ガラン=アドゥナ 五
ミル皇女の手を取ろうとしたら、
「そうじゃないわ」
と、ミル皇女は俺の腕に腕を絡めた。
どうやら俺のエスコートで集落を見て回ることになるようだ。
だが、隣から強烈なアルコール臭が鼻につく。
「ごめんなさいね。今朝方まで飲んでてまだ少しお酒の臭いが残ってしまったわ」
悪びれもせずに笑顔で言う。
腕を絡められてもミル皇女ならまだ平静を保つことができる。
なぜなら彼女は母さんや結凪に匹敵するちっぱいだからだ。
「大丈夫です。母さんとかハルカさんで慣れてるので」
母さんと柊は大酒飲みらしく、朝方はいつも酒の臭いがキツい。
聞けばふたりとも水のようにガブガブと酒を飲むのだとか。俺は臭いだけでクラクラしそうなので、酒の強さは母さんに似なかったようだ。
お酒を飲める年齢になるまではわからないけれど。
「ラナ様とハルカはお酒がとてもお強いものね。樽ごとそのままイきそうな飲みっぷりに感動したわ」
母さんと一緒に飲めるようになったら、見てみたい気がする。
そんな母さんを面白可笑しく振り返るミル皇女。顔が近くてよく見ると少し年齢を重ねたようにも見えて、それでも、以前と変わらず可愛らしいご尊顔は頬が緩んでしまうほど。
チラ見していたらミル皇女と目が合って──
「小さな集落と聞いていたけど、想像していたよりずっと広いわね」
と、集落の様子を見た感想を伝えられた。
母さんが調子に乗って森を切り開いたせいで広さだけは立派な村のようになっている。
ミル皇女の視線の先には、切り開かれた土地に作られた麦の畑。
初夏の麦畑は黄金色に輝いていて、風に揺れる様子は胸が踊る景観。
麦畑では収穫前に雑草を抜いている集落の人々の姿がちらほらと。
「今は収穫前で雑草を処理してるんです。とはいってもこの集落で麦を収穫するのは今回が初めてなんですけどね」
俺が偉そうに説明していたら、視線の先では兎人族の女性と人間の男性の仲睦まじく身を寄せ合う姿。
獣人族の多くは発情期の最中は感情が昂りやすく積極的になるらしい。その兎人族の女性は発情期の真っ只中のようで、情欲に駆られた彼女は人間の男性に寄り添い、貴い女性には見せたくない様相を晒していた。
その様子を見たミル皇女は、
「あら。お仕事の最中だと言うのにとても仲が宜しいのね」
と、微笑みながら言った。
「なんだかすみません……」
居たたまれない気持ちで謝罪すると、
「平民であればこういったこともあるでしょう。魔族領の生活は私にはわかりませんが、大陸各所をめぐっていたころにこういった光景を見たことがあるわ」
と、ミル皇女は言うけど、ここまで女性が積極的というのは人間ではめったに見ることがない。
父さんに言い寄る女性くらいなものだ。
ちなみにこの兎人族というのは、男女比が男性が一に対して女性が二くらいと偏っていると聞いたことがある。彼女たちがこの集落に来たのは、そういった事情もあるかららしい。
その事情が何であるかは、あえて考えないことにしている。
けど、そのおかげでこの集落は割と落ち着いていて治安が良く、平和な村社会の一助を担っているのだからありがたいことだ。
麦畑の間を縫う小道を進む。行く先は大陸一といわれる川幅を誇るファルタ川の河岸。小さな雑木林を抜けて緩やかな段丘を下ると川が流れる光景が見えてきた。
対岸の陸地が薄っすらと見える。川面には小さな船が数隻浮かび、投網を打つ人の姿が。ミル皇女の視線の先はその姿と漁を営む船。
「素晴らしい景色だわ」
ミル皇女は海のように広く青々と輝く川面と真っ青な空を視界に収めて目を細めた。
この季節のファルタ川は対岸の陸地が緑色に霞んで見えるからか、景色が透き通るように感じられる。
「俺もここから眺める景色が好きなんです」
それでここに連れてきてみたとは言えないけど。
けど、ミル皇女はそうじゃなかったみたいで。
「クウガが私に見せたいと思って連れてきてくれたのですよね? こんなに心が満たされる風景はなかなかないわ」
川面には俺の──ドワーフのモルグからもらった帆曳船が浮かんでいる。
「珍しい船があるのね」
川に浮かぶ真っ白で大きな帆を張る帆曳船。この景色に溶け込んで華やかさを添えていた。
