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4.逃亡の朝(2)


「こんな時まで……忌々しい」

油引きした外套の下から冷たいアイスブルーの瞳がシンシアをきつく見つめて、吐き捨てるように呟く。


土砂降りの雨の中でもその呟きは、はっきりとシンシアの耳に届いた。


怖さで足がガクガクと震えたが、シンシアは再び歩きだす。

泥濘と化した道を一歩一歩進む。

びしょ濡れの髪の毛をつたって、つう、と雨垂れが襟の隙間を通って肌を撫でる。

シンシアは目を伏せ、現れた騎士達に道の真ん中を譲って、より泥濘の深い場所をゆっくりと進んだ。

ぐちゅりと靴が沈んで足を取られそうになる。

ハリーを落としては大変なので、弟をおぶっている腕にぐっと力を込めた。


そうやってアランの乗る白馬の横を通り過ぎようとした時、


「待ちなさい」

厳しい声がアランよりかかった。


びくりと身体を震わせてシンシアは立ち止まる。

ざああ、と雨の音が大きくなった気がした。


「何か私に言うことは?」

蔑むような冷たい声色。

逃げる自分を咎めているのだと、シンシアは思った。

やはり自分への熱い視線は、怒りだったのだ。

長女のお前は、何をのうのうと父親の悪事を手伝っているんだ、一番に摘発するべきだろう?という怒りだったのだ。


だって仕方ないじゃない。

シンシアは心の中で反論する。


知ってたわ、知ってたわよ。お父様の悪事くらい、全部知ってたわ。

裏帳簿をつけたのは私よ、もちろん、全て把握していたわ。

シンシアは雨の波紋が広がる地面を見つめる。


でも、私に何が出来たっていうの?

あなたとは違う。

私は無力で、何もない。

私が通報した所で誰が信じるというの?

虐げられた先妻の娘なのよ?

食べるのも満足にいかない痩せっぽちの、襤褸をまとったみすぼらしい娘。

令嬢になんて見える訳のない娘。

人質のような小さな弟までいるのよ?

逆らうなんて、出来た訳がない。

私に出来るのは、こうして、捕り物に巻き込まれない為に逃げるだけなのよ。


だって、どうしろって言うの?

ハリーは6才なのよ!

見捨てられる訳がないでしょう?!


そう喚きたいのをぐっと堪えて、シンシアは唇を噛み締めた。そして、震える声をふり絞り、俯いたまま一言、告げた。


「み、見逃してください」


哀れで惨めな、か細い声だった。

泣きそうになるが、涙は何とか留めた。

この上、泣くなんて絶対にしたくない。


「どうか、お慈悲を」

アランはシンシアの正体に気付いている筈だ。

裏帳簿をシンシアがつけていた事も知っているだろう。本来なら、家族は罪を重ねた子爵と連座で裁かれる。悪事を手伝っていたとなれば、その罪は重くなる。シンシアは当然、子爵と共に裁かれる立場だ。


でも同時にアランは、この家でのシンシアの境遇も把握していたに違いないのだ。子爵に冷遇され、使用人に蔑まれ、いいように使役され、子爵が手にしていた利益の恩恵になど与ったことのないシンシアの境遇を。


