2.間諜(2)
アランの目的が子爵家の断罪なのだと気付いたシンシアは、用心深くその行動を注視することにした。
リディアに聞けば、得意気に手紙を見せて会話の内容を教えてくれたので、アランの様子を確認するのは簡単だ。
予想通りアランは子爵家の手掛ける事業にかなりの興味を示しているらしい。
生家の商団で働いているので自然といえば自然な事だが、既にリディアを通して父に計画書や採算報告書を見たいとお願いもしている。
リディアはアランはゆくゆくは子爵家の婿に入るのだから当然だと思っているようだが、そんな訳がない、脱税と密輸の痕跡を探すつもりなのだ。
リディアと外で会う時は、レストランの個室や観劇のボックス席で、どちらも裏口から中に入るらしい。リディアが「私を誰の目にも触れさせたくないんですって、うふふ」と嬉しそうに言い、シンシアは呆れて思わず半眼になってしまった。
違うわよ、あなたと一緒の所を見られたくないのよ。だって断罪するんだもの。
こうなってくると、リディアが少し憐れな気もしたが、母の形見の宝石のほとんどを取られた事を思い出してそれを押し込める。
それにリディアだって、アランの外見や身分しか見ていないのだ。
恋は盲目、とは言うが、本気で惚れているならアランの目に自分が一切映っていない事くらい気付けるはずなのだから。
そうやってひっそりとアランの動向を探っていたシンシアだったが、ある日、リディアに呼ばれてアランと対面するはめになってしまう。
嬉しそうに自分を呼ぶ声。
目をやると、リディアの横にはアランがいた。
お父様からは、外部の人からは私を隠すよう言われているはずなのに、堪え性がないのね。
シンシアはため息を吐いた。
出来ればアランとは顔を会わせたくなかったが、こうなったら仕方がない。
リディアや継母の機嫌を損ねると後々面倒なのだ。
昔は鞭で打たれた事もあったが、そのせいで翌日の父の手伝いに支障が出てしまい、鞭や体罰は父が止めさせた。
それからは食事に酢が大量に入れられたり、ランプの油を溢されたり、離れの玄関にたい肥を撒かれたり、と陰湿で嫌らしいものになっている。
シンシアが従順に従っておけば気が晴れるようで、満足気に微笑んで終わりだ。単純なのは助かる。
シンシアはリディアの気の済むようにと、2人の元へと行ってやった。
万が一、外部の人間と接触するような場合は、頭のおかしい振りをしろ、と父からは言われているが、面倒くさいので特に演技はしない。
間近で対面したアラン・キリンジ侯爵令息は本当に美しい男だった。
これは、リディアが夢中になるわけだわ。
思わず見惚れそうになってしまい、深く納得する。
高位の紳士であるアランには、淑女の礼で挨拶するべきなのだろうが、あえてそれをせずにちらりと見るだけに留めた。
貴族的にはこれで十分に頭がおかしいから、父の言い付けは守れただろう。
「お姉様、お姉様はそちらのワンピースがお気に入りで他の服には見向きもされないのよねえ?」
紹介も何もかもすっ飛ばして、猫なで声でリディアが聞いてくる。
異母妹こそ、貴族的には完璧に頭がおかしい。
シンシアは遠い目をして、「そうね」と答えた。
「お屋敷も大嫌いなのよね、離れでお一人で過ごすのがお好きなのよねえ?」
「そうね」
なるほど、そういう設定なのね。そして、ハリーはいない事になっているのね。あんなに可愛い天使が。
「私もお父様も、何とかお姉様にはお屋敷で暮らして、お洋服もきちんとあつらえたものを着てほしいのよ?そんなみすぼらしくて汚いワンピースなんて捨てて」
「気遣いは無用よ、リディア。もういいかしら?お客様もびっくりされているわ」
「お客様だなんて、ふふ、前に話したでしょう?こちら、アラン・キリンジ様。キリンジ侯爵家の次男さんなのよ。最近、とても親しくさせていただいていると言ったじゃなあい」
リディアは勝ち誇ってそう言うと、うっとりとアランを見上げた。
シンシアはもう一度アランを見る。しっかりと冷たいアイスブルーの瞳と目が合った。
淡い水色の光がシンシアを射抜く。リディアに向けられているよりもずっと強い眼差しがシンシアに注がれていた。そこにはある種の熱すら感じられる。
怒り?憎しみ?
