14.穏やかな日々(1)
「いっち、にっ、いっち、にっ」
リズミカルな天使の掛け声とともに、裸足の小さな足一組と、同じく裸足の大きな足二組がぎゅむぎゅむと桶の中のリネンを踏んでいる。
ここはキリンジ侯爵家の裏庭の水場。
爽やかな風が吹き抜け、朝の太陽が降り注ぐ中、ハリー付き侍女のケイティが監督する中、水場の大きな桶でリネン類を踏み洗いしているのはハリーとシンシアとステラだ。
「ハリー坊っちゃん、腰が入ってないです!もっと腰を入れて踏みますよ!シンシア様、ステラ様、お上手です!」
ケイティの掛け声が飛ぶ。
ハリーは自分へのダメ出しに「はぁーい!」と嬉しそうにがに股になった。
「坊っちゃん、がに股になるんじゃないですよ!何ですか?カニですかー?」
ケイティの言葉にハリーは嬉しそうにますますがに股になる。
「ハリー坊っちゃんはカニですかー?」
「カニですよー」
もはや、踏み洗いを忘れてカニになるハリー。
浮いた泡をチョキの手ですくってケイティに投げたりもしだした。「ひゃああっ」とちゃんと大袈裟に逃げてくれるケイティ。
ケイティの逃げっぷりにすっかりテンションの上がったハリーは、リネンの踏み洗いという使命を忘れてカニ歩きで桶から出るとケイティを追いかけだした。
「行っちゃったわねえ。それにしてもこういうのも、楽しいものね」
桶に残された2人の内の1人、たくしあげたスラックスの裾を濡らしながらステラが言った。
「ケイティさんが盛り上げてくれるお陰です」
ステラと同じ様に結んでたくしあげたドレスの裾を濡らしながらシンシアは笑って答える。
シンシアとハリーが侯爵家でお世話になりだしてから5日経つ。
2日目にアランから、シンシアは子爵家の悪事の被害者で保護の対象だと告げられ、複雑な思いを抱えつつもシンシアは重要参考人として侯爵家で世話になる事を受け入れた。
翌日にはハリーの熱も下がり、ハリーにも「子爵様が悪い事をして、子爵家のお家がいろいろ混乱しているから、しばらくの間はキリンジ侯爵家のお屋敷でお世話になる事になった」と伝えた。
父親の子爵の死については、まだ言っていない。また機会を見て伝えるつもりだ。
ハリーは神妙な面持ちで頷き、シンシアが「私もここでお世話になるから、ハリーとはずっと一緒よ」と伝えるとやっと笑顔になった。
そんな風にして、侯爵邸で過ごす事を受け入れたものの、重要参考人として騎士団に呼び出されるまではまだ日があり、シンシアが日中やる事はハリーと遊ぶくらいだった。何もしていないのに、やたらと美味しい食事をいただき、服まで借りている。シンシアの中ではすぐに申し訳なさが募った。
なので3日目の午後、何か出来る事をとシンシアは屋敷の掃除を手伝いだした。
領地経営の一部や裏帳簿を任されていたシンシアの真価は数字の処理や書類仕事なのだが、まさか裏帳簿をつけていた自分が侯爵家の会計を手伝う訳にはいかない。離れでは身の回りの掃除洗濯はしていたので、そういった仕事も人並みに出来る。
シンシアはせっせと窓を拭きだしたのだが。
「お止めください!」
この拭き掃除は侍女達に青い顔で止められてしまった。
客人のシンシアにそんな事はさせられない、と真っ青な侍女達。そこを押し通してまで掃除をするのは悪いので、一旦引き下がったシンシアは4日目の朝、ハリーを全面に出す事にした。
ハリーがやりたがっている体で(実際に提案するとハリーはやりたがった)掃除を手伝う事にしたのだ。
くるくる金髪にきらきら新緑の瞳の天使が「僕、お掃除、やってみたいな」とうるうる上目遣いで言えば、侍女達は「はうっ、天使……」と簡単に陥落した。
ハリー付きの侍女のケイティも「いろいろ経験するのはいい事です」とおおらかに許してくれた。
そうして無事に昨日はハリーと共に窓の拭き掃除をして、今日は洗濯をしている。本日、ハリーは床のモップがけを興味深そうに眺めていたので、洗濯に飽きたらモップがけに誘おうと思っている。
