リルム①
ようやっとお兄ちゃんと再会できたあの日から数年。
私はお兄ちゃんといっしょにまた生活を送り始めていた。
私、ロインとラナの娘、リルムはあの日のことを今も忘れていない。
そう、あの日。
私たちはいろんなものを失った。
「セルム湖から異世界人が襲来! 全校生徒は速やかに避難せよ!」
授業中だというのに、各教室に避難を急がせる先生たち。
異世界人が帝国軍を編成し、セア辺境領へ侵攻したことによるものだった。
私たちは先生の指示で自宅へと急ぐ。
でも、セルム湖ってお兄ちゃんが野外実習に行ってるところ──。
ここからは近くないし、お兄ちゃんを助けに行かなきゃ。
私は家に帰るより先に、セルム湖に行こうとしたけど、
「そっちはダメだ! 今、領兵が戦闘中。市民は避難せよ」
通せんぼにあって行けなかった。
仕方なく、城壁を抜けた先にある家に帰るとお父さんとお母さん、弟のクレイがお父さんに抱かれて、それから、レイナ様が私を待ってた。
「リルムちゃん、急いで! 東からも帝国軍が来てるって!」
レイナ様が私の手を取るとすぐに走って外壁の北門に向かって走る。
お母さんは「嗚呼って! リルム!! 帰ってきてくれたんだね?」と、わたしを抱き寄せて無事を確かめてから「お兄ちゃんは? クウガは?」とお兄ちゃんのことを心配してた。
「お兄ちゃんのほうに行こうとしたら帝国軍と交戦中だからって湖の方に行かせてもらえなかったよ」
私が答えるとお母さんは「そんな……」と気が動転。それからお母さんはお兄ちゃんの名前を叫んで、何度も何度もセルム湖の方角へと走ろうとした。でも、それをお父さんが止めてお母さんの手を引っ張って北門へ。逃げ始めたところで帝国軍の姿が見えた。
帝国軍は逃げる私たちに向けて、魔法を放ち弓矢で射る。何人もの人々が血を流して倒れていった。
まだ、動ける人もいて、助けてあげたい──と、そう思っても、レイナ様は私を引く手を解いてはくれない。
「酷いことされたくなかったら逃げるのよ!」
「でも、お兄ちゃんが──」
「私だって、クウガくんから離れたくないよ。でも、きっと、クウガくんなら生き延びるってそんな気がするの。絶対に大丈夫だから、今は一緒に逃げよう」
レイナ様はそう言って──いつもの口調とちょっと違ったけど、逃げることだけを考えてと私の手を引く力を緩めてくれなかった。
私と同じことをお母さんとお父さんがしてる。
「私のクウガが! クウガを助けてよ」
「クウガなら大丈夫! 俺とラナの息子だろ? アイツは剣の筋も良いし魔法だってキミ譲りだから」
「イヤよ! イヤっ! クウガは私が絶対に助けるッ!」
お母さんはお父さんの言う事を聞かない。でも、お父さんの力には負けるみたいで手を振り払えず、私たちは何とかセルム市の外郭北門から外に出られた。
ここにはもう帰ってこられないのかもしれない。そしたらお兄ちゃんとはどうなるの?
