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第九章 境内の面影

正太朗は目を覚ました。


スマホに指を滑らせる。


『ユーザーは存在しません』


夢じゃなかった。


着信もメッセージもない。


玲子が、また自分の前からいなくなる。


いや。


最初から、そばにいたわけじゃない。

勝手に追いかけていただけだ。


俺のせいだ。


まだ、ちゃんと謝れていないのに。


謝ろうとしても、動けない。


玲子がどこにいるのか知らない。


全部、偶然だった。


公園も。

横断歩道も。


  *


正太朗は車のキーを手に取った。


めずらしく、車を出すことにした。


今日は一日オフだ。


家にいても、何も変わらない。


エンジン音が地下の駐車場に響く。


正太朗は車を走らせた。


どこへ行くあてもなかった。


気がつけば、車は実家の近くまで来ていた。


懐かしい家並み。


実家を少し通り過ぎ、昔はなかったコインパーキングに車を止めた。


車を降り、辺りを見回す。


昔、ここに何があったのか思い出せない。


実家の玄関を開ける。


「ただいま」


予期せぬ息子の帰宅に、正太朗の母親は驚いた顔をのぞかせた。


「どうしたの、急に」


「ちょっと近くまで来たから寄っただけ」


正太朗は適当に嘘をついた。


「何か飲む?」


「お茶でいいよ」


実家で暮らしていた時の定位置に、正太朗は腰を下ろした。


母親がポットから急須にお湯を注ぐ。


立ち上る湯気を眺めながら、正太朗はぽつりと口を開いた。


「なあ……桧山って覚えてる?」


「ヒヤマ?」


息子の突然の問いに、母親は急須を一度置き、記憶を探る。


「引っ越してきただろ」


新興住宅地でもないこの地域に、転入生は珍しかった。


「ああ、桧山さんね。あのかわいい奥さん」


母親の頭に浮かんだのは、玲子ではなく玲子の母親だった。


十八歳で玲子を生んだ玲子の母親は、周りの母親たちと比べて明らかに若かった。


後ろに花畑でも浮かびそうな、ふんわりとした雰囲気の人だった。


その存在は、周囲の母親たちの中で少し浮いていた。


それでも、物腰の柔らかさと明るい性格で、他の母親たちに馴染むのに時間はかからなかった。


「桧山さんちがどうかしたの? たしか卒業式のあと引っ越したんじゃなかった?」


「……知ってたのかよ」


母親が、少しバツの悪そうな顔をする。


「もう昔の話じゃない」


母親は、湯呑みにお茶を注ぎながら続けた。


「桧山の奥さんに止められてたんだよ。娘さんが、誰にも知られたくないって言ってるって」


父親の仕事の都合で、転校を繰り返していた玲子。


玲子が学校で一人でいることを、両親も薄々感じ取っていた。


それでも、玲子は両親に心配をかけまいと、学校でのことを聞かれれば笑顔で答えていた。


転校を知られたくないと言った娘の本心を、両親は否定できなかった。


「あのときは私たちも何も言ってあげられなかったんだよね」


玲子の母親は、きれいな眉を少し下げていた。


いつも笑顔の人なのに、そのときだけ困ったような、どこか寂しそうな顔をしていた。


若くて可愛くても、子どもを想う母親の顔だった。


「どこに引っ越すって言ってたっけ…」


なかなか思い出さない母親を、急かしそうになる。


「あまり聞いたことのない国だったんだよね」


「……海外かよ」


「ノルウェー」


妻と息子の会話をここまで黙って聞いていた父親が、新聞を読みながら、顔も上げずに答えた。


玲子の母親から引っ越しの話を聞いた日の夜。

子供たちが寝てから、母親は父親に聞いていた。


「ねえ、お父さん、ノルウェーってどのへんだっけ?」


「ノルウェー…?」


唐突に妻の口から出た、はるか遠くの国。


父親はリビングの片隅に置いてあった地球儀を持ってきて、その場所を教えたことがあった。


「日本に帰ってくるかわからないって言ってたけど、今ごろどこで暮らしてるんだろうね」


母親は、懐かしそうにお茶をすすった。


正太朗は黙って湯呑みに手を伸ばした。



正太朗は実家を出て、駐車場とは反対の方向に歩き出した。


鳥居の前で、ぴたりと足を止める。


正太朗はゆっくりと、一段一段、階段を上っていった。


境内は、何も変わっていなかった。


薄暗くて、どこか不気味な感じさえする。


玲子が腰を下ろしていた岩も、まだそこにあった。


少女の姿が見えた気がした。


長い髪を揺らしながら、岩に腰を下ろしている。


小学生のころの玲子だった。


正太朗は、静かに目を閉じた。


耳に、かすかに流れ込んでくる歌声。


正太朗の体が、わずかに揺れる。


腕がゆっくりと上がる。


空気をすくうように、やわらかく弧を描く。


足はほとんど動かない。


上半身だけが、歌に寄り添うように動いていた。


誰かに見せるためじゃない。


ただ、歌に合わせて、勝手に体が動いていた。


ふいに差し込んだ光の眩しさに、正太朗は瞬きをする。


そこにはもう、誰もいなかった。


かつて玲子が座っていた、その場所に、正太朗は腰を下ろした。


ひんやりとした感覚。


見上げると、生い茂った木々の隙間から木漏れ日がきらきらとこぼれていた。


もう、不気味な感覚は消え去っていた。


玲子が見ていた景色を、正太朗もようやく手に入れた。


  *


正太朗は、ゆっくりと立ち上がった。


石段を下りはじめる。


境内から吹いた風が、正太朗の頬を撫でた。


憂いのない軽い足取りで、少女が正太朗の横をすり抜ける。


その面影は、そのまま鳥居に吸い込まれるように消えていった。


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