3.逃亡の朝(1)
貴族の罪は家族も連座で罪を問われる。
娘としてなんか扱われてはいないが、シンシアが子爵の正式な娘である事は事実だ。
子爵が断罪されればシンシアも、場合によってはハリーも罪に問われる。
それでもシンシアがアランに裏帳簿の在りかを教えたのは、罪悪感からというのが一番の理由ではあったが、もう一つ、自分とハリーが子爵家から逃げる為でもあった。
シンシアだって何度かハリーを連れて子爵家を出ようと考えた事はあったのだ。満足に栄養の摂れていない食事に離れに閉じ込められる生活。そのせいでハリーは6才にしては体も小さいし筋力も弱い。このままではまともに健康な大人にはなれないだろう。その心配はハリーが4才になる頃からあって、何度もここから逃げるべきだとは考えた。
しかしただ逃げるだけでは、裏帳簿を管理し、給金も要らない最適な働き手でもあるシンシアを、子爵である父は絶対に見つけ出して連れ戻すだろうという確信があった。
そうなれば、シンシアとハリーへの扱いが緩い軟禁から監禁へと変わり、今よりひどい生活が待っている。それだけは避けたかった。
だからシンシアは、子爵家の断罪のどさくさに紛れて逃げようと考えたのだ。
父の罪から自分だけ逃げるのは、貴族としてはあるまじき行為で、アランが屋敷に出入りし出した当初は潔くお縄につこうとも思った。
でも、自分にはハリーがいる。
幼い弟だけは何としても、たとえ汚名にまみれても守らなければならない。
シンシアには何の選択肢もなく弟を人質のようにされて、ただ使役されていたのだ。元々、自分は誇れるほど高潔な人間ではない。ここから逃げる権利くらいはあると思う事にした。
逃げることが出来たら、ハリーとひっそり暮らそう。
シンシアは弟を市井で平民としてでもいいから、伸び伸びと過ごさせてあげたかった。
逃げる時機は断罪の直前がいい。
シンシアとハリーの不在に父親が気付いても、それに手を回せない内に捕まる、そんなタイミングがいい。
そうしてアランに裏帳簿を教えた。
後は、子爵への踏み込みのタイミングを見計らってハリーと逃げるだけだ。
お金もあてもないが、母の形見の石の付いた指輪が一つだけある。これを寄付してハリーと2人で教会に駆け込めば少しの間は何とかなるだろうから、その間に生活の術を考えようと思っている。
幸い、シンシアは計算も帳簿管理も出来るのだ。選ばなければ働き口はあるだろう。
アランは自分を追うだろうが、ハリーを連れていれば何とかなる。探されるのは一人ぼっちの若い娘であって、姉弟ではない。シンシアの顔を知っているのはアランだけで、侯爵令息自ら探し回ったりはしないから、幼い弟連れであればきっと逃げられる。
大丈夫、上手くいくわ。
覚悟を決めたシンシアは、こまめにリディアにアランの訪問について聞いた。
裏帳簿を確認したのだから、アランが子爵家に踏み込むのは時間の問題だ。
そして、踏み込むなら子爵が屋敷に居る時に来るだろうから、予め子爵の予定を確認してから来るはずだとシンシアは考えたのだ。
シンシアはいつも出来るだけおどおどと、頬を赤らめながらリディアにアランの訪問予定について尋ねた。
「うふふ、しつこいわあ。ほんとうにお姉様は浅ましいわね。私の恋人であるアランをちらりとでもいいから見たいのねえ。でも、そうね、お姉様にはアランは見るだけしか叶わないものね、見るだけならよくってよ。許してあげる。今はアランは忙しいらしいの、来る時は教えてあげるわ、お姉様はお庭の端っこから、物欲しそうに見るといいわよ」
リディアはシンシアを嘲笑いながらそう答えた。
そうして、アランの訪れの知らせがないまま一ヶ月が過ぎる。
シンシアは焦ってきた。裏帳簿まで確認したのに、子爵家への踏み込みが遅すぎる。
どうしよう、何か妨害が入ったのかしら?
