最終章 未来という部屋
春の終わり。
風が少しずつぬるくなり、街路樹の葉はほんのりと緑を増していた。
美由紀とレナは、駅近くの小さな不動産会社で、部屋探しをしていた。
「いよいよだね、一緒に住むって」
レナが窓際のベンチに腰かけながら、書類を見つめる美由紀に言う。
「なんだか夢みたい」
そう言って笑った美由紀の横顔は、どこか緊張していて、でも同時に確かに“前を向いている”顔だった。
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部屋は、駅から歩いて15分ほどの場所にある、築浅のマンションの一室に決まった。
2LDK。南向きのベランダには、観葉植物を置けそうなスペースもある。
「ここで、一緒に朝ごはん食べたり、洗濯物干したり……そんなの、すごくいいなって思ったの」
内見の日、ベランダから外を見ながらレナがつぶやいた。
美由紀は、その横顔を見て心の底から思った。
(この人と暮らしていくことを、わたしは選んだんだ)
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引っ越しの日。
段ボールを運び入れるたびに、二人の笑い声が部屋の壁に跳ね返った。
どの家具をどこに置くか、カーテンの色は何色にするか、食器は何枚ずつ必要か。
暮らしの話が、どれも“ふたりの未来”として響いていた。
夜、荷解きもひと段落して、カーペットの上に並んで座る。
テレビもつけず、静かな室内で、美由紀がぽつりとつぶやいた。
「こんな日が来るなんて、昔のわたしが知ったら、きっと信じられないって言うと思う」
「でも来たんだよね、ちゃんと」
レナが笑う。そして、そっと手を重ねてくる。
「美由紀が、自分の名前を選んで、自分をあきらめなかったからだよ」
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その夜、美由紀はベッドの中でなかなか寝つけずにいた。
窓の外、夜風が網戸をゆらし、小さな音を立てている。
隣ではレナの寝息が聞こえる。
こんな夜も、きっとあたりまえになっていくのだろう。
でも、美由紀はこの“最初の夜”を、きっとずっと忘れない。
名前を超え、孤独を超え、誰かと生きることを選んだその記憶。
それは、彼女の人生にとって、何よりも深くあたたかい“変化”の証だった。
(わたしであることを、もう誰にも否定されたくない)
その思いが、胸の奥に静かに根を張っていく。
明日からの暮らしが、どんなふうに展開していくのかは、まだわからない。
だけど、レナとふたりでなら、ちゃんと選び続けていける。
未来という部屋。
その扉は、もう開いていた。