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5.忌々しい女(1)

今話と次話、アラン視点です。


子爵家の庭で、初めてシンシアに対面した時、アランはシンシアを美しいと思った。


忌々しいほど、美しい。


手入れのされていない肌に、ひっつめただけの艶のない鳶色の髪。痩せたみすぼらしい体を包むのは色褪せた寸足らずのワンピースで、足元はボロボロの靴。


そんな成りなのに、アランはその女を美しいと感じた。シンシアの新緑の瞳が静かに強く自分を見つめて、心臓が一つ大きく脈打つ。


アランは心の中で舌打ちをした。

この女は絶対に今回の任務でアランの邪魔になると確信する。


アランはこの美しい女の生家を断罪するためにここにいるのだから。





***


幼馴染みの王太子からヨハンソン子爵家の娘に近付いて内情を探って欲しい、と言われた時、アランはもちろん、断った。

だが、子爵が密輸している相手が隣国の貴族で、その後ろには隣国の軍までが関わっていると聞かされて、話は変わる。

何か、企みの芽のようなものが感じられた。


隣国は王が交代したばかりで不安定で、アランのキリンジ侯爵家の領地はその隣国と国境を接している。すぐ隣には独自の軍を持つ辺境伯もいて、有事の際は駆けつけてくれる事になっているが不穏な芽は芽の内に摘んでおくべきだろう。


「ヨハンソン家はここ数年でいろいろ手を出していてね、節操がないと言うか、見る目がない。隣国の軍が絡む、きな臭い取引に簡単に応じるような阿呆だが、隣国の軍が絡むだけあって、外からは守りが堅くてね。じっくり調べてもいいんだが、取引が大きくなる前に潰しておきたい。内部からなら脆いんじゃないかと思うんだ。子爵家の長女は病弱で屋敷に籠っているんだけど、次女は社交的で少し頭が軽い。次女になら近付けると思う」

隣国の話にアランの態度が変わったのを見て、王太子が言う。


「君の経歴には傷がつかないようにしよう、不貞を誤解されては困るような女性がいるなら無理にとは言わないが」

そう続けられ、アランは「そのような存在はいません、引き受けましょう」とその話を引き受けた。

王太子は、成功したら褒美を取らすから考えておけ、と言った。


父のキリンジ侯爵と兄には予め話が通っていたようで、すぐに夜会でヨハンソン子爵家の次女リディアと偶然を装って出会う手筈が調えられ、アランはリディアと出会った。


侯爵家を継ぐ兄とは違って、アランは侯爵家の持つ商団の経営を幼い頃から叩き込まれてきた。成人してからは商団で幹部として働いてきたので、駆け引きは得意だ。

女性に関しては冷めている方だと思う。特定の異性に熱をあげた事はなく、取引先の女性に優しくして少し有利に取引を進めたくらいの経験はあった。

アランは自分の外見が女性達に魅力的に映るのも知っている。今回の任務にアランは適任だったのだ。


領地の為でもあるし、仕方ない。それに国に忠誠を誓う貴族の密輸はもちろん大罪だ。

その罪を暴く事は同じ貴族としての務めだろう。

そう腹をくくって臨んだ任務だった。


それでも、リディアが純粋で可憐な優しいレディであれば、例え父親の子爵が悪事を働いていたとしても良心は痛むだろうという懸念はあった。


アランは侯爵家の次男で生粋の貴族で、元々が優しい人間でもない。だからこそ、王太子は女を騙すなんて役割をアランに頼んできたのだ。

商売に関わっているせいか、嫡男の兄よりも更に自分の方が情が薄く、ドライな人間だとも思う。

しかし好き好んで女を泣かせる趣味はないし、最低限の良心はあるのだ。

リディアが頭が軽いだけの可愛らしい令嬢なら、後味の悪い結果にはなるだろうなと考えていた。


アランのその懸念はすぐに払拭される。

リディアは使用人や下位の貴族を明らかに蔑み、マナーも上っ面だけで品位はなく、豪華なドレスと宝石にしか興味のないような外見が愛らしいだけの娘だった。


父親の悪事については全く知らないようなので、事が明るみになり家が断罪されれば、それなりに可哀想ではあるが、関与していなければ母親と共に実家での蟄居が順当だ。


母親の実家は少し裕福な平民らしく、母親は長く子爵の愛人だったが、子爵家に嫁いできたのは前妻が亡くなってからでリディアは12才まではそちらで暮らしていたのだ。

なので母親の実家に戻ることは、リディアにはむしろ相応な身分だと思うとアランの良心は露ほども痛まなかった。


そうして、心の負担も軽いまま順調に子爵家に取り入っている最中、アランはシンシアを見つけた。




***


「あなたの前では、薔薇の美しさも霞みますね」

歯が浮くような科白を吐きながら、リディアと庭園を散歩している時だった。

アランは庭園を横切る一人の女に気付く。


背筋を伸ばし、流れるように歩く鳶色の髪の女。その身ごなしはメイドとは思えなかった。

歩く姿が綺麗で、遠目だが横顔が美しい。


「あちらは?子爵家のメイドですか?」

リディアに聞くと、彼女は鳶色の髪の女を見て、眉を寄せる。


「あれは……私の異母姉ですわ」

「姉上ですか?しかし、」

リディアが姉だと言った女は、着古した粗末なワンピースを着ていた。

アランは子爵家の家族構成を把握している。リディアが姉と言うからには、あの女は前子爵夫人の娘で病弱だという長女のシンシアであるはずだ。しかしシンシアは遠目で見ても、とても子爵家長女とは思えない身なりをしていた。それに、病弱だという割にはしっかりした足取りで歩いている。


