狐人族 五
翌朝──。
一夜明けて新雪が覆う中、ダージャが住む九尾の館を出るところ。
『此度はクウガを招いて正解だった。おかげで何百年か若返った気分だよ』
『それはどうも』
『アタシの感謝の気持ちを込めてこの護符をクウガに与えるよ』
ダージャはそう言って白桃色の小さなお守りを取り出した。
『手を出してくれない?』
ダージャの言葉に従って手のひらを表にして右手を差し出すと、人差し指を人差し指で素早くなぞった。
「──ッ!」
すると指先がパックリと開いて血がお守りに垂れ落ちる。
すぐにダージャは自身の指先にキスをして俺の人差し指の傷口をなぞった。
痛みは一瞬で消え去り、傷口も最初からなかったかのように塞がる。
回復魔法だ。
魔王ナイアの再生魔法とは違い、治癒魔法と言うべきで傷が癒えていく感触が気持ち良く感じられた。
血で濡れたお守りだったが、赤い染みが中に吸い込まれるように消えていき、最初に見せてくれた綺麗な白桃色のお守りに戻る。
『これで、クウガがこの護符を持ってアタシらの村に入ることができるようになるんだ。この護符を村の者に見せたらアタシの元に届けてくれるだろう』
『これを戴いて良いんですか?』
狐人族の村は幻術を用いて外界との接触を拒絶している。
それをこのお守り一つで自由に出入りできるようになるというのだから俺がもらっても良いんだろうか──と。
不安になって改めてダージャに聞き直した。
『クウガだから、良いんだよ』
艶のある声でダージャは言う。
同じようにアルダート・リリーに訊くと『ダージャに歓迎されるって光栄なことだよ。ウチも持ってるし』とどこからか同じお守りをアルダート・リリーが出して俺に見せた。
『そういうこと。だからまたおいで。そちらのお二人さんもクウガと一緒なら歓迎するよ』
ダージャにはいろいろと良いことばかりしてもらって、それなのにいつでも来ても良いと言ってくれる。
ただ、俺だけというのは気が引けるから、メル皇女とニム皇女にも俺がこれをダージャから戴いても問題はないかを確認した。
「ダージャ様がクウガに個人的に差し上げたものなら問題はないわ」
メル皇女がそう言ってくれて、ニム皇女もメル皇女と同意見だったから、俺はありがたくお守りを頂戴することにする。
どことなく引っかかるものはあったけれど、ダージャの好意を受け取らない理由はない。
受け取ったお守りは首から下げることにした。
というのも、やはり前世の知識や価値観も少なからず残っているから長い紐を通して身につけることを俺は選んだわけで。
そうして、ダージャが見送る中、牛型の悪魔モラクスに荷車を引かせて狐人族の村を出発。
ここからはバッデル街道から来た道を行くのではなく、南西に向かって進むことに。
バラド街道よりもやや大きな道路が通っていて、そこは行商の獣人、ドワーフ、エルフといった様々な種族が利用する幹線の一つで、バッデル街道に戻るより安全に進むことができるというので、この進路をとった。
ベレグレン大街道と呼ばれる大きな幹線道路に出るまで二日ほど。幹線道路を南に進み、数日もすると東に抜ける枝道に差し掛かるのだそう。
それを東に行けばバラド街道に出て、バッデルへと進行する。
幹線道路は道路がよく整備されていて、雪が積もるこの季節はバラド街道を進むより遥かに効率が良いとアルダート・リリーが教えてくれた。
そんなわけで整備が行き届いた幹線道路を使い、バッデルに向かう脇道まで楽をさせてもらうことに。
狐人族の村でダージャからもらったのはお守りだけじゃなく、衣類や食糧を戴いている。
その中には米や味噌、いくつかの野菜があって本当に助かった。
アルダート・リリーが予想する残りの旅程から考えても食糧はもう充分。
これで何の気兼ねもなくバッデルを目指せる。
とはいえ、狐人族の村から南西に向かう道は狭くて険しく──牛型とはいえモラクスのように賢い悪魔でなければ数十メートル進むだけでも苦労するだろう。