これでしばらく侯爵家の掃除と洗濯を手伝える算段だ。ハリーと共になので若干非効率であるし、監督するケイティの手間はかかってしまうけれど、それでも、ちゃんと働いた後のご飯は気持ちの負担も少なくて更に美味しい。
(幼い弟をこんな形で利用するなんて、私、腹黒でもあったんだわ)
どんどん露になるシンシアの新たな一面だ。
そんな腹黒い面もあったらしいシンシアは、弟のハリーについて、侯爵邸ではこのまま自分の子供で通そうと思っている。
シンシアが罪に問われないならハリーも安全だとは思うが、貴族会議の結果が出るまでは用心しておいた方がいいとシンシアは考えたのだ。
子爵家の爵位についてアランは、爵位は保留中でどうなるかは分からない、と気休めを言ってくれたが、剥奪は免れないだろう。それならわざわざ危険を侵してハリーをヨハンソン家の嫡男だと言う必要はない。子爵家の処分が決まり、平民となって市井で暮らすようになってからこっそり姉弟に戻ればいいと思っている。
「そういえば、ステラさんは何かご用があったんじゃないですか?」
カニと化したハリーがケイティを追いかけるのを微笑ましく見ながら、シンシアは隣の女医に聞いた。
ステラはシンシアとハリーがリネンの踏み洗いを始めた所で、ひょっこり顔を出し、「私も交ぜて」とさっさと交ざってきたのだ。
「あぁ、真ん中の坊やから時々お嬢さんの様子を見にきてって言われたのよ。ほら、初対面であなた私相手に泣いたじゃない。私には心を開いているんじゃないかと坊やは思ったのね」
「えーと、坊やとは?」
「アランよ」
「……ぼ、坊や」
(え?あれが?あの冷たい美形が?坊やって感じは全くないと思うけど)
「私としても、お嬢さんとハリーくんは気になったし、こうして顔を出したの。ちゃんと食べてる?全然太ってないわよ」
「あれからまだ3日しか経ってませんから」
「若い娘は太ってるくらいがいいのよ」
「頑張ります」
侯爵家の食事はとても美味しいのだが、質素というよりも貧相な食事に慣れきったシンシアの胃はすぐには対応出来なくて、ちょっと胃もたれ気味だ。ハリーは問題なくもりもり食べているというのに情けない。
「ところで、アランとはどう?仲良くなった?」
「仲良く?いえ、特には。お忙しいみたいでお城に泊まり込んでいらっしゃって、ほとんどお会いしないんです。サムエルさんが言うには、王太子殿下の補佐役で元々多忙なのですよね。加えて今回のヨハンソン子爵家の事もあって、ここの所は休みなしだと伺いました」
サムエルからは、子爵家の件で騎士団の牢に入れられている令嬢が、騎士団でもて余すほど荒れていて、アランはその対応にも追われていると聞いている。
さらに、その荒れる令嬢に出来るだけ早く出ていってもらう為に、令嬢の悪事への関与無しの確認を急ぎでもやっていて、これが忙しさに拍車をかけているのだという。
(荒れてる令嬢ってリディアだわ……)
事情を聞いて、居たたまれなくなったシンシアだ。
リディアがアランを恨むのは分からないでもないが、リディアが夢中になっていたのは主にアランの地位と外見だったのだから、自業自得だとも思う。そして自分の父が罪を犯していたというのに騎士団で騒ぐとは、貴族の自覚も何もあったものではない。
リディアには、子爵家にやって来た12才より家庭教師が付き、知識やマナーを教えていたはずだが身に付かなかったようだ。
継母はそういう娘の性質も見て、離縁と除籍を決めたのかもしれない。
リディアは、子爵邸にやって来なかった方が平和な人生を送れたのかな、とシンシアは思った。
「坊やは新聞にも手を回しているようだしね」
ステラの呟きにシンシアはリディアへの思いから我に返る。
「新聞?」
「あー、今のは間違えたかも、気にしないで」
「新聞がどうしたんですか? アラン様は何かしたんですか?」
それはきっと子爵家の記事が載っている新聞なのだろう。
「いえ、うーむ。私が勝手にそうかなあ、と思っているだけなのよ。新聞に小さい坊やの事が出てないから。詳しくはアラン本人に聞きなさい」
そこにちょうどカニ(ハリー)を抱えたケイティが戻ってきたので、このやり取りはうやむやになった。