「あれは帆曳船と言ってバッデルという獣人族の町で良く使われる船です。旅の途中でモルグさんが買ったものを譲っていただきました」
で、あの船で漁をしているのはキウロ。なお、カイルは馬小屋を建てる作業に従事している。
彼らもこの集落の住人なのだ。
漁船といえるのはこれだけでなく、ここから海のほうまで出てる船も何隻かある。
俺も時折、漁に出て手伝うことがあって、実は漁に出るのを楽しみにしていたり。
「クウガもああいった船に乗るのね」
「はい。幼馴染が漁をしているので船に乗って手伝いをすることがあります」
ミル皇女の質問に答えると、彼女は眩しそうに帆曳船へ視線を向けた。
「水上からの景色はどのようなものなのかしら? 帝城からセルム湖などを眺めてましたが一度も船には乗ったことがなかったの。それに海を見てみたいわね。私、海を一度も見たことがないの」
目の前のファルタ川は海のように見えるけど川だし、船に乗せてあげたいところだけど、河岸に残ってる船はない。
「機会があれば船に乗ってみますか?」
「ぜひ。乗りたいわ。約束よ」
軽い社交辞令のつもりで船に乗せる約束をすると、ミル皇女は満足したようで、再び俺の腕に腕を絡める。
それから、集落をぐるりと半周ほど。次は北側を案内。
北側は集落からベレグレン大街道まで通じている集落では第一号となる道路。
母さんが手伝ってくれたおかげで馬車が対向できる程度の道幅を確保。このままこのガラン=アドゥナが発展したら重要な街道になるに違いない。
それをミル皇女に見せたかった。
「この集落で唯一、集落外に繋がっている道路です」
「とても立派な道ね。もう少しだけ道幅が広かったらとは思うけど、道は良いし悪くないわ」
ミル皇女の反応から察するに辺境の小都市程度の主要道路としてはこれで問題なさそう。
この道路は木々を退かして道を掘り、砂利を敷き詰めてガッチリと地面を均した。
歩きやすいし、馬車の重みで溝が出来にくいように工夫をしてる。
道が良いというのはそういう意味だろう。
「この道でベレグレン大街道に出られるようになってます」
「そう。よく作ったわね。大変だったのではないかしら?」
「俺と母さんと、モルグというドワーフに協力してもらって半年ほどかかりました」
真北に真っ直ぐ伸びる道。
その先は地平線のそのまた向こうまで続く。
遠くを見る目で道の先を眺めたミル皇女は独り言のように──
「これほどの道をたった半年で……やはり、ラナ様とその才を受け継いだクウガの魔法とドワーフの協力というのは想像以上ね……」
と、呟き、俺の顔を見た。
それから彼女は何かを言おうとして思い留まり「ありがとう。良いものが見られたわ」と俺に伝える。
ここはもう満足したのだろう。
この集落で見せられるものは全て見せた。
「では、家に戻ります」
「はい。では、エスコートをお願いするわね」
ミル皇女は俺の腕を掴んでピッタリと身体を寄せてきた。
歩きにくいけれど、エスコートと言われれば応じるしかない──というより、断ることそのものが憚られる。
家に向かって歩きながらミル皇女との会話が何故か弾む。
話はニコアのことから始まった。
「ニコアを私の専属の従者にしてから、クウガのことをよく聞くの」
「ニコア……様はミル皇女殿下の従者になられてたんですね……」
ニコアに再会してから彼女とはそれほど話していないし、何も聞いていないから近況がわからない。
ニコアのことは呼び捨てで慣れていたけど、皇族のそれも現時点では筆頭のミル皇女の側近だし、争い事が終わったら女皇帝のお付きになるのだろう。ならば、これからはニコア様と呼ぶべきか──と、そう思って慌てて言い直す。
すると、ミル皇女はくすくすと笑う。
「言い直す必要はないんじゃないかしら? ニコアとはセア領ではご学友だったのでしょう?」
ちらっと彼女の顔を見ると三十路超えとは思えない美貌の持ち主が上目遣いで俺を見ていた。
ミル皇女より俺のほうが背が高い。見上げられるほどの距離でいることが恥ずかしいよりも怖いのほうが上回る。
俺は平民で、彼女は皇女。少し離れようとしてもミル皇女がガッチリと腕に絡みついていて乱暴でも働かないと離れられない。