そういった類いの熱のような気がした。
何故だろう、これまでひっそりと観察はしていたが、アランとは初対面だ。そのような感情を向けられる謂われはない。
戸惑いながらも、全てバレているんだと悟る。
リディアの嘘もシンシアの状況も全部見透かされているのだ。
この男は、シンシアが父の悪事を手伝っている事も突き止めるだろう。そして厳しく責めるだろう。
ひょっとしたら、もうそこまで辿り着いていて、それ故の怒りなのだろうか。
でも私、あなたに捕まる訳にはいかないの。
シンシアはひたりとアランを見据える。一歩も引く気はない。
私は、逃げ切ってみせる。
シンシアは目を瞬いてから、視線を外した。
そうして視線を外す瞬間に、不満気なリディアの様子にはっとなる。
そうだった、私、リディアの恋人に憧れていることになってたんだわ。
すっかり忘れていた。
リディアは、シンシアが惨めにアランを慕っていると思い込んでいて、最近とても機嫌が良いのだ。
数日前には、「私のアランを見るしか出来ない可哀想なお姉様に」と菓子までくれた。
この菓子に、ハリーは小躍りして喜んだ。
天使ハリーの小躍りを思い出してしまって緩みそうになる口元を、シンシアは必死に俯いて隠し、いじいじとスカートの裾で遊んだ。
「リディア、あの、もう行くわね。わたしはこんな成りしか出来ないし、キリンジ侯爵令息様の前では恥ずかしいわ」
棒読みになってしまったが、リディアにはこれで十分だろう。
シンシアはひらりと身を翻してその場を去った。
***
この対面以降、リディアは時々シンシアをアランとの席に呼びつけた。アランはますます子爵家に入り浸るようになり、屋敷内でもすれ違うようになる。
子爵家と自分を断罪しようとしている男の顔を度々見ることになってしまったのだが、シンシアに嫌悪はなかった。
今や断罪はシンシアの望む所でもあったし、アランの纏う冷たく厳しい空気は、亡くなった母に少し似ていて懐かしいとすら感じた。
何よりも、アランは唯一この屋敷でまともな感覚を持っている人間で、父や継母、リディアや使用人達と接して参っているような時にアランを見ると妙に落ち着いた。
アランとシンシアが交わす言葉はほんの数語だが、口調は事務的で丁寧で、シンシアを見下したり蔑むこともなく、それも心地よい。
ただその眼差しにはいつも、初対面で感じた熱が込もっていた。その熱が怒りから来るものだとしても、リディアに注がれるものよりずっと情熱的な視線。庭を歩いている時に遠くから絡み付くようなアランの視線を感じる事もあり、それはシンシアを戸惑わせた。
何なのかしら?
ほんの少し、シンシアはアランに興味のようなものを抱く。
あの男は何を考えて感じているのだろう。
アランという若者を知ってみたい気もした。
でもシンシアは最終的にはこの男から逃げると決めている。だからそれ以上の興味は持たないように気を付けた。
そして実際、アランは着実に子爵家の悪事に近付きつつあった。
父がアランに表向きの真っ当な事業の相談をし、帳簿も見せていると知り、シンシアは子爵家への踏み込みと断罪も秒読みだと確信する。
シンシアの緊張と警戒が高まりつつあったある日。
よりによって密輸の裏帳簿の作業を終えて、それを戻そうとしている時にシンシアはアランと廊下ですれ違った。
アランは珍しく動揺しているように見えた。
そして、アランは非常にらしくないことに、取って付けたようにシンシアにヒメアガパンサスの綴りを聞いてきた。青紫色のラッパ型の花の名前を。
「ど忘れしてしまったので、書いてくれませんか」
そうお願いされて、シンシアはアランが自分の筆跡を確認したいのだと分かった。やはり、全てバレているのだ。
無言で手持ちのメモに綴りを書いて渡す。
潮時だと思った。
そして、時機は自分で作るべきだとも。
シンシアは小声で裏帳簿の隠し場所をアランに告げた。