16.穏やかな日々(3)
昼食の後、ハリーの昼寝が終わってからシンシアはハリーとケイティと共に朝干したリネン類を取り込んだ。
「いい匂いだねえ」
腕いっぱいに抱え込んだシーツに顔を埋めてハリーが言う。
「ハリー、洗濯したものに顔を擦りつけちゃダメよ」
「あらあら、じゃあ、そのシーツはハリー坊っちゃんのにしましょうね」
シンシアがぎょっとしていると、ケイティが優しく言う。
そのおおらかさがありがたい。3人の息子を育て上げた母親の貫禄だろうか。自分も見習いたいなとシンシアは思う。
ケイティは取り込んだリネンを篭にまとめると、「私が仕舞っておくので、庭で遊んでてください」そう笑顔で告げた。
ハリーを見ると、既に花壇の側にしゃがみこんでいる。どうやら花壇の中の蟻に夢中のようだったので、シンシアはありがたくそうする事にした。
子爵家で離れから出る事を禁じられていたハリーは、外遊びは日の暮れた裏庭にこっそり出るくらいしか出来なかったので、日中の侯爵家の広い庭はとにかく楽しいようだ。
今朝、洗濯の為に外に出ようとすると信じられないという顔で「お外、出てもいいの?」と言って、とても嬉しそうに屋敷からの一歩を踏み出していたのを思い出す。
「ねえ、シンシア、これは?蜘蛛?」
側に行くと、ハリーは蟻をつんつんしながら聞いてきた。
「それは、蟻よ。たまに離れにも入ってきてたじゃない」
「へええ、アリかあ。こんなんだったかな?シンシアはアリは平気だよね」
「あんまり大きいと嫌だけど、これくらいなら大丈夫よ」
シンシアもハリーの横にしゃがんで花壇を覗き込む。土が少し盛り上がっていて、蟻の巣の出入口のようだ。
働きアリ達がせっせと出入りしている。
巣から何かを運び出すもの、巣へと何かを運びいれるもの。アリ達の出入りが際限なく続く。
シンシアは思わず無心でせかせかと歩き回る蟻を見た。
せかせかせかせかせかせか。
せかせかせかせかせかせか。
こんな風にぼんやりと蟻を見たのは、いつ以来なのだろう。物凄く久しぶりな事だけ分かる。頭が空っぽになって、時が経つのを忘れそうだ。
せかせかせかせかせかせか。
せかせかせかせかせかせか。
せかせかっ
「あっ、ハリー、ぶつかったわ!」
ぶつかった蟻に童心に帰って声をあげ、隣の弟を振り返ると、そこに弟はいなかった。
「えっ?」
慌てて立ち上がり、ハリーを探す。
ハリーは少し離れた所でぴょこん、ぴょこん、と蛙のように屈みながら跳び跳ねていた。
跳び跳ねながら、時々前方の地面に手を伸ばしているので何かを捕まえようとしているようだ。
(何だろう、動き的にはバッタかしら?)
シンシアはバッタになると少し苦手だ。スリムなやつは大丈夫なのだが、イナゴ系の厳ついやつは無理なのだ。
ハリーが追いかけているのがどちらなのかはこの距離では分からないので、そっと見守っていると、ハリーの向かいからやって来た誰かがさっと屈んで、バッタ(推定)を捕まえた。
バッタ(推定)を捕まえたのは、洗練された身なりの長身の銀髪の美形だ。
肩より少し長めの銀髪を緩くまとめ、冷たいアイスブルーの瞳がきらりと光るその人は。
「!」
シンシアは息を呑む。
(アラン様じゃないの!? 何てこと!?)
侯爵家令息に虫を捕まえさせるなんて、恐れ多い。
びっくりしたシンシアはバッタ(推定)がスリムな方である事を願いながら、アランから獲物を受け取るハリーへと駆け寄った。
「すみませんっ、ハリー、お礼は?」
あわあわするシンシアの前で、獲物を大切そうに両手に包んだ天使ハリーはとても無邪気に衝撃の発言をした。
「うん!ありがとー、おじちゃん!!」
「おじっ……!」
ピシィッと固まるシンシア。
固まるシンシアの前でにこにこする天使。
ばっとアランを見ると、物凄く衝撃を受けた顔をしている。
“おじさん”などと呼ばれた事などないに違いない。その衝撃顔は面白いが、面白がっている場合ではなかった。
侯爵家令息に虫を捕まえさせ、あまつさえ、おじさん呼びするなんて失礼過ぎる。
「ハリー!!おじさんじゃないでしょっ、おにい」
お兄さんでしょ!と言おうとして、果たして侯爵家令息に“お兄さん”もどうなのか、と考えてシンシアは言葉に詰まった。
(お兄さん、も変よね? アラン様かしら? でも私から名前呼びを持ち掛けるのは失礼よね?)