だから、どうか見逃して欲しい。

市井で平民として、ハリーと共に誰にも迷惑をかけずに隠れて生きていくのだ。


だから、慈悲を。


シンシアは馬上のアランに深々と頭を下げた。

雨が後頭部を打ち、頬を伝って鼻先や唇から地面へと落ちる。


「背中の子供は?」

嘆願は無視され、問いかけが降ってきた。

その問いにヒヤリとする。


ハリーを弟だと言う訳にはいかないと思った。

それを伝えれば、直系の男児のハリーは絶対に捕まる。

そもそも、ハリーは子爵に認知すらされていないのだ、弟であってたまるか。

今まで何も与えられなかった弟に、連座で罪だけ償わせるなんて、するものか。


「私と使用人との間に出来た子です」

泡立つ地面を見据えながら、シンシアははっきりとそう答えた。声はもう震えていない。


ざあっと雨が鳴り、馬上からは盛大な舌打ちが聞こえた。

雨音が煩いはずなのに、恐ろしい沈黙がその場を包む。アランの後ろに続く騎士達が戸惑っているのが伝わってきた。


「御前を失礼致します」

シンシアは頭を下げたまま、そう告げると足を踏み出す。


「逃がしません」

非情なアランの一言。

シンシアは頭が真っ白になる。体が冷たく固まった。


アランは後方を振り返ると、「サムエル!」と誰かを呼んだ。


ほどなく、頭を下げて固まったままのシンシアの視界に男性用のブーツの爪先が入ってきて、雨が止む。

驚いて顔を上げると、きちんとした身なりの侍従らしきちょび髭の男が黒い大きな蝙蝠傘をシンシアへと掲げていた。


「こちらへ、レディ」

サムエルと呼ばれたちょび髭の男が優しく言う。


「いえ、私は、」

シンシアは傘から出ようと体を横へとずらす。

傘はさっとシンシアを追ってきた。


「レディ、背中のお子様は具合が悪いようにお見受けします。手当てをさせていただきますよ」

サムエルは目ざとくハリーの様子に気付いて言った。


「この雨の中、医者に診せるあてはないのでしょう?」

その通りなので、黙る事しかできない。

「こちらへ」

サムエルが笑顔でシンシアを促す。

ハリーの手当てをしてくれるなら、それはもう命令に等しかった。


「分かりました」

サムエルに導かれて、屋敷の敷地を出る。

背後では、バシャバシャと馬達が屋敷へと向かい、扉が荒々しく開けられる音がした。


「レディが気にする事ではありませんよ」

振り返ろうとしたシンシアをサムエルが止めて、屋敷の外に停車していた馬車の扉が開けられる。


「お乗りください」

「あの、でも、」

馬車を見て、シンシアは乗り込むのを躊躇う。

馬車は騎士団の馬車ではなかった。キリンジ侯爵家の紋入りの豪華な馬車だったのだ。


灰色の外装はシンプルだが、庇や縁にさりげなく金があしらわれていて、車輪の真ん中のセンターキャップには可憐な百合が彫られている。

扉から覗く車内は凝った造りで、両側には深緑色の柔らかそうな座席が見えた。


こんな所に自分が乗るの?

明らかに場違いだ。


「雨が強いのです。お早く」

呆然とするシンシアをサムエルが急かす。

「……はい」

釈然としないまま、シンシアは馬車に乗り込んだ。

後から乗ってきたサムエルがシンシアからハリーを離すと、巻き付けていた外套を取る。

相変わらず高熱でぐったりしているが、ハリーは濡れていないようでシンシアはほっとした。


サムエルはハリーを座席に横たえると、座席の下の物入れからタオルを取り出してシンシアへと渡してくれた。

「お拭きください」

タオルを受け取って顔を拭くが、ハリーを背負っていた背中以外は全てびしょ濡れでスカートからは水滴が滴り落ちている。

シンシアは少し迷ってから、馬車の扉を開けて、ぎゅっとスカートの裾を絞った。


「お座りください、馬車を出します」

スカートを絞り終わったシンシアにサムエルが言う。

「でも、座席が濡れてしまいます」

「構いませんよ、お座りください」

「……」

シンシアはタオルを敷いて、その上に座った。

少しはマシだろう。


シンシアが座ると、馬車が動き出す。

馬車がなぜ侯爵家の馬車なのかは不明だが、この雨で騎士団の馬車が出払っているのかもしれない。

とりあえず自分は騎士団の詰所にでも連れて行かれるのだろう。

騎士団の詰所なら、常駐の医師も居る。

きっとハリーを診てもらえる。


ハリーは自分と使用人の子供で通そう。

6才にしては小さいし、4才くらいにすればギリギリ自分が産んだで通る。

子爵の孫で庶子、戸籍の届出もされてない子供なら、きっと罪には問われない。

計画していた逃亡劇とは違ってしまったが、もうハリーさえ守れるならそれでいい。


父はハリーを息子だと主張するだろうが、出生届けも出さずシンシアと共に閉じ込めていた事実があるのだ。シンシアが産んだのだと証言すれば、こちらの方が真実味がある。


咄嗟についた嘘だったが、我ながらいい嘘だった。これでハリーは守られる。

シンシアはほっと息を吐いた。この際、我が身はどうでもいいのだ、ハリーさえ無事ならそれでいい。

万歳、御の字だ。

最初からこうしてたら良かったんじゃないかとすら思えた。


ここの所、張り詰めていた緊張が一気に緩む。どっと疲れてきて、シンシアはいつも伸ばしている背中を座席に預けた。


そうしてぼんやりと車窓を眺めた。




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