『そういえば、ダージャとずいぶんと仲が良くなったわね。あんなに気に入るなんてとっても珍しいんだよ』
木々の間をすり抜けるように道なき道を──真っ白な雪の上を進んでいる最中、アルダート・リリーが話しかけてきた。
ふたりの皇女もすぐ後ろを歩いている。
歩みを進めるたびに雪がミシミシと鳴り、体の芯までその冷たさが伝わるよう。
昨日の風呂ではいろんなことがあったけど、皆が寝静まったあとにも俺の部屋にダージャが訪ねてきた。
『いろいろあったんです』
そう答えるのが精一杯だけど、アルダート・リリーは夢魔族の女性。
きっと俺が何をしたのか知っているだろう。
『そう。じゃあ、ウチも今夜、大丈夫だよね』
なんていうものだから後ろの皇女が話に乗ってきた。
「昨夜、何かあったのかしら? リリーが今夜大丈夫って聞いたのはどのようなことで?」
メル皇女も何かを悟ったかのように口を挟む。
彼女は魔人語をある程度理解していて、俺とアルダート・リリーの魔人語を聞き取っていた。
きっとニム皇女の耳にも入っていて理解しているんだろう。
彼女は何も言わず、俺の右に来て服の裾をギュッと掴んだ。
ともあれ、昨夜のことを話すのは憚られるものがある。
いつか話す機会があったら話すことにしよう。
「いろいろございまして──ですが、いつかお話ができるようになりましたら説明させてください」
そう言ったものの彼女たちはそれで納得したわけではなさそう。
この日から彼女たちとの関係性が少しずつ変化した……いや、急激に変化したのかもしれない。
なお、アルダート・リリーは頻繁に俺の夢に入り込むようになった。
彼女は夢魔族。淫魔とも呼ばれるが異性の──または、まれに同性の──夢の中で魔力や精を食べる。
上位の種族はそれほど多くの食事を必要としないというらしいけれど、訊くところによるとアルダート・リリーは夢魔族の中でも高い階級みたいで、悪魔族に近い夢魔は食事を必要としないこともあるけど彼女はそれに該当するのだとか。
では、なぜ俺の夢に忍び込んで食事を補給するのか。
『モラクスだって同じだよ。だってモラクスはウチと違って悪魔族。本当は何も食べなくても生きていけるんだよ。それでも、クウガくんの魔力を欲しがったりするのはクウガくんがニンゲンとは思えないモノを持ってるからだと思うよ』
アルダート・リリーが俺の疑問にそう答えている。夢の中で。
彼女とは夢の中で話すことが増えた。
それはメル皇女とニム皇女が魔人語の覚えが良く、アルダート・リリーと俺の会話をほとんど聞き取ることができる。
なのでアルダート・リリーにとってメル皇女とニム皇女に言う必要のないことを俺の夢でやり取りするようになっていた。
『ほんと綺麗な流れの魔力だよね。ウチらみたいな力強さが少し──なのに、精霊やエルフみたいな透明感があるよね』
『種族が違うと魔力の質って変わるのか……』
『うん。ぜんっぜん違うよ。悪魔や魔人の魔力は威圧的で強ければ強いほど圧倒される。強いものが正しいという魔族領そのものだよ』
『エルフが住む森って魔族領じゃないんです?』
『エルフやドワーフ、ホビットは交流はあるけど魔王ナイア様の配下ではないし、ニンゲンの国でいう自治領みたいなものだね』
俺の夢の中で俺の魔力──精を吟味するアルダート・リリー。
狐人族の村を出た日の夜のことである。
ゆっくりと時間が流れる俺の夢の中で、アルダート・リリーはいろんなことを教えてくれた。
本当にいろんな──普通に話していたら一晩では終わらないことを。
『さ、もうすぐ朝になるよ』
アルダート・リリーのその声で夢が遠のき、目が覚めた。
体がすっきりしているけれど。
俺の左右にひっつくメル皇女とニム皇女を退かして身支度を整えてテントの外に出る。
『クウガくん、ダルくない? めっちゃ戴いた気がするんだけど』
寝起きの俺にアルダート・リリーは話しかけた。
木々が雪よけになっているけれど、雪がしんしんと降り続けている。
