきた人たちも次々と止まり、あっという間に小さな人だかりができる。
正太朗も足を緩めた。
もう見失う心配はない。
距離は、二十五メートルほど。
ただの信号待ちなのに、先頭にいるのが、なんだか落ち着かない。
後ろから、玲子の靴に何かが当たった。
振り向くと、傘が倒れていた。
そういえば、今朝は少し小雨が降っていた。
街灯に照らされて、水たまりが鈍く光っている。
「あ、すみません」
「いえ、大丈夫です」
謝ってきた制服を着た女の子に、玲子は笑みを向ける。
顔を上げた、その瞬間――
人々の肩越しに、玲子の目は正太朗を捉えた。
目が、合った気がした。
ドクンと心臓が鳴る。
気のせいだ。
これだけ離れていて、目が合うはずがない。
たまたま、正太朗もこの道を歩いているだけだ。
でも――
玲子は、もう一度顔を上げる自信がなかった。
信号はまだ赤だ。
後ろの人の列が、玲子の姿を隠してくれる。
半歩動いた足が、コツ、と鳴る。
玲子は横にいる人の前をすり抜けた。
渡るはずだった横断歩道には向かわない。
そのまま、角を曲がった。
「お、おい…!」
角を曲がっていく玲子の姿が、わずかに見えた。
まさか逃げられると思っていなかった正太朗は駆け出した。
細い路地。
住宅街に続く、静かな道だった。
玲子は振り返らない。
ハイヒールのまま、走る。
跳ねた水たまりが、ストッキングを濡らした。
路地の先へ飛び出す。
クラクションが鳴った。
車が急ブレーキを踏む。
「止まれって! あぶねえから、桧山!」
ほっと息をついたドライバーに手を挙げる。
正太朗は車を先に通らせた。
せっかく縮んだ距離が、また広がる。
だが、正太朗のほうが体力もある。
足も速い。
しかも相手はハイヒールだ。
『追えば逃げるぞ、ああいうのは』
ふいに、マスターの言葉を思い出した。
強引な自覚はあった。
追えば逃げてしまう。
それでも、もう何も知らないまま後悔するのは嫌だった。
ならば、追い続けるしかない。
路地の先に、マンションが見えた。
玲子もそれに気づいている。
あと少し。
あそこまで行けば――
玲子の足が速くなる。
気を抜けば、足をくじいてしまいそうだ。
ハイヒールがアスファルトを叩く。
正太朗も速度を上げた。
距離は、まだある。
だが――
追いつける。
玲子はマンションのエントランスへ駆け込んだ。
肩で息をしながら、手早く数字を打ち込む。
ガラス扉が開く。
扉が完全に開き切る前に、玲子はその隙間をすり抜けた。
口に当てた手が震えている。
もう、大丈夫。
そう思って、振り返る。
閉まりかけた扉に、正太朗が体をねじ込んだ。
玲子の呼吸が止まる。
「どうして……」
一歩、後ずさる。
もう一歩。
背中が壁に触れた。
逃げ場がない。
「見つけた」
さすがの正太朗も息が切れていた。
「やっと掴まえた」
玲子には、わけがわからなかった。
正太朗がこうして追ってきた理由も。
『やっと』の意味も。
玲子の瞳が揺れている。
困ったように。
まだ息が整わない正太朗は膝に手をついたままだ。
階段の入り口、エレベーター。
玲子の視線が流れる。
どちらに逃げるか、一瞬で測る。
今なら、行ける。
一歩、踏み出した。
その瞬間、正太朗の腕が伸びた。
玲子の行く手を、静かにふさぐ。
「電話も繋がらない…メッセージも返ってこない…SNSまで消えた…」
逃げようとしていた足が、止まる。
玲子の肩が、かすかに震えた。
視線の先に、一本のたくましい腕。
その向こう側が、やけに遠い。
「なあ、もういいだろ…」
「私じゃないって言ってるのに、どうして…」
「ごめん」
突然の謝罪に、玲子は顔だけ正太朗のほうを向いた。
「ただずっと謝りたかったんだ…俺が桧山の場所を奪ったから…」
玲子はやっぱり認めてくれない。
壁は厚く、高い。
「どうしたら返せる…?」
力が抜けた玲子の肩から、ドサッとバッグが落ちた。
「……教えてくれよ。どうして何も言ってくれないんだ…」
「……無理だよ」
「戻してくれ。俺のせいだとしても、受け入れられないんだ。何でも手伝うから」
両手で顔を覆って、玲子が首を横に振る。
「誰にも言ってない。これからも…」
「違うの…違う」
不思議そうに、正太朗は眉を寄せた。
「もうないの…全部なかったことにしたかったから…」
「消したのか…?」
玲子は黙って頷いた。
「どうして、そこまでしたんだよ」
肩から力が抜けに、壁についていた正太朗の手がずるりと垂れた。
「……私がSNSなんて始めなければ」
玲子の震える声を、正太朗は黙って聞いていた。
歌声を失った衝撃を、すぐには受け止めきれなかった。
「本多君と、こうして再会することもなかった」
うなだれるように視線を落としていく玲子を、正太朗はただ見下ろしていた。
「傷つけることも、なかった」
「…なんだよ、それ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「俺がいつ傷ついたって言った!?」
動き出した感情は止まらない。
「桧山はいつもそうだ。何でも自分で決めて」
あのときも、引きとめられなかった。
こんなの八つ当たりだ。
だめだ。
これ以上言ったら。
頭の中でサイレンが鳴る。
「ふざけるな!」
正太朗の大きな声がエントランスに響く。
玲子がおびえたように、びくりと肩を震わせたのも見て取れた。
それでも悔しくて仕方なかった。
「俺の気持ちを勝手に決めつけるな!」
玲子は何も言えなかった。
正太朗は、そのまま背を向けた。
遠ざかっていく足音。
玲子は、その場に立ち尽くしていた。