長女について、子爵からもリディアからも話題に出ないし、紹介もされないので変だな、とは思っていたのだ。

どういうことなのだろうか。


「姉は世間には病弱だと言っているんですけど、体は平気なんです、その、精神的に少し……」

もにょもにょと俯いて言い訳しながら、リディアは何かを思い付いて黙り、その表情が変わる。

アランが愛を囁く振りをしている女は、俯いたままそっと底意地の悪い笑みを浮かべた。


丸見えなのだが、これがアランには隠しているらしいリディアの本性だ。

せめて、こういうのを隠し通せるほどの悪女ならこの任務も面白味くらいはあっただろうに、本性を隠す才覚もないただの頭と行儀の悪い女。


心の底から呆れているアランの隣で、リディアはすぐに意地の悪い笑みを引っ込めると、悲しそうな笑顔になってアランを見上げた。


「姉は少し変わっているのですが、それでも私にとっては大切な姉です。ご紹介してもよろしいでしょうか?」

「ええ、是非」

アランの諾の返事にリディアは嬉しそうにシンシアを呼んだ。


呼びつけられたシンシアが2人の前へと、嫌そうにやって来た。


みすぼらしい痩せた女。

着古したワンピース、丈も合ってない。

剥き出しの細い足首とその先のボロボロの靴。

ほつれた鳶色の髪の毛。

それなのに美しい女。


新緑の理知的な瞳が、アランを見る。

そこには強い光があった。


アランの心臓が、どくりと音をたてた。

忌々しい女だとアランは思う。

そんなアランの横で、リディアがねっとりとした声でシンシアに話しかけた。

「お姉様、お姉様はそちらのワンピースがお気に入りで他の服には見向きもされないのよねえ?」

シンシアは、またか、というような厭世的な目をすると、「そうね、リディア」と一言返した。


「お屋敷も大嫌いなのよね、離れでお一人で過ごすのがお好きなのよねえ?」

「そうね」


「私もお父様も、何とかお姉様にはお屋敷で暮らして、お洋服もきちんとあつらえたものを着てほしいのよ?そんなみすぼらしくて汚いワンピースなんて捨てて」

「気遣いは無用よ、リディア。もういいかしら?お客様もびっくりされているわ」


「お客様だなんて、ふふ、前に話したでしょう?こちら、アラン・キリンジ様。キリンジ侯爵家の次男さんなのよ。最近、とても親しくさせていただいていると言ったじゃなあい」

リディアは勝ち誇ってそう言うと、うっとりとアランを見上げる。


シンシアがもう一度、ちらりとアランを見た。

何の熱も感動もない目付きだったが、明らかな警戒の色が見てとれた。

さきほどの強い光も警戒だったのだと気づき、

この女は自分の目的を知っているかもしれない、とアランは思う。


アランがリディアに言い寄りだしてから二ヶ月ほど経つ。子爵家を訪れたのはこれで四回目だ。

シンシアはリディアからアランの事を聞いていただろうし、庭やテラスでアランとリディアが過ごす様子も目撃していただろう。時々、アランが非常に冷めた目付きでリディアを見ているのも気付かれていたかもしれない。


シンシアの目付きは、お前の本当の目的は妹ではないだろう、と語っていた。

変だ、と思っているのだ。アランがリディアに言い寄るのが。そこに、恋に浮かされた熱がない事に気付いているのだ。


しかし、シンシアはアランを追及する気はないようだった。一度目を瞬くと、そっとアランから目を逸らす。それから、はっと何かに気付いたようになり、俯いてワンピースのスカートをいじりながら、もじもじし出した。


「リディア、あの、もう行くわね。わたしはこんな成りしか出来ないし、キリンジ侯爵令息様の前では恥ずかしいわ」

棒読みでシンシアがそう告げる。


全く恥ずかしくはなさそうだが?

さっきだって、堂々とアランの目を見てきた。気高くすらあった。

何だ?と思っていると、さっとシンシアは行ってしまった。


シンシアが行って、リディアが嬉しそうにアランに囁く。

「お姉様は、前に遠目にアラン様を見て、その凛々しさに憧れているようなの。私にしつこくアラン様の事を聞いてきたのよ。アラン様の素敵な所を教えてあげると、思い詰めた顔をなさっていたわ。ふふふ、今は憧れのアラン様の前で自分の身なりが恥ずかしくなっちゃったみたい、自分が好きで着ているワンピースなのに可笑しいわね」

あははは、と耳障りな声でリディアが笑った。


は?