足を泥だらけにしてしまった金髪のカニ天使の足を洗い、4人でリネンを干した。
クリーム色で統一されたシーツや枕カバーを干し終わると屋敷へと向かう。
「この後は、クリスティナとお昼を食べる約束をしてるの」
屋敷に向かいながら言ったステラの言葉にシンシアの肩がぴくりと震える。
「ステラさんは侯爵夫人と親しいのですか?」
「ええ、友人よ」
「ご友人……あの、夫人は私とハリーが屋敷に居る事を不快に思ってはいらっしゃらないでしょうか?」
それは、重要参考人としてお世話になると決めて以来、シンシアがずっと気になっている事だった。キリンジ侯爵が不在の今、この屋敷の主人は侯爵夫人であるはずなのに、シンシアはその夫人に挨拶も出来ていないのだ。
夫人は別棟には立ち入り禁止らしく(どちらかというとシンシア達が本棟に立ち入り禁止なのでは?とシンシアは思う)、シンシアとハリーを目にも入れたくない様子だ。
もしかしたら自分達2人に激怒しているのかもしれない。
「いいえ。興味津々よ」
ステラはそこでちらりと屋敷の窓を見上げた。
シンシアも釣られて屋敷を見て、2階の窓で一瞬何かが光ったような気がしたがそれはすぐに消えた。
「お嬢さんは気にしなくていいわ」
「そうなんですか?あの、でも、立ち入り禁止だと」
「そりゃあ、あの人、前しか見ないもの。関わったらあなた、あっという間に坊やのお嫁さんよ」
「お嫁さん!?」
すっとんきょうなシンシアの声に前を行くハリーが振り返る。
シンシアは「大丈夫よ」とにっこりしてからステラを小声で問い詰めた。
「お嫁さんって何ですか?お嫁さんって」
「今まで侯爵家の坊や達の誰も、女性を屋敷に招待はしてないのよ。おまけに連れてきたのは、真ん中のアランじゃないの。アランは押し負けるタイプじゃないし、同情で優しくするタイプでもないわ。
つまり、本命よね。クリスティナはずっと娘が欲しかったからねえ、きっともう息子の相手は人間の女性で自分より年下ならいいと思ってるのよ。あなたを嫁として囲い込む気満々で、坊やに止められているの」
「ちょっと待ってください、アラン様は高位の貴族として関わった私達を放っておけないだけですよ」
アランはシンシアに恩返しをしたいと言ったし、同情はしていないと言っていった。
だがシンシアは、この待遇はシンシアの事を知って見捨てる訳にもいかなくなった彼の優しさなのだろうという結論に至っている。
そこにはリディアを騙した罪悪感もあるだろうし、子爵亡き今、脱税と密輸の唯一の証人であるシンシアへの責任感もあるだろう。
それらを併せて、アランは高位の貴族として当然の事を行っているだけなのだ。
真面目にそういった事情を話すシンシアに、ステラは目を瞬いてから可笑しそうに笑った。
「あはは、あなた、生真面目なお嬢さんねえ」
「生真面目?とんでもないです。私は図太くて性悪で腹黒なんです」
最近発見したシンシアの一面達だ。
「あっははは、まあ、とんだお嬢さんだわ。ふふふ、まあいいか。ねえ、私はね、人の善意はあんまり信用してないのよ。善意なんて薄っぺらいもの、すぐに反古にされると思っているの。だから善意でされるよりは下心でされる行為の方が信頼出来ると思ってる。むしろ最初の原動力は下心とか邪な心のほうが物事って長く続けられると思うの」
「? はい」
「まあ何せ、この先お嬢さんは侯爵家での厚遇には何の心配もしなくていいって事よ」
「…………アラン様に下心があると?」
「ふふふ、そこは鋭くて安心したわ」
「ないと思いますけど」
ないと思う。
あの冷たく光るアイスブルーの瞳の中に下心があるとは思えない。
「そりゃあ、あの子だって上手くやるわよ」
「そうでしょうか」
シンシアにはステラが自分を揶揄っているとしか思えなかった。
「とにかく、クリスティナだってアランだってあなたを歓迎してるって事よ。余計な事は考えないでゆっくり過ごしなさい」
ステラはシンシアの頭を撫でて笑うと「じゃあまたね」と手を振って友人である侯爵夫人の元へと向かった。




