7.侯爵邸(1)
「ヨハンソン様、着きましたよ」
サムエルの言葉にシンシアは、はっとする。
侯爵家の豪華な馬車に乗り、背もたれに身を預けてから、頭は痺れたように思考を停止していたようだ。シンシアは窓の外を眺めてはいたが、景色は見えていなかった。どこをどう走っていたのかの記憶が一切ない。
馬車は完全に止まっていた。騎士団の詰所に着いたのだろう。
真っ白になっていた頭を振って、シンシアは立ち上がる。
「ご子息は私がお運びしますね」
サムエルがそう言って、ハリーを抱き抱えた。
ご子息?
聞きなれない言葉に困惑してから、ああ、そうだ、ハリーを自分の息子だという事にしているんだった、と思い出す。自分はずいぶんとぼんやりしてしまっているようだ。
(しっかりしなきゃ、ハリーは“6才の弟”ではなくて“4才の息子”なのよ)
シンシアは自分に言い聞かせる。
「アラン様にそのように仰っていたのが聞こえていました」
シンシアの沈黙をどう取ったのか、サムエルが申し訳なさそうにした。
使用人との間の子供だと言ったので、背景をいろいろと考えシンシアを気遣ったのだろう。
「大丈夫です、隠すつもりはありません。ハリーという名前で4才です」
「ハリー坊っちゃんですね」
シンシアが愛しそうにハリーの名前を伝えると、サムエルは微笑みながらハリーの名前を繰り返す。
(坊っちゃんって……)
罪人の子供に対してずいぶんと丁寧だな、と思いながらシンシアは馬車を降りようとするサムエルの後に続いた。
馬車の扉が外から開かれ、サムエルが先に外へと出る。シンシアは深く考えずにサムエルの後に続いた。
(あら?)
馬車のタラップを降りながらまず思ったのは、雨が止んだのかしら?だった。
土砂降りの雨だったはずなのに、車外に出ても雨に打たれない。
続いてシンシアはタラップの先の白く美しい石畳に気付く。騎士団の詰所にしてはやたら流麗だ。
そして、シンシアへと差し出される上質な使用人服を纏った介添えの手。
幼い頃に叩き込まれた貴族令嬢の条件反射でシンシアは優雅にそこに手を乗せて石畳へと降り立つ。
「………………え?」
降りたってから横を見ると、よく訓練されたフットマンが上品で穏やかな微笑みをシンシアへと向けた。
「…………」
呆然としながらも手を引き、辺りを見回す。
そこは絶対に騎士団の詰所ではなかった。
シンシアが降り立ったのは、白亜の野外ホールのような車寄せだった。
(ここ、どこ?)
見上げるその天井は高く柱には美しい彫刻が施され、昼時だが雨でどんよりと暗いために輝くランプがいくつも灯されている。
車寄せだけで、ここはかなり高位の貴族の豪勢な屋敷だという事が分かった。
「あの、サムエルさん、ここは?」
罪人の自分がその名を呼んでもいいものか少し迷ったが、シンシアは前に居るちょび髭の侍従の名前を呼んで聞いた。
「こちらはキリンジ侯爵家でございます。ヨハンソン様」
サムエルが穏やかに告げる。
「ええと、え?侯爵家?」
「はい、私はキリンジ侯爵家のアラン様付きの侍従でございます。主のアラン様よりヨハンソン様をこちらにお連れするようにと」
「あの、まずは、私の事はシンシアで結構です。その家名は先ほど自ら捨てたものです」
シンシアがそう言うとサムエルは困った顔をしてから、「では、シンシア様とお呼びします」と答える。
“様”もいらないんだけど、とシンシアは思うが、サムエルをますます困らせそうなのでその主張は止めておいた。
「私が客人とは、どういう事でしょうか?」
「それは私では何とも、アラン様に直接お聞きください」
サムエルは眉尻を下げてそのように言う。
「はあ、でも、」
「そのままでは風邪をひいてしまいます。まずは中へ、ハリー坊ちゃんも早めにベッドに寝かせてあげた方がいいです」
サムエルはすたすたと屋敷の玄関へと向かう。フットマンによって扉が開けられ、これまた豪勢で品の良い玄関ホールが現れた。
白の大理石の床には深い緑色の絨毯がしかれており、シンシアは自分の泥だらけの靴でそこに乗るのが躊躇われたが入るしかない。
「サムエルさん、お帰りなさい。お部屋もお風呂も準備出来ています」
「そちらがアラン様のおっしゃっていたご婦人ですね、あら?」
「お子様?」
すぐに侍女達が出迎えてくれて、サムエルの抱くハリーに少し驚いている。
「申し訳ないが、部屋を追加でもう一つ。そして手配していた医師にはまずこちらのお子様を診るように伝えてください。熱が高いのです。そちらのご婦人はシンシア様です。アラン様の客人ですので決して失礼のないようにお部屋にご案内を」