お兄ちゃんと離れたくないよ。
後ろ髪を引かれる思いでセルムのお城のほうを見ていたら、
「リルムちゃんッ! 走って────ッ!!」
私の手を引っ張るレイナ様が大声で私に声を発した。
私たちは逃げる市民たちの最後尾。
お父さんはお母さんを引っ張って、私はレイナ様に置いていかれないように、全力で逃げる。
帝国の軍隊が私たちを追いかけてきた。
「ラナという平民とレイナ・イル・セアを探せ! その二人以外は殺せ!」
私たちに向かって飛んでくる矢と魔法──それとお母さんとレイナ様を捕まえろという怒声──。
自分の名前が聞こえたお母さんはお父さんの手を振り解いて後ろを向いた。
お母さんが立ち止まった瞬間に、こっちに目掛けて飛んできていた矢が空中で止まってポトリと地面に落ち、逃げ惑う私たちを襲おうとしていた魔法は霧散する。
「もうッ! 鬱陶しいのよッ!」
それは一瞬だった。
お母さんの周囲で爆発するかのように膨れ上がった膨大な魔力。
その直後に、私の目の前で轟音と大きな爆発。
そして、お母さんはその場で倒れてしまった。
「お姉さまッ!」
レイナ様が私の手を離してお母さんに駆け寄ろうとしたら、お父さんがお母さんを肩に担ぐ。
「レイナ様はリルムをお願いします。ラナとクレイは俺が抱いていく」
「わかったわ」
お父さんは頼りになる。
とてもモテてお母さんはいつも大変そうだけど。お父さんはお母さんを大事にしているからこういう時にもちゃんと助けてくれる。
でも、私は、
「お兄ちゃんを──ッ!」
と、セルム市の方向を見ると爆発による土埃でゆっくりと収まると、ぼんやりとだけどセルムのお城が遠くに見えた。
目の前のぽっかりと空いた大穴は、セルム市の外郭まで──切り立った崖のように私とセルムを隔てている。
お母さんがすごい魔法使いだったって聞いたことはあったけど、こんなにすごい魔法を詠唱せずに一瞬で発現させるだなんて──。
こんなのは見たことがない。まるで神話や伝説に出てきそうな天変地異のよう。
けれどお母さんのとんでもない魔法のお陰で帝国軍の追っ手は見えなかった。でも……。
──これではセルム市に行けない。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
お兄ちゃんと会えないことが哀しくて、私は泣いた。
「……お兄ちゃん、会いたいよぉ……お兄ちゃん……」
目を擦って泣く私をレイナ様が優しく手を取って、
「信じよう。クウガくんが生きてるって。私の勘は当たるのよ」
私はもう何も気力がなくて、レイナ様の手に私の行く先を委ねることにした。
私はお兄ちゃんが大好きだ。
物心がついたときにはもう既に。
お父さんもお母さんもクレイも大好きだけど、それ以上に私はお兄ちゃんが大好き。
いつも優しくしてくれて──たまに怒られるけど、怒ってもすごく優しい。魔法をたくさん教えてくれて、美味しいお茶を作ってくれる。
それに、お兄ちゃんはお母さんにそっくりでとても綺麗な顔で──。
そんなお兄ちゃんだから、夜にこっそりお兄ちゃんの部屋に入ってお兄ちゃんのベッドに潜り込んでも、お兄ちゃんは優しく注意するだけで、私がお兄ちゃんを大好きだって気持ちに寄り添ってくれているようだったし、私はお兄ちゃんの傍を離れたくなかった。
それから私たちは北に向かって歩き続けた。
野生の獣を捕らえては分け合い、食べられる草花で飢えを凌ぎながら、何日も。
メルダに着いた頃にはみんな疲弊して疲れ切っていた。
「ようやっと、街らしい街に着いたけど、ここからどうしよう……」
何万といるセア領の難民を受け入れてもらえるようには思えない。
帝国軍がまた襲ってくるかもしれない。
メルダの大きな橋を渡って魔族領に逃れるべきなのか。
ただ生き延びるために歩いている私には判断がつかない。
ただお父さんとレイナ様が頻繁に会話をして、レイナ様がいろんな方とお話をしていたのは覚えてる。
「メルダに入ったら、市街の近郊に留まらずに魔族領に渡らせてもらえるように私が交渉するわ。メルダ公は話が通じるお方ですし事情を話せば理解してもらえるはずよ」
「かしこまりました。何から何までレイナ様に頼りきりで申し訳なく思いますが──こうしてメルダまで多くのものが命を繋げられたことに感謝しております」
「ここには優秀な冒険者が多くおりますし、多くの民が命からがら逃げ果せているのは彼らの協力のおかげです。感謝は私ではなく彼らにこそ示してくださるとよろしいかと──」
レイナ様の大人の顔はとても凛々しくて頼りになるってその時に思った。
それまでは、お母さんに憧れて平民の家に入り浸る変わり者のお貴族様。なぜかお兄ちゃんのことをおおきなおっぱいで弄る酷くエッチなお姉さんだとも──。
人はいろんな顔をするってレイナ様から学べた。
冒険者として有名らしいお父さんを上手に使って数万人といる難民の状況を把握すると、貴族や冒険者組合に所属の冒険者と連携をとって秩序を乱すことなく見事に難民をまとめ上げる。
人前に出たがらないからかレイナ様の功績は表には出ないけれど、陰ながら難民の命を支えていたその一人なのは間違いない。銀級三階位の冒険者で食糧の調達などをしながらお母さんのことを診てたお父さんもやっぱり凄いけど。
私は目が覚めないお母さんから離れずにクレイの手を握ることしか出来ない。
領民学校に入れてもらえたというのに誰の役にも立てなくて自分の非力さに悔しさしか感じられなかった。
──お兄ちゃん。私、どうしたら良いの? 何をしたら良いの?
