26.露見(2)
アランは本棚の陰からこちらを窺うハリーにふらふらと近づいて屈んだ。
シンシアと同じ新緑の瞳が、ひどく不安そうにアランを見ている。
「ハリー、君は、シンシアの弟、なのか?」
震えそうになる声を抑えて、ゆっくり優しく聞く。小さなハリーの肩がびくりと震えた。
「ご、ごめんなさい。姉上は悪くないの。嘘は僕のためなの」
ハリーの目に涙が溜まる。
アランは、子爵邸での土砂降りの雨の日を思い出す。ハリーを自分と使用人の間にできた子供だと、迷いなく言い切っていたシンシア。
父親の犯していた罪。
断罪に訪れた騎士団。
背中に背負う、嫡男の弟。
あの状況で、彼女ならそうしただろうと思った。
自身がどのように見られるかなど考えもせずに、幼い弟の為に、弟を息子だと偽ったのだ。
「姉上を、怒らないで」
「怒ってない」
必死な様子のハリーに、アランはどこかぼんやりとしながらそう答えた。頭はまだバラバラに思考していて、先ほどから上手く考えがまとめられない。
「ほんと?」
「ああ、おいで、君の姉上の所へ行こう」
アランはハリーにそっと手を伸ばす。ハリーは戸惑いながらも抵抗しなかった。
アランはそのままハリーを抱き上げて、シンシアの待つダイニングへと向かった。
ハリーはアランの様子がおかしい事に気づいていて、ぎゅっとアランの肩を掴みながら不安そうだ。
「ねえ、アラン、ほんとに怒ってない? 姉上を怒ったりしない?」
「しないよ」
アランはハリーの背中を優しく撫でた。ダイニングまでの道のりがひどく遠く感じる。
アランはふわふわした足取りで廊下を歩いた。
ダイニングでは、既にお茶の用意がされていた。いつの間にかステラも加わっていて、侍女達とステラとシンシアで楽しげに話していたのだが、現れたアランとハリーのただならぬ様子に全員口をつぐんだ。
「ハリー? どうしたの?」
シンシアが涙目のハリーに気がついて、ハリーとアランを交互に見る。
アランがハリーを降ろしてやると、ハリーは駆け足でシンシアの元へと行ってスカートに縋りついた。
ぎゅうぅっとスカートを握りしめて、ハリーが口を開く。
「あねうえ……ごめんなさい」
ハリーから発せられた“姉上”にシンシアの目が見開かれ、そしてすぐにはっとしてアランを見た。
その目に困惑や不安が見てとれる、でも怯えはない。
アランは座っているシンシアにゆっくりと近づいて、その前に跪く。そして、スカートの上に置かれていたシンシアの手を取った。
すらりとしたシンシアの手。
「ハリーは、あなたの弟なのですか?」
アランが見上げて尋ねると、シンシアの新緑の瞳が大きく揺らいだ。
「……はい」
小さくなされた肯定の返事にアランは息を吐く。
「子爵の嫡男だと罪に問われると思って嘘を?」
「はい」
「初日にステラ女史の診察を拒んだのは、ハリーが弟だとバレないためですか?」
「そうです」
「泣いたのは?」
「え?」
「ステラ女史は、あなたが泣いたと」
「それは、労っていただいて、ほっとして」
アランは少し強くシンシアの手を握った。
じわじわと安堵が押し寄せる。
痺れていた頭が動き出した。
初日のシンシアの涙は、悲嘆の涙ではなかった。思い出したくもない過去が辛くて泣いた涙ではなかったのだ。
そして、ステラに診察されてハリーが息子でないとバレるのを畏れたのは、シンシアが乙女だからなのだろう。
目の前の美しい花は誰にも強引に手折られていない。
その事実にアランは心底安堵した。
その安堵は、恋心からの独占欲や嫉妬からくる自分のためのものではなかった。
それはただひたすらに、シンシアが誰にも傷つけられていなかった事への安堵だった。
彼女の心や体が暴力的に傷つけられていなかった事への安堵。
アランは項垂れて、シンシアの手を自らの額にあてる。
この手が男の暴力に抵抗したり、傷つけられて流れる涙を拭った事はないのだ。
全ての心配は杞憂だった。
アランは、子爵邸で出会ったシンシアが孤独で虐げられていたのは知っている。
もう十分に搾取されていた彼女が、それ以上の辛い目に遭っていたのでは、とずっと苦しかった。
そんな事実がなかったのだと知って、アランはひたすらにほっとしていた。
「よかった」
アランはシンシアの手に額を擦り付ける。
「あなたがこれ以上傷付いていなくて、本当によかった」
声が掠れた。
予想外のあまりに大きな安堵に、アランの気持ちは大きく揺らぐ。
アランは自分のシンシアへの気持ちは、もちろん自覚していた。
あの土砂降りの雨の日、自分が最悪の最低野郎だと思い知った時に、彼女への自分の恋も認めている。
しかし、最低な自分は気持ちを伝える資格などないと思っていたし、シンシアに手を出すつもりもなかった。
アランはシンシアを自分の庇護下に囲い、無風で安全な場所で暮らさせ、そんな彼女を遠くから眺めるだけのつもりだったのだ。
そんなつもりは、シンシアによってあっさりと覆された。彼女は庇護下にただ甘んじる事をよしとしなかったし、子爵家の罪に関しても真っ直ぐに向き合おうとした。
子爵が亡くなったせいもあったが、アランはそんなシンシアに当初考えていた以上に関わる事になる。
関わると、どんどんのめり込んだ。
シンシアの真面目でひたむきで、強情な所に強く惹かれた。子爵邸で出会った時から感じていた彼女の美しさは、その内面から来ていたものだったのだと納得する。
硬かったシンシアの様子は、侯爵邸で過ごす内に少しずつ柔らかくなり、それはとても嬉しかった。
ハリーについては、最初はシンシアの大切な存在だから自分も大切にしなくては、と関わりだしたのだが、すぐにその素直さと可愛らしさ、時折見せる微笑ましい男らしさに簡単に虜になった。
シンシアとハリーは、今やアランの中で掛け替えのないものだった。
そしてアランは、シンシアにのめり込むほどにハリーの父親の事が気がかりになっていた。
最近のアランは、シンシアの相手がまともである事を切に願い、シンシアが望むならその男とシンシアとハリーの3人で幸福に暮らせるように手配もするつもりだった。
そこまで思い詰めていた最愛の女性が、恐れていたように傷つけられてなかった事を知り、アランはシンシアにこれからも絶対に傷ついて欲しくないと思う。
シンシアを一生守りたいと願い、伝えるつもりはなかった想いが溢れた。
それは、こんな場面でしかもこのタイミングで言うのは明らかに悪手で変な事だったのだが、言葉は勝手に口をついてでてしまった。
アランは顔を上げてシンシアを見つめ、そしてプロポーズをした。
「あなたをお慕いしています。私の一生をかけて守ると誓う。結婚してください」




