婚約破棄された悪役令嬢ですが、隣国の王子に見初められ溺愛されました
「マリアンヌ・ディアベル。君との婚約は、破棄させてもらう」
その言葉を聞いた瞬間、会場が静まり返った。王太子アンドリューの言葉に続き、彼は傍らにいた青いドレスの令嬢を腕に抱き寄せる。
「僕は本当の愛に気づいたんだ。クラリッサこそが、僕の運命の相手だ」
私は目を伏せた。当然の結末だ。クラリッサ嬢は私の侍女だったが、最近ではやけに王太子と親しげだった。それでも証拠がない限り、私から彼女を責めることはできなかった。
「貴族院の決議により、ディアベル公爵家は爵位を剥奪、マリアンヌ嬢には王都からの追放を命ずる」
私は微笑んだ。怒りや悲しみなど、とうの昔に捨てていた。
「ご命令、確かに承りましたわ。どうぞお幸せに」
そう言い残し、私は社交界から姿を消した。
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それから一年。私は隣国リュシオンの辺境領に身を寄せ、療養という名のもとに静かな生活を送っていた。だが、その静寂は長くは続かなかった。
「マリアンヌ嬢。リュシオン王国の第二王子、レオニス殿下がお見えです」
私は目を見開いた。なぜ王子が――?
「ご無沙汰しておりました。マリアンヌ嬢。……否、これからは、妻と呼ぶべきかな?」
彼はかつて、王都の外交の場で私と幾度か顔を合わせた人物だった。穏やかで礼儀正しく、どこか翳のある笑みが印象的だった。
「突然の話で驚かれたでしょう。しかし、これは政略ではありません。私は、貴女を救いたいと思ったのです」
それは「白い結婚」だった。形式上は政略結婚だが、男女としての関係を持たず、お互いに干渉しない――そういう建前。しかし彼は、私の瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「……私は壊れているのよ。それでも?」
「それでも、君がいい。壊れたままの君を、守りたい」
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結婚から半年。レオニスは本当に優しかった。私の部屋に花を届け、食事を共にし、誰よりも私の心に寄り添ってくれた。
「クラリッサが王妃の座を狙っていると聞いた。あんな女に、王国を渡すわけにはいかない」
「……放っておけばいいわ。彼らは勝手に堕ちていく」
「それでは足りない」
その夜、彼は私を抱きしめた。
「君が奪われたもの、君が流した涙、そのすべてを――僕が取り戻してやる。僕の権力で、僕の命ででも、君を守る」
それは甘く、狂おしいほどに強い誓いだった。
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数週間後、リュシオン王国は正式にクラリッサとアンドリューを招待し、外交の場を設けた。だが、それは表向きの話。実態は、マリアンヌの名誉回復のための裁きの場だった。
「マリアンヌ嬢への濡れ衣、そして王族にあるまじき不貞行為――すべて証拠は揃っている」
「な、なぜ隣国が……! 我が王国の内政に口を出すな!」
アンドリューの叫びは、レオニスの冷たい一瞥にかき消された。
「彼女は、我が妃だ。そして君たちの行いは、国際的侮辱に値する」
レオニスは手を掲げた。
「クラリッサ嬢には国外追放、アンドリュー殿には王位継承権の剥奪を要求する」
法と外交力を使い、完璧な報復がなされた。王子は騎士たちに囲まれ連行され、クラリッサは泣き叫びながら処刑を免れただけマシだと罵られた。
そして、私は王妃となることなく――復讐を果たした。
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すべてが終わったあと、私はレオニスに言った。
「もう復讐は終わったわ。だから、離縁してもいいのよ。あなたの未来を、私が縛るわけには……」
彼は私の手を取り、静かに微笑んだ。
「僕は最初から、君の夫になるつもりだった。君が望まない限り、僕は君を離さない」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……そう、なら、私からも言わせて。私はあなたと共に生きたい」
初めて、私は誰かに心を許した。そしてそれが、私にとっての“本当の幸せ”の始まりだった。
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「……そろそろ、正式な結婚式を挙げよう」
ある日、レオニスがそう言った。
それは唐突な提案だった。私たちはすでに政略的に婚姻関係にあったし、書類上はとっくに夫婦だった。だが、式は挙げていない。
「今さら式を挙げるなんて、意味あるのかしら」
「ある。君が“誰にも踏みにじられていない”ことを、君自身が証明するために。君が“王子に選ばれた妃”として、生まれ変わる日になるんだ」
