44.出立の朝
ある日の爽やかな朝、キリンジ侯爵邸の車寄せには二台の長距離用の馬車が停まっていた。後ろの一台は荷馬車で、中には旅の支度と共に、リネン類とカトラリーと服が詰まっている。
本日は、シンシアとハリーとステラがヨハンソンの領地へと出立する日だ。
侯爵邸の玄関ホールでは、これからここを発つ人々への見送りが行われていた。
「じゃあ、私とハリーは先に乗ってるわね。クリスティナも、最後にちょっとおしゃべりしましょう」
見送られる側の一人、旅装のステラがそう言ってハリーの手をとる。
ハリーが「姉上、急がなくていいからね」とステラと手を繋いで二人は先にホールを出ていく。
「ちょっと最後なんて、嫌よお。すぐに遊びに行くわよ。たった五日で行けるんですからね」
少し涙目にも見えるクリスティナがステラの後を追い、玄関ホールには、やはり旅の装いのシンシアとアランが取り残された。
ヨハンソン子爵家への処分が貴族会議で決定したのは一ヶ月ほど前の事だ。爵位は残り、罰金とその支払い期限は王太子フィリップから聞いた通りだった。
決定後は、子爵家の領地と鉱山を狙って侯爵邸のシンシア宛に降るような縁談と、養子縁組の話が持ち込まれた。
それらは全て、一旦領地に戻るのを理由に断っている。
どうやら、領地の本屋敷の方にも手紙が届いているらしいので、しばらくは何かと煩わしそうだが、おそらくあと二ヶ月もしない内に鉱山の採掘権の売買が公にされ、それを機にシンシアとアランの婚約も発表する予定なので、そうなれば一気に落ち着くだろう。
「一時とはいえ、お別れは辛いです」
アランはシンシアの手を取ると、自分の頬にあてた。
城のお茶会の帰りの馬車では、“もう少し攻める”と言っていたアランだが、基本的にはシンシアの手にしか触れてこない。
時々、部屋で本当に二人きりの時にそっと肩を抱いたり、抱き寄せるくらいで、何だかんだでシンシアに合わせてくれている。
シンシアは手に触れられたり、そこに口付けされるのは大分慣れたが、肩を抱かれるのには未だに慣れていない。
唇へのキスは馬車の中での一度だけだ。
「私も、寂しくなると思います」
アランが側にいるのが当たり前になってしまっているので、離れたらきっと恋しくなるだろう。
今も手を包まれているのに安心するし、時々その腕に抱き寄せられるのは、緊張はするが何とも言えない気持ちの高ぶりを感じて幸せになるのだ。
領地に着いたら寂しくなるだろうな、と思う。
「どうでしょうか。あなたにはハリーもステラ女史もいますし、向こうに着けば忙しくするでしょうから、私の事なんて思い出さないでしょう」
珍しく嫌みっぽいアラン。
「…………もしかして、機嫌が悪いですか?」
「あなたが全く寂しくなさそうなので」
言ってから、アランはため息を吐いて、頭を振った。
「すみません。愚痴っぽくなりました。向こうに着いたら手紙をください」
「すぐに書きます」
「一週間後にはサムエルもそちらに向かわせます。助けになると思います」
「それなんですけど、サムエルさんを貸していただけるなんて、本当に良かったんですか?」
アランのちょび髭の侍従は、シンシア達の少し後にヨハンソン領に来て、現地でシンシアを手助けし、侯爵家との事務的なやり取りをしてくれる予定だ。
本屋敷の家令が高齢な事と、サムエルがヨハンソン家の領地管理を手伝ってくれていた事、鉱山の売買やシンシアとアランの婚約でキリンジ家とのやり取りが多い事からそのように決まった。シンシアとしては心強い。
「構いません。本人の強い希望もありますし」
「強い希望、 田舎がお好きなんですか?」
「まあ、そうですね。なので気にしないでください。それより、婚約の件ですが、本当にこちらのタイミングで発表していいんですか?」
シンシアとアランは既に家同士の婚約を交わしている。少し前に鉱山の採掘権の売り先がヨハンソン領の近くの辺境伯に決まり、その時に約束通り婚約したのだ。
アランは本当に上手く契約をまとめてきた。採掘権の売買はまだ仮契約の状態だが、20年の契約で、鉱山の地元での雇用の確保と加工が条件に盛り込まれている。売買金で罰金の支払いは終えられる予定だ。
「領地に帰れば、王都の情報はほとんど入ってきませんし、手紙のやり取りだけで数日かかります。アラン様の良い時機で発表してください」
「気持ちとしては、今すぐにでも婚約を発表したいです。あなたに縁談の手紙が来るだけで嫌なんです。他の男があなたをそういう目で見ていると思うと虫酸が走る。早く俺のものだと言いたい」
アランが切なく言って、その吐息が手にかかる。シンシアの体温が上がった。
「は、発表は、鉱山の本契約を済まして、売買を正式に公に出来てからですよね? そんなにかからないと思いますよ」
鉱山の契約後の婚約発表は、二人で相談して決めた。それ以前に婚約を発表すると、世間からシンシアが罰金免除を狙ってアランと婚約したと誤解されるのでは、とアランが心配したのだ。
「それが長く感じるんです。もちろん、待ちますが……そろそろ、ハリーが待ちくたびれますね。行きましょうか。二ヶ月後にはまとまった休みが取れますので、そちらに行きます」
「はい、お待ちしております…………あの、今は旅の高揚で顔には出てないと思うんですけど、私も離れるのは、すごく寂しいです」
自分も別れが辛いのが伝わっていないのは嫌なので、シンシアはそう付け加えた。
そして、しばらく会えないのだからアランの温もりが欲しいと思った。思ってからそんなはしたない事を願う自分に驚く。
(でも……)
婚約は成っているし、非常識ではないのでは、と自分に言い訳をする。
ここは玄関ホールだが、皆、気を遣って二人にしてくれているし、少しくらいなら、はしたなくてもいいのでは……
「寂しいので、だ、」
頬を染めながらシンシアは続ける。
「だ?」
「だ……抱き締めてもらえませんか」
意を決してシンシアは告げた。その語尾はとても小さくなってしまったけれど、アランにはちゃんと聞こえたようだ。
アランは手を引いてシンシアを引き寄せ、ぎゅうっとシンシアを抱き締めてくれた。
かあっと顔に熱が上る中、いい加減受け身ばかりではいけないと、シンシアも自分の腕をアランの背中に回す。
二人はしばらくの間、玄関ホールで優しく抱き締めあった。
そうして、
「アラン! ティナ! 絶対に遊びに来てね!」
元気いっぱいのハリーの声と共に、馬車は侯爵邸を出立した。
サムエル
アランの侍従、男爵家の三男。32才。
20才の時からキリンジ家に仕えている。
11コ年上の女医の恋人がいる。
ちょび髭は、童顔を気にして生やしている。
お話としてはこちらでエピローグですが、次話、おまけみたいな最終話です。