嗚呼、お兄ちゃんに会いたい。お兄ちゃんによしよしされたい。お兄ちゃんに抱きしめられたい。お兄ちゃんの匂いに包みこまれたい。
お兄ちゃんは今、どこにいるの?
お兄ちゃんがいなくて淋しくて辛くて、心が押し潰されそうで震えていた。
メルダに入る直前で私たちは異世界人の集団に出会った。
ぞろぞろと何万人という列を連ねる難民の前に女性ばかりの異世界人が立ちはだかったよう。
先頭の方で騒ぎになっていた。
「何だか騒がしいわね。ロインさん。様子を見に行きましょう」
レイナ様がお父さんに言う。
「わかりました」
お父さんはお母さんを降ろして「リルム。お母さんとクレイのこと頼んだよ」と私に声をかけてからレイナ様と一緒に列の先頭に向かった。
小一時間ほどしてお父さんとレイナ様が戻ってきたけど……。
お父さんにぴったりと身体を引っ付けてる黒髪の女性の姿。まるで父さんを囲うように黒髪の女性たちが数名。
レイナ様はそんなお父さんから少し離れてこっちに歩いてきた。
お母さんと私たちに近寄ってきても鼻の下が伸びてるお父さんの姿に私は酷くがっかり。
「お父さん」
思わず声を荒げてしまったけど「ロインさん」とレイナ様も私の声に続いて何故か一安心した。
私と同じように感じてるんだと思えて。
それから、少しの間、メルダの郊外に留まることになった。
レイナ様は「メルダ公のところに行ってくるわね」と言い残してメルダのお城に行ったらしい。
お父さんはお母さんと私とクレイの傍に居てくれてはいるけど、ひっきりなしに黒髪のおばさんが入れ代わり立ち代わりでお父さんを目当にやってくる。
眠ってるお母さんの傍でお父さんに色目を使う彼女たち。私は一体何を見させられてるのか……。
仲良しするのは別に気にならないけど、お母さんの傍でいちゃつくのは流石にないよ。
私の手を握るクレイは「あのひとたちの髪の毛、真っ黒で綺麗……」って見惚れてるし。
何の力もない私はため息を吐いてやり過ごす以外の選択肢がない。
お母さんやお兄ちゃんみたいに何でもできたら良かったのに。
頼みの綱のレイナ様がこっち──私たち難民のところに戻ったのは、翌々日後。
お母さんの面倒を見ながらお父さんも異世界人がいない日没後に協力してくれて──レイナ様が戻った翌日にお母さんは目を開けた。
「だっる……」
頭を抱えながらむくっと起きたお母さん。
「ラナ……気が付いたか。良かった……」
安堵したお父さんだったけど、隣に密着する黒髪のおばさんにお母さんは気が付いた。
「ねぇ。ロイン? その異世界人は何?」
きっと寝起きで機嫌が悪いお母さん。
異世界人をにらみつけると、彼女が怯んだ。
「ウ……ウチはロインさんのお手伝いをしてるだけで、や……や、やましいことは何もないっていうか……」
良くわからない言い訳をしてお父さんから離れると、レイナ様もお母さんが目覚めたことに気が付いて、レイナ様はお母さんに抱き着く。
「お姉さま! お姉さま!! 目が覚めたのね! 良かった。嗚呼、良かった。このまま起きなかったらと思うと怖くて……嗚呼、良かった。良かったよぉ……」
レイナ様は泣くほど喜んでくれた。
私も目を擦って涙を拭う。レイナ様の言葉の最後の方は何を言ってるのかわからなかったように、私も感情が昂りすぎて声が出ない。
「うっざ…ちょっと寝てただけでしょう?」
お母さんがレイナ様の顔を押し退けようとしてた。
いつも思うけど、こういう時によく不敬だって言われないで済んでるのが本当に不思議。
「だって何日も目が覚めなかったのよ? お姉さまのことが心配で心配で……」
「そんなに私──」
お母さんはセルムから離れてメルダに到着して数日の間、ずっと眠り続けていたことをレイナ様に説明された。
異世界人の女性たちがロインに言い寄ってることも含めて。
「ロインに女性が言い寄るのはもう諦めてるけど。異世界人って言うのが厄介だねぇ……」
「本当にね……」
お母さんの言葉でレイナ様は深くため息をつく。レイナ様につられてお母さんも肩を大きく揺らして息を吐いた。




