第2話 市場の影
保護区の朝は早い。
アオイと母は、薄いトートバッグを抱えて市場へと足を運んでいた。
舗装の剥がれかけたアスファルトの道には、露天商が並び、古びたテントの下で野菜や米、缶詰が雑多に並んでいる。
「今日は大根と……あとお味噌も買わなきゃね」
母が小さなメモを確認しながら歩く。
アオイはふと、周囲の人々の視線を感じた。
市場を歩く人々は互いに挨拶を交わすが、その声色の裏には、常に一抹の疑心が混じっている。
「この人は本当に“無能力者”なのか?」
そんな目に見えない不信感が、空気を澱ませていた。
すぐ近くの八百屋の前で、二人の中年男性が立ち話をしていた。
「聞いたか? この前の襲撃事件……また能力者どもがやらかしたらしい」
「知ってるさ。あいつらは生まれつき危険なんだ。どうせなら、保護区の外に全部追い出せばいいのによ」
「追い出すだけじゃ足りねぇよ。THEMISも甘い。逸脱個体は問答無用で“執行”すればいいんだ」
その言葉に、アオイの胸がぎゅっと縮む。
執行――それはTHEMISの最も冷酷な手段。能力者犯罪者、あるいは制御不能と判断された者は、裁判もなく即時に“消去”される。
その様子はしばしばニュースで流されるが、黒いスーツに赤光を纏った執行官が対象を押さえ込み、THEMIS専用武装兵器を起動した瞬間、全てが光と音に呑まれる。
「……」
アオイは言葉を失い、握っていたバッグの紐を強く掴んだ。
母が気づいて小声で囁く。
「アオイ、気にしなくていいのよ」
「でも……なんで、そんなに……」
「人はね、恐れるものを排除したがるの。特に、力を持つ者は、力を持たない者から見れば“怪物”にしか見えないのよ」
母の声は静かで優しかったが、同時に諦めが滲んでいた。
アオイは唇を噛みながら、母の言葉を反芻する。
――怪物...
彼女の胸の奥で、またあの熱がざわりと揺れた。
それは不安とも恐怖ともつかない、形のない脈動。
「……お母さん、私、変じゃないよね?」
思わず洩らした言葉に、母は驚いたように振り向いた。
そしてすぐに、ふっと微笑む。
「変? あなたは普通の子よ。ちょっと気が弱くて、でも誰よりも優しい子」
アオイは小さく頷いたが、心の奥に潜むざわめきは消えなかった。
まるで、自分の存在そのものが“普通”であることを拒んでいるかのように。
***
市場で買い物を済ませ、アオイと母は夕暮れの帰路についていた。
鉄柵に沿って伸びる舗道を歩くと、金属の冷たい匂いと監視塔からの光線が肌を刺すように降り注ぐ。
「なんか、今日は人が多かったね」
アオイがぽつりと漏らす。
母は頷き、袋を持ち直しながら周囲を気にしていた。
「最近は市場の品も減ってるのよ。外からの搬入が滞ってるみたい。能力者絡みの事件が増えて、輸送ルートが安全じゃないんだって」
アオイは口をつぐんだ。
“能力者絡み”――その言葉は、今や何より重く、誰もが嫌悪と恐怖を込めて口にする。
その時だった。
柵の向こう側、保護区外の大通りを一台の黒い装甲車が通り過ぎるのが見えた。
後部扉が開き、中から連行される人影があった。
「……っ」
アオイは思わず立ち止まり、息を呑んだ。
引きずり出されたのは、若い男性。
腕には赤か光る拘束具の一部が嵌められている。
目隠しをされ、口には猿轡。体中が傷だらけで、それでもなお、彼の周囲には空気の揺らぎが漂っていた。
「あれ……顕在能力者だわ」
母が低い声で告げる。
兵士のひとりが市民に向かって拡声器を使う。
「通行人は止まれ! 本日確保された逸脱個体は、潜在から覚醒した危険度Bランクの顕在能力者だ。近づくな!」
周囲の住人たちは、柵越しにその光景を見つめていた。
誰も声をかけない。誰も助けようとしない。
ただ、遠巻きに安堵を漏らす。
「よかった、捕まったんだ……」
「これでしばらくは安心だ」
だがアオイは違った。
恐怖で足が震える一方で、その男性の姿に釘付けになっていた。
確かに危険な存在かもしれない。けれど、その目元から覗いた表情は、ただ必死に生きようとしている人間のものに見えた。
「……お母さん、あの人、どうなるの?」
母は視線を伏せて答える。
「執行部に連れて行かれるわ。……そして、判定が下れば“執行”」
その声にはためらいがあった。
THEMISの執行――即時処分。
裁判もなく、記録からも抹消される。
アオイは心臓を握り潰されるような息苦しさを覚えた。
自分と同じ“人間”が、ただ因子を持つというだけで、ここまで恐れられ、排除される。
そして――その瞬間、彼女の胸の奥でまた熱が揺れた。
逃げられない現実が、じわじわと迫っている。