彼の言葉は、過去の私に向けられた祝福のようだった。
あの夜会で婚約を破棄され、追放された悪役令嬢。かつて蔑まれ、孤独に泣いた少女。
でも――
「……ええ。挙げましょう、私たちの“始まり”の式を」
私は頷いた。過去に復讐し、未来に誓うために。
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「式場はどこに?」
「王都リュシオン、聖王の礼拝堂だ。リュシオンで最も格式高く、神聖な場所。君にふさわしい」
「ずいぶん……大きな舞台ね?」
「当然だ。リュシオンの民にも、君の存在を知らしめたい。君は、我が国の王妃にふさわしい女性だから」
レオニスは着々と準備を進めていた。ドレス職人、花職人、料理長、すべて王室付きの最高級。政略結婚のときとは段違いだった。
「……王宮で、反対の声は?」
「あるにはあるさ。だが、それを黙らせるのが王族の務めだろう?」
さらりとレオニスは答えたが、その瞳は一切の情を拒絶するように冷たかった。きっと彼は、この式を通じて、国内の反対勢力にも釘を刺すつもりなのだ。
私を「王子の妃」としてだけではなく、「国を背負う覚悟の女」として示すために――。
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そして式当日。
リュシオン王都は祝福の空気に包まれていた。聖王の礼拝堂の鐘が鳴り響き、参列者が厳かに集まってくる。
その中には、あの王国からの使節団もいた。
王太子アンドリューの弟と、新たな王妃代理――もちろん、クラリッサではない。彼女は国外追放のままだ。アンドリューも王位継承権を剥奪されたことで、完全に失脚していた。
「……あの者たち、なぜ来たの?」
「貴族としての体面を保つためさ。“復讐された側”ではなく、“外交関係を結んでいる側”だと誇示するためにね」
レオニスは冷笑を浮かべた。
「でも、構わない。今日は君の舞台だ。過去など、ただの前座に過ぎない」
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私は、鏡の前に立っていた。
着ているのは、真っ白なドレス。誰にも染められていない、純白の輝き。胸元にはリュシオンの王紋が刺繍され、肩には透き通るレースのベール。
「……まさか、自分がこんな日を迎えるなんて」
かつての私は、「結婚式」という言葉を聞くだけで胸が痛んだ。婚約破棄、侮辱、そして浮気――。
でも今は違う。私は、自ら選び、選ばれたのだ。
扉が開かれ、音楽が流れ始めた。
私は一歩、一歩、祭壇へと進んでいく。視線の先には、レオニスが立っている。正装に身を包み、凛とした横顔のまま、私を見つめていた。
「……遅れてごめんなさい」
「いや。君のためなら、何百年でも待てる」
彼のその言葉は、誰よりも優しかった。
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「マリアンヌ・ディアベル。いや、マリアンヌ・リュシオン」
神官の宣言に続き、私の新しい姓が朗読される。
「あなたはこの男を夫とし、永劫の契りを誓いますか?」
「はい、誓います」
「レオニス・リュシオン。あなたはこの女を妻とし、生涯をかけて守ることを誓いますか?」
「命を懸けて、誓います」
神官の宣言とともに、聖なる鐘が三度鳴る。
そして――
「では、誓いの口付けを」
彼の手が私の頬を優しく撫で、唇が触れる。
それは、熱く、深く、すべての過去を溶かしてしまうほどの愛の証だった。
参列者たちは静かに見守り、誰一人として“あの過去”を口にする者はいなかった。もはや誰も、私を「悪役令嬢」などとは呼ばない。
私は、リュシオンの王子の妻、そして新たな未来の象徴だった。
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夜。式が終わり、披露宴もお開きとなった後、私たちはバルコニーで静かに空を見上げていた。
「長かったね……ここまで」
「いいや。やっと始まったんだよ。君と僕の本当の物語が」
レオニスは手を伸ばし、そっと私の髪を撫でる。
「今なら言える。君が、心から欲しい」
「……私も。ようやく、自分を許せた気がする」
私は腕を伸ばし、彼にしがみついた。
あの頃は、自分を憎んでばかりだった。利用され、裏切られ、誤解されて――でも、レオニスだけは違った。
彼は、壊れた私を抱きしめ、治そうとしたのではなく、そのまま愛してくれた。
その愛が、何よりも強く、温かかった。
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「マリアンヌ様、お身体の具合はいかがですか?」