お前達があれを離れに押し込めて、襤褸を着せ、虐げているのだろう?

「おかしいのはお前だろう」低く冷たい声でアランは呟く。リディアには決して聞こえはしない小さな声で。


先ほどのシンシアの対応を見るに、彼女の精神が病んでいるとは思えなかった。

シンシアとリディアの母親は違う。シンシアは亡くなった前妻の娘である事もアランは知っていた。シンシアは分かりやすく、後妻とその娘に冷遇されているのだ。おそらく父親である子爵も同様に彼女を虐げている。


アランは作り笑いをするのに人生で初めて苦労しながら、リディアに合わせて笑った。


それからはリディアと会う度に、新緑の瞳の女がちらついた。

あの美しい女の生家を潰すことで、あれは今以上に不幸になるだろうか?

そのように自問もした。


扱いはどうあれ、シンシアはヨハンソン子爵の長女だ。連座での断罪は免れない。

子爵には男児がいないから、次女のリディアよりも長女のシンシアの方が罰が重くなる可能性はある。


首までは取られないだろう。

鞭打ちの上、放逐だろうか。


そう考えて、アランの身がかっと熱くなる。

鞭打ちだと?

あり得ない。

咄嗟にそう思って、アランは驚嘆する。

自分はひと目ですっかりあれに入れ込んでいる。

何をそんなに入れ込んでいるのだ。

アランは自分を叱咤して、冷静になろうとゆっくりと呼吸した。


シンシアの子爵家での扱いは、最低限の衣食住だけで、かなり酷そうだ。

爵位は失くすが、家が潰れて修道院へでも入った方が案外マシかもしれない。

彼女の為に環境の良い修道院を見繕うくらいなら簡単だ。そこへシンシアを入れるのはそんなに不自然な事ではない。

王太子に事情を話せば、そのように取り計らってもくれるだろう。


そう決心すると、少し心が晴れた。

ああ、本当に、忌々しい女だ。

アランはいらいらと新緑の瞳を追いやったが、それでも美しい瞳はいつも脳裏にあった。



今までとは違い、鉛を飲み込んだような重たい体でアランは子爵家に向かうようになる。

出来るだけシンシアを視界に入れないようにと注意したが、アランの目はアランの意に反してシンシアを探した。


アランの目は度々シンシアを追いかけてしまうし、初回の対面以降はリディアが面白がってアランと茶会の最中にシンシアを呼びつけたりしたので、シンシアと面と向かう機会は増えてしまう。

その度にシンシアは美しかった。


いつもみすぼらしいくせに美しいと思わずにはいられない女に苛立ちは募ったが、任務の方は順調だった。


可愛い愛娘の婿候補、見目も良い侯爵家次男、商才もあり、娘もぞっこん、とくれば子爵のガードは緩くなる。

アランは子爵の表向きの真っ当な事業の計画書や帳簿を見せてもらえるようになった。

そしてその帳簿に、ちらちらと綻びがあるのも見つける。

どうやら、密輸のダミーにしているらしい事業と帳簿も突き止めた。

更に、子爵は脱税もしているようだ。

密輸はともかく、こちらはすぐに摘発できるレベルで証拠が残っていた。


しかし、ここでアランは気付く。

事業の計画書に、子爵の筆跡ではない子爵のサインがあることに。

上手に似せているが、見る者が見れば筆が違うと分かる。

そして、その筆跡は帳簿にもたくさん見つけられた。


嫌な予感がした。


リディアの話によると、子爵はシンシアを厭いながらも、離れに置いているようだ。

最低限とはいえ、衣食住を提供している。

精神を病んでいる事にして、それを理由に修道院に入れてもいいのに、なぜわざわざ屋敷に留め置いているのか?


少しとはいえ親子の情があるのか、

虐めて憂さ晴らしでもするためなのか、

利用価値があるのか。


利用価値があるからだと、アランの本能が告げる。


だとすればどんな利用価値が?

美しくさせていないという事は、娘として売るつもりはないのだろう。


なら、


帳簿をつけさせているのでは?



腹の中の鉛が増えた気がした。

シンシアの境遇を見れば、おそらく何の対価も与えられずに使役だけされているのだろうと予想された。

そして問題は対価なしの使役だけではない。

シンシアが子爵の事業に関わっていれば、密輸と脱税への関与も疑われる。

そして、もし、少しでも関わっていたら?

そうなると、首が飛ぶ。

背筋が凍った。


その日、アランは屋敷の廊下でシンシアとすれ違う。

簡単に頭を下げて通り過ぎようとするシンシアは確かに帳簿らしきものを抱えていた。

アランは咄嗟に一縷の望みをかけて、花の名前のスペルを忘れたふりをしてシンシアにメモに字を書かせた。

シンシアは目を見開いた後、ふうと息を吐いて、ペンを走らせる。

それを渡しながら、アランに裏帳簿の在処を小声で告げた。


シンシアが去り、アランは手元のメモを見る。

帳簿にたくさんあった筆跡と同じだった。



見なくても分かる、裏帳簿をつけているのもシンシアだ。




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