サムエルがてきぱきと指示を出すと、侍女達は二手に別れ、一方がシンシアの元へとやって来る。
「シンシア様、お部屋にご案内いたします。お風呂もご用意しております」
侍女はシンシアの身なりやびしょ濡れの様子には眉一つ動かさずに慇懃だ。さすがは侯爵家の侍女。
「お風呂?あの?サムエルさん!」
どう考えても待遇がおかしい。シンシアは狼狽えてちょび髭侍従を呼んだ。
「大丈夫ですよ、全てアラン様の指示です。お坊ちゃんは私が責任を持って看ておりますのでシンシア様はまず温まって、乾いた服に着替えましょう。軽食も用意させます」
「ええ?でも、」
「さあさあお早く、唇の色がお悪いです」
「こんなに濡れて寒かったでしょう」
侍女達が急かしてシンシアを連れていく。待遇はおかしいが、抵抗する訳にもいかない。
混乱しながらもシンシアは大人しく従った。
屋敷の中を歩き、玄関のあった本棟から別棟に移り、その中の部屋の一つへと案内される。
こざっぱりとした素敵な部屋だった。
素敵な部屋の絨毯に泥を落とさないようにと、部屋を最短距離で横切って浴室へと入る。
侍女達はあっという間にシンシアの服を脱がせてまずは浴槽へと導かれた。
「まずはしっかり温まってくださいね」
「……はい」
もうどうにでもなれ、と半ば投げやりな気持ちでシンシアは湯に入った。
ざぶり、とゆっくり体を沈める。
手先や足先は知らずに凍えていたようで、お湯の熱さにじんと痛んだ。
痛みが和らぐと冷えきっていた体にお湯が染み渡る。
「…………あったかい」
シンシアは思わず呟いた。
離れには浴槽自体はあったが大量のお湯の用意は出来なかったので、こうして風呂に浸かるのはきっと5年ぶりだ。
久しぶりの包み込まれる温かさに体が溶けそうになる。シンシアは、ほうっと息を吐いた。
「温まっている間に髪を洗いますね」
侍女が告げて、シンシアの頭がそっと浴槽の縁に導かれると、頭にも温かい湯がかけられた。
心地のよい手つきで髪の毛が洗われ、頭皮がマッサージされる。
(もしかして、夢なのかしら?)
あまりの心地よさに現実味がない。
シンシアはついさっきまで土砂降りの中、幼い弟を背負い、濡れそぼって歩いていたのだ。
(夢なら悪くない夢ね)
昨夜は一睡もしていないので、気を抜くとうとうとと眠ってしまいそうだ。
実際少し微睡んでいたらしい。
夢の中でシンシアは自分を見透かすアイスブルーの瞳に見つめられ、はっと意識を取り戻した。
ぱしゃんとお湯が揺れる。
いけない、しっかりしなくては。
自分の顔を両手で包んでぐにぐにと刺激する。
これは夢ではないのだ。
現在の自分の状況は訳が分からないが、今朝ヨハンソン子爵家には騎士団が踏み込み、今頃は脱税と密輸の証拠が押収されて、父と継母、リディアは拘束されているだろう。そして自分はそれから逃げようとしていた所をアランに捕らえられた。
今の状況からはそちらの方が夢みたいだが、そっちが現実だ。
気を取り直してシンシアは自分がまずすべき事を考える。
この不思議な状況の理由をアランに聞きたいという気持ちはもちろんあるが、最優先すべきは考えるまでもない、ハリーの安全の確保だ。
こうなった今、ハリーがヨハンソン子爵家の嫡男だとは絶対にバレてはいけない。シンシアの庶子で通すのだ。だから早急にハリーにシンシアを母と偽るように言い含める必要がある。
ハリーにはきちんと父親はヨハンソン子爵で母親は前子爵夫人、シンシアは姉だと説明してある。流石に父が母に媚薬を盛られた末の子供だとは言っていないが、父と母が不仲であった事や、それ故に父は自分達に冷たい事についても穏やかな言葉で伝えていた。
弟は出生届すら出されていないが、自分の出自は知っておくべきだと思ったし、扱いはどうあれ貴族として生まれたのだから、ほんの少しでも誇りのようなものを持っていて欲しかったのだ。
ハリーは元来明るい子だが、子爵家の家族や使用人はそのほとんどがシンシアとハリーに冷たかったのでシンシア以外の人には警戒心が強い。ぺらぺらとお喋りするとは思えないが、シンシアを「姉上」と言って探すかもしれない。
そもそも、今頃知らない場所で心細く震えている可能性もあるし、熱の様子も心配だ。
(すぐにハリーに会わないと)
湯浴みが終わり、何故か自分のサイズで何着か用意されている普段用のドレスを不思議に思いながらも一番地味なものを選んで袖を通した所で、シンシアはハリーに会いたいと侍女に伝えた。