春先の王宮。暖炉の火がまだ名残惜しい季節。侍女のクラリッサ……ではなく、今ではすっかり信頼できるソフィが私の隣で紅茶を淹れていた。
「ええ、少し吐き気があるだけ。もう慣れたわ」
ふわりとお腹を撫でた。私は今、妊娠六か月。レオニスとの間に授かった、待望の第一子。
「もうすぐ蹴ってくる頃ですね。どんな子になるのか……楽しみです」
「きっと、わんぱくになるわ。お父様に似て」
私の夫、レオニス・リュシオン第二王子。私を過去から救い出し、未来を与えてくれた人。今では国内外で絶大な支持を得る“鋼の王子”として、その名を轟かせている。
そんな彼が、私のお腹に耳を当てる姿は――なんとも微笑ましく、可愛らしかった。
「おーい、聞こえるか? ここが君の家だぞ」
「……まだ生まれていないのに、もう教育?」
「当然だ。生まれてすぐに“ママに優しくしろ”って教えないと」
私は吹き出しながら、レオニスの髪を撫でた。
「ありがとう、レオニス。……本当に、あなたに出会えてよかった」
「こっちの台詞だよ。君がいなければ、王宮なんて腐っただけの檻だった」
二人で微笑み合いながら、私は思った。これが、私の“復讐の終着点”――いや、“幸福の出発点”なのだと。
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しかし、安穏な日々は長くは続かなかった。
妊娠八か月目。王都にて、ある噂が流れ始めた。
『ディアベル家の血を引く者が王家に?』『あの悪役令嬢が母になるとは』『復讐のために子を利用しているのでは?』
――くだらない妬みと偏見。それでも、私はもう揺るがなかった。
だが、レオニスは違った。怒りを露わにし、裏でその出所を洗い出していた。
「前王妃派の貴族が動いてる。君と子供を“王族にふさわしくない”と騒ぎ立ててるらしい」
「私はもう大丈夫。でも……この子にまで手を出そうとするなら、黙ってはいられないわ」
私の中に、久々に“あの頃の炎”が灯った。
私はもう、“何もできない悪役令嬢”ではない。
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予定日を半月過ぎた頃、嵐のような陣痛が私を襲った。
「っ、は、あっ……!」
「マリアンヌ、しっかりしろ! 僕が……そばにいる……!」
夜半。王宮中が騒然とする中、レオニスは私の手を握りしめていた。彼の手は温かくて、でも震えていて、まるで彼のほうが泣きそうだった。
「君が命をかけて産んでくれるなら、僕も命をかけて守る……だから、どうか無事でいて……!」
私は叫んだ。痛みに、恐怖に、でも――希望に。
長い、長い夜の果て。
「……マリアンヌ様! お子様が……無事、お生まれになりました!」
「……男の子よ……! お元気な……男の子です!」
息子の産声が、夜空に響き渡った。
レオニスが涙を流していた。あの王子が、人前で涙を見せたのは、私だけが知っている。
「……ありがとう、マリアンヌ……ありがとう……!」
私は力尽きるように目を閉じた。けれど、頬をなでる小さな温もりが、私をこの世界に引き戻してくれた。
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後日、王宮では祝賀式が開かれた。
王太子の座を望まなかったレオニスだったが、「民が望むなら」として、我が子を王太子候補とすることを認めた。
「名は、“ユリウス”。『光を継ぐ者』の意だ」
レオニスがそう宣言すると、王宮に集った貴族たちは静まり返った。まるで、運命が動いた瞬間を目撃したかのように。
「マリアンヌ、君がここまで導いてくれた」
「いいえ。あなたが私を救ってくれたから、私は歩けたのよ」
今、王宮の中心に立つのは、かつて「悪役令嬢」と蔑まれた私と、その私を愛してくれた王子、そしてその間に生まれた新しい命。
私たち三人は、確かに“家族”になったのだ。
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ユリウスはすやすやと眠っていた。私は彼を胸に抱きながら、レオニスの肩に寄りかかった。
「君は、もう“悪役”なんかじゃない」
「ふふ、でもあの頃があったから、今の私がいるのよ」
「じゃあ、僕は“溺愛しすぎてちょっと暴走した王子”ってことか?」
「ええ、認めるわ。ちょっと、じゃないけどね」
私たちは声を押し殺して笑った。
レオニスがそっと囁いた。
「マリアンヌ、君は僕のすべてだ。君がいるから、この国を信じられる。君が産んでくれた子がいるから、未来を怖れずにいられる」
「私も……。あなたがいるから、何も怖くないわ」
手を重ね、唇を重ね、私たちは静かに夜を越えていく。
もう、復讐はいらない。後悔もいらない。
ただ、目の前にある温もりと、小さな命と――この人を守っていければ、それでいい。
それがきっと、私にとっての“本当の幸せ”だから。