とにかく平静を保とう。幸い、レイナやメル皇女のように思春期の精神を乱す柔らかい感触はほぼ皆無。
ミル皇女に言葉をお返ししよう。
「──ニコアとは領民学校でずっと同じ学級でしたし、学校行事などでご一緒しました」
「そう。羨ましいわね。クウガは成績がとても優秀だったと伺っているわ。それも、平民にしておくにはもったいないほど……と」
「お褒めいただいて誠に光栄ですが、それほどではないと思っています。なにせ十三歳くらいまでしか学んでおりませんから」
「謙遜するのね。十三歳程度で成績優秀であれば宮廷で働けるくらいの教養は身についているはずよ。各領地に学校を設ける場合に定める教育水準は帝国法に定めておりますから」
帝国法なんてものがあるのか。知らなかった。
せいぜい帝国史や貴族社会くらいかと思ってた。貴族社会には宮廷での仕事や商人との繋がりとかそういうレベルだったし。
「知らなかったって顔ね。各領地に十五歳まで学べる学校の建立を認めてるけれど、より高度な授業を受けるには帝都の高等学校に通う必要があったのよ。おそらくクウガは推薦があったんじゃないかしらね。帝城にはクウガの成績や高等部への推薦状が届いてるはずよ」
領民学校というのは帝国が許可して各領地に設ける学校施設で、領民学校の入学者名簿、各学年で上位一割の成績者の名簿、さらにその上位一割の成績者の中から特に推薦する児童生徒は推薦状という形で帝城に送付されるらしい。
「それは知らなかった……」
「きっとクウガは帝城の貴族の間では知られていたのかもしれないわね。卒業年度だったら間違いなく私の耳にも届いていたでしょう」
コレオ帝国の学校ってそういう仕組だったのかと関心。
「学業、武芸、魔法。この三つで学年一位の平民というのは帝国史上前例のないことだもの」
と、ミル皇女は笑う。
「それを言われると──」
領民学校の入学試験後のことを思い出してしまう。
生まれて初めてお城というものの中に入ったし、貴族の料理をご馳走してもらった。
「最優秀成績者のクウガを晩餐に招いたら、ラナ様とクウガのテーブルマナーが完璧だったって。その日からニコアへの教育が厳しくなったってニコアがボヤいてたわ」
俺の言葉を途中に、ミル皇女が言う。俺が思い出して口にしようとしたことを察したような。そんな言葉を口にしてふたたび笑う。
「それも知らなかった──けど、たしかに晩餐のときと比べて学校ではとても行儀が良くなってましたね」
行儀作法については何故か母さんがとても詳しいし、俺にはレイナがいたから。レイナがかなり細かいところまで教えてくれて、俺にとって最高の家庭教師のようだった。
そんなレイナとはいろいろあって、今はお茶を振る舞う以外の時間はあまり話さなくなってしまったけど。
「私もラナ様と会食を楽しんでみたいわ──そのためには帝国を取り戻さないといけないけれど」
そんな個人的な理由で国を取り戻すなんて、俺の前でしか口にしないんだろうな。でも、本心では、この集落にいる元帝国民の平民の姿を目にして心を痛めてる様子も伺えた。
「その前に北ファルタの様子を知っておきたいわね」
「北ファルタ──ですか」
「ええ。こちらは魔族領の主要道路に接続する道を作るほどですから、魔族領のひとつの集落と見て良いでしょう? だけど、北ファルタは違うでしょうから、視察が必要ね」
北ファルタは一時、獣人たちが来ていたこともあったけど、今はこの集落で引き返してる。
平民の──そのうちの貧困層を町域から追い出してるところを鑑みると、異種族との軋轢があって然るべきだし、南ファルタと北ファルタの間で定期的にやり取りをしているようだから、この集落──ガラン=アドゥナに住む人間から見ても北ファルタはコレオ帝国の一部だと考えて良い。
そして、ここに住んでる人間は北ファルタを出て移住したことで帝国民という気持ちは全く無い──ということを俺から言うことはできないけど。
「この集落を見て回った成果ね。戻ったらナイアと相談するわ」
ミル皇女はまた笑う──けど、それは、先程までと違った不敵さを感じさせるものだった。




