第九章 名前を超えて、向き合う
週明けの日曜日。
朝から落ち着かない気持ちを抱えながら、美由紀は鏡の前で髪を整えていた。
レナの両親に会う。
それは美由紀にとって、これまで避け続けてきた“他者”の視線と向き合うということだった。
「大丈夫。わたしは、美由紀として行く」
手のひらがほんの少し汗ばむ。
でも、その決意は確かなものだった。
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レナの実家は、少し郊外にある落ち着いた住宅街の中にあった。
玄関前で深呼吸をひとつして、美由紀はインターホンを押す。
「いらっしゃい、美由紀」
出迎えてくれたのはレナの母だった。柔らかな微笑みの裏に、計りかねる思いがにじんでいた。
リビングにはレナの父もいた。無言のまま、目を合わせることなくお茶を差し出す。
重たい空気。
けれど、レナが美由紀の隣に座って、はっきりと口を開いた。
「お父さん、お母さん。紹介します。
彼女は美由紀。わたしの、大切な人です」
“彼女”という言葉に、わずかに母の眉が動く。
父は茶碗を持ち上げる手を止めた。
「……そうか」
たった一言。
けれど、その声には拒絶とも肯定ともつかない、揺れる戸惑いがあった。
「どうして“彼女”なんだ?」
父がぽつりと問いかける。
「その人が、昔は男だったっていうのは知ってる。名前も、“てつ”だったか」
静寂。
美由紀の心臓が、鼓動を早める。
けれど――そのとき、美由紀が口を開いた。
「……はい。そうです。以前は“てつ”という名前で生きていました。
でも今は、“美由紀”として、自分を選び直して生きています」
父は黙ったまま、美由紀を見つめた。
「本当のことを言えば、わたしも怖いです。
人にどう見られるか、どう思われるか、いつだって不安です」
視線を外さず、美由紀は続けた。
「でも、レナさんと出会って、変わりました。
わたしを名前の“前”でも“後”でもなく、“いま”として受け止めてくれる人に出会ったからです」
レナの手が、美由紀の手を包む。
その温もりが背中を押してくれた。
「だからどうか――“このわたし”を、見てほしい。
無理に受け入れてほしいとは言いません。でも、“いまここにいるわたし”として、話をさせてください」
しばらくの沈黙のあと、レナの母がゆっくりと口を開いた。
「あなたの言葉……とてもまっすぐね」
母の目に浮かぶのは、拒絶ではなく、考えようとする姿勢だった。
「親として、簡単に受け入れられるわけじゃない。でも――」
父が低く言う。
「それでも娘が、自分の言葉で“誰かを大切にしてる”って言うなら、それだけは信じる」
涙が、思わずこぼれそうになった。
でも美由紀は、それを笑顔に変えて頭を下げた。
「ありがとうございます」
•
帰り道、レナと並んで歩きながら、美由紀は空を見上げた。
雲間から陽が差し、すこしだけあたたかくなった風が頬をなでていく。
「……生きててよかった」
ポツリと漏らした言葉に、レナは立ち止まり、美由紀の肩に寄り添った。
「これからも、一緒に生きていこう。名前じゃなく、“あなた”と」
その言葉に、美由紀は静かに頷いた。
“ふたりでいるという選択”は、ただの恋ではない。
互いの過去、名前、揺らぎすらも丸ごと受け入れ、支え合う“未来の選択”だった。