雪景色の森の美しさに心を打たれつつ、アルダート・リリーに言葉を返す。
『とてもスッキリしました』
彼女が夢に出てきて精と魔力を使ってくれるのは地味に気持ちが良い。
深く眠れるような気がするし、とても体が休まる感覚があった。
『キミ、魔力量がマジでえげつないよね。こないだヤられたときはウチがダメにされそうだったし』
そう言うけど嫌な顔は一切しない。
むしろ楽しそうに目を細めてた。
とはいえ、夢の中で吸精するくらいならなんともない。
以前、彼女の夢に侵入した時は考えられることを試したけど一般的に語られる夢魔族の男性が女性にするようなことの最後まではできなかった。
ニム皇女に対してもそうだけど、全裸に近い半裸姿のアルダート・リリーとはいえ、幼女みたいな姿では昂ぶらない。
それでも夢魔に魔力で圧倒できたのは俺の実力を少しつかめたような気がしている。
そんなわけで魔力が人間にしては高いらしいというのと、思春期を迎えて第二次性徴真っ最中というこの体はアルダート・リリーの吸精で良い具合に整った。
ありがたいことに、色仕掛が過ぎる二人の皇女──とくにメル皇女の誘惑には耐えられそうになかったというのに、夢で精を吸われたおかげで良いものだと思っても精神を揺らがず、目の前のことに集中できる。
朝の食事の準備をしてるうちに起きてきたメル皇女が甘い匂いを漂わせながら俺の腕に胸を押し当てられても〝良いものだ〟と思っても過剰に昂ぶらない。
ダージャの一件からアルダート・リリーは自重しなくなったけど俺にとっては良い方向になったのかもしれない。
これで誘惑に抗うことができるだろう。
皇女たちは「皇位を奪われ私たちは平民に落ちた」と言うけれど、俺から見れば貴きお方であることには変わりない。
「今日は何を作ってるのかしら?」
メル皇女は俺の手元を覗き込んでる。
狐人族の村でダージャからいただいたものを早速使った。
「ご飯と味噌汁です。それとマスを焼こうと思ってます」
朝から焼き魚定食。
異世界に転生して和食というものを作ったことがなかった。
でも、今は手元に材料があるのだから今生では初の日本の料理。
「ご飯と味噌汁? って、狐人族の村で食べたものかしら?」
「そうです。せっかく材料をいただいたので作ってみようと思いまして──」
「そう。狐人族の食事はとても健康的な味がして悪くなかったわね。楽しみにしてるわ」
そう言ってメル皇女はふわりとした残り香を置いてテントの中に戻った。
おそらく着替えのために。
今までならドギマギして作業の手が緩んでた。平常心を保てるというのはとてもありがたい。
こればっかりはアルダート・リリーに感謝しなければならないな。
俺はアルダート・リリーに「ありがとうございます」と心の中で言葉にした。
朝食は温かい白い米のご飯と油揚げとネギの味噌汁。
そして鱒の焼き魚。
シンプルだけどこれが美味しかった。
箸はないけれど、これはこれで良い。
「狐人族の村の料理を早速作れるなんてクウガは器用ね。才能があるんじゃないかしら?」
食事の折、メル皇女は美味しそうに舌鼓をしながら料理を褒めてくれた。
「私、このお料理、好きよ。とっても温まるの」
ニム皇女にも気に入ってもらえた。
アルダート・リリーは朝食を取る俺たち三人を遠巻きに眺めている。
満足げな表情でいるのは俺から精を吸い取ったからだろう。
「ん。美味しかったわ。私も作れるようになりたいわね。作り方、教えてくださらない?」
「あ、はい……わかりました」
食事をし終えたメル皇女は食器を纏めて今朝のこの料理を教わりたいと申し出る。
断る理由は当然ないので承知して「では、今度、この料理を作り時はご一緒しましょう」と言うと「ええ、喜んで」と返ってきた。
「私も、クウガに教えてほしい。良いかな?」
ニム皇女もメル皇女と同じで、今朝の朝食を気に入ってもらえたらしい。
「はい。もちろん」
コレオ帝国の皇女たちに和食はとても好評だった。