それとも、先ぶれなしの不意打ちでやって来るのかしら?
子爵への断罪がなければ、シンシアとハリーは逃げるタイミングが失くなるし、不意打ちで来られては上手く逃げられるかは分からない。
どうしよう、もういっそのこと、踏み込みを待たずに逃げようかしら……
戦々恐々と過ごす中、ついにリディアが5日後のアランの訪問を教えてくれる。
「今回の私とのお茶には、お父様も同席して欲しい、ってアランは言ってきているの。婚約の申し込みだと思うのよ。うふふ、可哀想なお姉様。私がアランと結婚したらお姉様を私の専属メイドにしてあげるわ、初夜の支度と翌朝の私のお世話をさせてあげるわね」
満面の笑みでそのように告げるリディアに対して、悲しそうな顔をするのは一苦労だった。
5日後のアランの訪問を知り、シンシアは逃げるのは4日後の晩にしようと決める。
一晩でハリーと隣町の教会まで歩こう。
翌朝に不在が発覚しても、父はアランの対応への準備で手一杯だろうし、アランが来てしまえば子爵家は終わりだ。
シンシアはこっそりと準備をした。
乏しい食事の中から、一晩の為の軽食を準備して、少ない荷物を纏める。
ハリーが挙動不審になってはいけないので、ハリーには直前に話す事にして迎えた4日目の朝。
ハリーが熱を出して寝込んだ。
父に伝えて薬を嘆願するが、もちろんそんな物は貰えない。出発の夜が迫る中、ハリーの熱は夕方から更に上がり、ベッドでぐったりとしている。
夜の闇の中、高熱のハリーを抱えて逃げるのは危険過ぎた。シンシアは夜の出発を諦める。
明日の朝には、もしかしたらハリーの熱も下がるかもしれない。
そこから2人で逃げる方が現実的だ。
早朝に出発すればいいのだ。
計画を変更してシンシアは夜通しハリーの看病をした。
翌朝、ハリーの熱は下がらない。
天気は早朝から土砂降りの大雨だった。
どうして?
ほとんど寝てないシンシアは絶望的な気持ちで窓の外を眺める。
どうして?神様。
なぜ、誰もシンシアに味方してくれないのだろう。
じんわりと涙が込み上げてくるが、泣いても誰も助けてはくれないのだ。
シンシアは、きゅっと目を瞑り、唇を噛み締める。
絶望している場合じゃないわ。
シンシアはこっそり屋敷に向かい、物置から使い古した外套をくすねて、それでしっかりとハリーをくるんだ。少ない荷物を腹に巻いて、ハリーを自らに縛って背負う。
大丈夫、歩ける。
土砂降りならかえって人目につかないし、良かったわよ。
出来るだけ前向きに考えることにする。
シンシアは意を決して、離れの家から外に出た。
今日が自分とハリーの新しい人生の始まりなのだ、と気持ちを鼓舞する。
土砂降りじゃないわ、祝福の雨よ。
叩きつける雨粒を受け、人目を避けて離れの裏から屋敷の門へと回り込んだ。
裏庭は足元が悪く、こけないように慎重に進む。
雨がシンシアの頭や肩を濡らし、繁みの雫でスカートはあっという間にぐっしょりと濡れた。
服が重くなり、外套を巻き付けたハリーがずしりと肩にのし掛かる。
早くも挫けそうだが、諦めるわけにはいかない。
屋敷に残っていては、連座で捕まるだけなのだ。
こうなったらハリーだけでも逃がさなくては。
シンシアはびしょ濡れで、よろよろと門まで辿り着く。髪の毛がべったりと頬に張り付き、靴は泥だらけだ。でも、門まで来た。まずは、家を出られる。
笑っちゃうくらい先は長いが、希望の光のようなものが見えてくる。
「ハリー、もう少しよ。一緒にここを出ようね」
少し元気が出てきて、ぐったりしたままのハリーに声をかけた時だった。
煙る雨のカーテンの中から、たくさんの騎士達が馬に乗って現れた。
先頭はアランだ。