第三章 美由紀の決断
「……もう、逃げない」
その言葉は、朝の静寂の中でぽつりと落ちた。
目覚めたばかりの部屋、カーテンの隙間から差し込む光が、美由紀の髪をやさしく照らしていた。
昨夜、レナと別れたあとも、美由紀は眠れなかった。
手のひらに残るレナの体温が、ずっと消えずにそこにあって、心まで染み込んでくるようだった。
“わたし”でいること。
その選択が、自分だけのものではなくなったと感じたのは、初めてだった。
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その日の午後、美由紀は一本の電話をかけた。
電話の向こうは、以前カウンセリングを受けたクリニックの受付だった。
「性別適合に関する医師面談を……予約したいんです」
言葉にするたび、心臓が高鳴る。けれど、不思議と怖くはなかった。
レナが、あのまなざしで「綺麗だよ」と言ってくれたあの日から、美由紀の中にはもう迷いがなくなっていた。
それは「誰かのために」ではなく、
「誰かと生きていくために」、自分をちゃんと抱きしめてあげる決意だった。
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数日後、レナにそのことを話すと、彼女は黙って話を聞き続けた。
頷くでも、驚くでもなく、ただまっすぐに美由紀を見つめていた。
「……やっぱり、すごいな。美由紀は」
「すごくなんてないよ。怖いし、迷いもまだある。でも、レナがいてくれたから……わたし、自分をちゃんと見つけようって思えた」
その言葉に、レナは少し涙ぐんだような顔で笑った。
「美由紀、お願いがあるの」
「なに?」
「次に名前を呼ぶときは、ちゃんと目を見て、言わせて」
美由紀は、ゆっくりと頷いた。
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その夜、ふたりは並んで歩いていた。
人の少ない遊歩道、夜風がやさしく頬を撫でていく。
「美由紀」
レナが、小さく名前を呼ぶ。
「うん」
「ねえ、美由紀。好き……って言ったら、迷惑かな」
心臓が、大きく跳ねた。
目の前の夜空よりも深く、やわらかなその言葉が、美由紀の胸をまっすぐに貫いた。
「……迷惑なんかじゃない」
「じゃあ……これから、友達のままでいたくないって言ったら?」
その問いに、美由紀はしばらく言葉を探してから、そっと笑った。
「だったら、“友達じゃない何か”になる道を、ふたりで探してみようよ」
レナは少しだけ照れたように笑って、でもどこか安心したように、美由紀の手を握った。
未来はまだ曖昧で、形ははっきりしていない。
けれど、ふたりで描くなら――その不確かささえ、少しだけ愛おしかった。