困り果てるシンシアを不思議そうに見上げながら、天使はおじさん呼びを続ける。
「シンシア、このおじさんはさ、すっごい速くバッタを捕まえたんだよ!!おじさ、むごっ」
シンシアはこれ以上アランの傷が深くならないように、ハリーの口を押さえた。
「すっ、すみませんっ」
(ああ、穴があったら入りたい。ハリーと)
顔を赤くして謝るシンシア。身を小さく小さくしてハリーの横にしゃがんでぴったりくっついた。
「あー……いや、大丈夫です」
おじさん呼びの衝撃から立ち直ったアランがやっと口を開いた。
それからハリーと目線を合わせるために、そっと膝をつく。
「こんにちは、小さな紳士。私はアランというんだ」
アランがハリーに微笑む。
その微笑みはハリーに向けられたものだったが、シンシアはハリーのすぐ側に居たので至近距離でそれを目撃する事になった。
「…………っ」
アランの笑顔にシンシアの心臓がドキンと跳ねた。
(なにこれ……美形の笑顔って危険だわ。しかもリディアに向けていたのと全然違う優しいやつ。この人、こんなに優しく笑うんだわ)
自分が微笑まれた訳じゃないのに、自分の顔がどんどん赤くなるのが分かる。
さっきよりも、もっと穴に入りたい気分だ。
真っ赤なシンシアをハリーは怪訝な様子で見ると、身動ぎしてその手から逃れた。
「ありがとう、アラン!」
「ハリー!呼び捨ては、」
「いや、いいんだ。私も君をハリーと呼んでもいいかい?」
「僕のこと、知ってるの?」
「ハリー、アラン様は子爵家の大事からハリーと私をここへ連れて来てくれた人なのよ」
「そうなの?」
シンシアの説明にハリーが目を見開いてアランを見る。
「そうよ。ハンバーグもオムレツもシチューもローストチキンもポークステーキも鮭のムニエルもアイスクリームもパウンドケーキもプリンも、全部、アラン様が用意してくれてるのよ」
「そうなの?」
ハリーはさっきよりも目を見開き、その目をキラキラさせながらアランを見た。
「食いしん坊だね。用意したのは侯爵家のコック達だよ。私は指示をしただけだ」
「全部美味しかったよ!ありがとう、アラン!」
「お礼なら、厨房に言いなさい」
「ちゅうぼう?」
「コック達が働いている場所だ。一緒に行くかい?」
「うん!」
「じゃあ、バッタさんを草の多い所に帰してあげておいで」
アランの言葉に「分かった!」と頷いてハリーは良さそうな草むらを探して駆け出す。
「いろいろ、本当にいろいろ、すみません」
ハリーが離れてから、シンシアは言葉にはしなかったが、主におじさん呼びについて謝った。
「いえ、全然気にしていません。どうぞ」
アランが立ち上がり、しゃがんだままのシンシアに手を差し出す。
「あ、ありがとう、ございます」
シンシアはギクシャクとその手を借りて立ち上がった。
「今日はお帰りが早かったのですね」
「やっと一段落しました。明日からは落ち着くと思います」
「一段落とは、継母とリディアが騎士団を去ったのでしょうか?」
「元子爵夫人とリディア嬢は手続きも終わり、今日、都を去りました」
アランの言い方に、離縁と除籍が済んだのだと分かった。
「そうですか」
もうあの2人は赤の他人になったのだなと思う。
リディアとは半分血は繋がっているので、その縁は切れるものではないが。
「路銀は私から多めに渡しておきましたので、道中の心配は要らないと思います」
「ご迷惑をおかけしたのに、そんなお気遣いまですみません」
「いえ、あなたの気持ちの負担が少しでも軽くなればとやっただけです。……今の言い方は押し付けがましかったですね、気にしないでください」
「いいえ、ありがとうございます。あの、新聞も!新聞にハリーの事が載ってないのもアラン様ですよね?」
ハリーが離れている今のうちに、とシンシアは勢い込んで聞いた。アランの顔が曇る。
「新聞を読んだのですか? 不快になったのでは? ハリーの事は少し圧力をかけましたが、あなたの境遇を全て書くな、というのは流石に無理があるので出来なかったのです。
しかし、あそこまで有ること無いこと書くとは……申し訳ない」
曇っていたその顔は、一気に苦く辛そうに歪んだ。
「謝らないでください。ハリーの事が出てないだけでとてもありがたいんです。私は平気です。まあ、こんな私を美人だと書いているのは、詐欺みたいで困りますが」
アランが辛そうなので、シンシアは後半はわざと冗談っぽく伝えた。
「あなたは美しいです」
間髪を容れずにアランが言う。
「え?」
「美しくて、困ります」
「え?」
(どういう、意味かしら?)
シンシアはまじまじとアランを見た。その顔は眉が寄せられ、険しいままだ。
これが甘い笑みや切ない吐息付きで、科白が「美しいあなたに私の心が囚われて、困ります」だったなら、シンシアだって俯いてもじもじしただろうが、アランの顔はどこまでも険しかったのでシンシアはただ戸惑った。
「す、すみません?」
結果、疑問形で謝ってしまった。
「あなたが謝る必要はないです」
「あ……はい」
「バッタさん、帰してきたよー。アラン、ちゅうぼうへ行こう!」
戸惑うシンシアの元に救済主ハリーが帰ってくる。
よかった!とシンシアはハリーを迎える。
さっきのアランの言葉は貴族特有の駆け引きか何かだったのだろうか、と思うが、どう答えるのが正解なのかは全然分からないので、このまま流す事にした。聞き間違い、という事もあり得る。
「そっと帰してあげた?」
「うん、元気に跳んで行ったよ。シンシアも一緒にちゅうぼうへ行こう」
早く早く、とハリーがぐいぐいとアランを引っ張る。バッタを捕まえてくれたからなのか、美味しいものをくれていたからなのか、ハリーはすっかりアランを好きになったようだ。
シンシアとハリーとアランの3人はその後、厨房のコック達に「いつも美味しい食事をありがとう」と挨拶をして、夕食は別棟の小さめのダイニングで3人で食べた。




