17.穏やかな日々(4)
おじさん呼びの衝撃の日より、アランは侯爵邸に帰ってくるようになり、シンシアとハリーと共に別棟の小さなダイニングで朝食と、時間が合えば夕食を摂るようになった。
元々、侯爵邸の本棟には侯爵と侯爵夫人が、別棟には成人した息子達がそれぞれで暮らしていて、生活スタイルは分かれていたらしく、アランは一人で別棟のダイニングで食事をしていたようだ。
それにしても、アランが食事を誰かと共にするのなら、自分達とではなく侯爵夫人とするべきなのでは、とシンシアは思いアランに聞いてみた。
「侯爵夫人とお食事を共にされないのですか?」
「登城するようになってからは、城で済ませてしまう事が多かったので、家ではほとんど食べてなかったんです」
アランの返事にシンシアは、それなら尚更、夫人と食べるべきなのでは?と首を傾げたが、他所の家族の事情に立ち入るのも失礼なので、それ以上は聞かないことにした。
なので、本日も朝から3人で朝食の席に着いている。
シンシアは当初、自分などがアランと食事をするのは邪魔になるのではと気が進まなかったのだが、アランが全く気にしていないようだったので、すぐに慣れた。
子爵家にアランが出入りしていた時は、アランは得体の知れない冷たい男で、熱っぽい視線には若干の怖さまであったが、自分への気遣いや優しさに触れてからは、いい人なのだと思っている。
慣れてくると、普通に人間臭い部分もあるし、可愛い一面すらある。
一対一で向き合うと、少し緊張はしてしまうが気詰まりというほどではない。
何より、アランはハリーにも優しくしてくれるので、シンシアは今やしっかりとアランに好感を持っていた。
そのハリーはというと、すっかりアランに懐いていて、食事の席ではずっとアランに話しかけている。
今までずっとシンシアと2人だったので、身近に話を聞いてくれる男の人がいる事が新鮮で嬉しいようだ。
「アラン、昨日はね、カマキリさんを見つけたんだよ。シンシアは飛ぶ虫は苦手だから、ケイティと一緒に捕まえたんだ」
うきうきと語り出すハリー。
最近のハリーは虫を全て“さん”付けで呼ぶ。
アランの影響だ。
ハリーとの初対面でバッタを“さん”付けしていたアランは基本的に虫は“さん”付けなのだ。
本人は至って自然に、アリさん、蝶々さん、バッタさん、と呼んでいて、ケイティもサムエルも眉ひとつ動かさないから幼い頃からの癖なのだろう。
この“さん”付けがシンシアにはちょっと微笑ましくて可笑しい。
鋭利な冷たい美貌の男が、「アリさん達は役目が分かれている。食べ物を探すアリさんと、巣を守るアリさんがいて」などと語る様子には、思わず口角が上がりそうになる。
今も、「カマキリさんは、ハリガネムシさんに寄生されると自ら池へ飛び込んでー」と何やらグロテスクな話をしている間もしっかり“さん”付けだ。
虫の生態に詳しいのは、アランが言うには兄である嫡男の影響らしく、きっとその兄も虫を“さん”付けするんだろうな、とシンシアは思っている。
虫が苦手なシンシアとしては、朝からその生態を詳細に聞くのは、時には食欲が失せてしまいそうになるのだが、ハリーがとても楽しそうなので、頑張ってにこにこしている。
(早く、カマキリさんの話、終わって欲しいな)
耳から入ってくるカマキリの話を出来るだけ聞かないようにして、シンシアは紅茶の味に集中した。
「――――ですか?」
耳からの情報をシャットアウトしていたから、アランのシンシアへの問いかけは聞こえていなかった。
気が付くと、アランが自分を見ていた。
「すみません、ぼんやりしていました。何でしたでしょうか?」
「あなたは用意したドレスでは、紺と水色と深緑の三着をずっと着ているようですが、華やかなデザインや色は苦手ですか?」
そう聞かれてシンシアは自分を見る。
本日のドレスはくすんだ水色のものだ。
アランの指摘通り、シンシアは部屋に用意してくれていたドレスの内、これと紺色と深緑色のドレスを着回すようにしていた。
元々着ていた寸足らずの色褪せたワンピースは、侍女達が「こちらはサイズも合っておりませんし仕舞っておきますね」と、早々に片付けてしまっている。
「ドレスはお借りしているのですし、出来るだけ汚れが目立たないものだけ着ようと思っています。全て新品でしたから、三着を着回して後はそのままお返しするつもりです」
「返す?」
「はい。? ドレスは侯爵家のどなたかの為に用意したものなのですよね? あ、買い取りした方が良ければ時間はかかるかもしれませ、」
「違います」
アランの声が鋭くなった。
「ドレスは全て、あなたの為に用意したものです。オーダーメイドする訳にはいかなかったので既製品ですが。
こちらが勝手に用意しましたし、代金をいただくつもりもありません」
「…………」
唖然とするシンシア。
びっくりし過ぎて声が出てこない。
「…………っ、ええっ!」
やっと驚きがやって来て思わずのけ反り、ガタンと椅子が鳴った。
「えっ、私の為? なぜ?」
用意されていたドレスは10着はあるのだ。
全て普段用だが質が良く、かなり高価なものだと分かるものだった。
「侯爵家があなたの後見だからです。うちが後見しているあなたに適当な物は着せられません」
「でも、こんな良いものをいただくのは」
「私が勝手に用意したので、あなたが気に病む必要はありません。それに、どれも、とてもよくお似合いです」
“よくお似合いです”をアランは少し熱を孕んだ目で言った。
「あ、ありがとうございます」
シンシアはかあっと顔が赤くなり、お礼を口にしてしまう。
お礼を言ってから、これはドレスを受けとると承諾した事になるんじゃ、とアランを見ると、にっこりされた。
「よかった。他のものも是非お召しになってください。あなたに着ていただく為のものです」
「シンシア! 明日はピンク色のを着てみてよ、きっと絵本のお姫さまみたいになるよ!」
すかさず入る天使のリクエスト。
「ピンク色の!?」
「うん! 何回も言ってるよ、あれを着てお姫さまになって」
天使ハリーはシンシアの部屋に遊びに来た時にちゃんとクローゼットもチェックしており、シンシアに、華やかな淡いピンク色のドレスを着てもらいたがっていたのだ。
「ハリー、ああいうのは私には」
「きっとお似合いになります」
「ええ、そうなんです……えっ、いやいや似合いませんよ。不幸顔なので」
アランの言葉に危うく同意しそうになり、シンシアは慌てて否定する。
「不幸顔?」
「華やかさや明るさがないでしょう?」
そんな自分には淡いピンクは似合わない。
苦笑しながらそう告げると、アランは真面目にこう返してきた。
「あなたには、春の夜の優しさや、冬の月の凛とした佇まいがあります。華やかなドレスに負けたりはしないでしょう」
「…………」
シンシアは絶句して赤面するしかなかった。
(さすが侯爵家令息だわ。お世辞もすごい……)
このままでは、リディアのように自分もこの銀髪の美形に骨抜きになるのではないだろうか。気を付けなくては。
「ありがとう、ございます」
何とか言ったお礼は、今度はピンク色のドレスを着るという承諾になってしまったようだ。
「じゃあ明日は、シンシアはお姫さまのドレスで決まりだね!」
ハリーが満面の笑みで嬉しそうに言い、明日のシンシアの服が決まった。




