狐人族 四
お茶を淹れ直すと、ダージャが俺に言う。
『クウガ、風呂の準備が出来た。さ、行こうか』
ダージャの声に従って俺は「では、湯浴みをしてきます」とニム皇女を置いて立ち上がり、メル皇女と目が合うと目を伏せて「行ってまいります」と声をかけてダージャの後ろに付いていった。
ダージャの後ろ姿はとても美しい。
九つの尻尾がゆらゆらと揺れるからお尻の形は良く見えず、それでも肩から腰、腰から尻に伸びる緩やかな曲線が彼女の色香を振りまいていた。
ときおり後ろを振り向いて俺の顔を見ると口の端を小さく釣り上げて目を細める貌が少年の純情な心を擽る。
『ここが浴室だよ。着替えは用意してあるけど、着方がわからないだろうから風呂から上がったら声をかけてね』
ダージャの前を通り過ぎて脱衣所に入ると板間の床に籠が置いてあり、籠の中には畳まれた着物と手ぬぐいがあった。
『ありがとうございます』
籠の前に立つとダージャは脱衣所の扉を閉じる。
俺は脱衣所で一人、着ている服を脱ぎ浴室へと入った。
入った瞬間。日本の温泉旅館の風呂に入ったような感覚に陥った。
浴室は檜の良い香りで満ちていて、呼吸をするたびにリラックスできるよう。
前世の家族と旅行に行った記憶を呼び起こすほど。
──懐かしい。
床は石を敷き詰めた土間のようなところに木の簀子が敷き詰められている。
浴槽は広く、浴槽とはかけ湯に使う湯溜まりがあった。
その湯溜まりに立てかけられていた手桶で湯を掬い、かけ湯をする。
それから浴槽に入ることに。
湯に浸かるとちょうど良い湯加減。
手ぬぐいは畳んで浴槽の縁に置き、体を伸ばして湯に浸る。
浴槽の湯はサラサラしているけど、若干粘性のあるものだった。
温泉だろう。
じわじわと体の芯に熱が入り込んで疲れを癒やしてくれるかのよう。
こんなに気持ちの良い風呂は俺の人生では初めて。
ここはまるで天国……極楽だ。
あまりの心地良さについつい長風呂しそうだ──と、思っていた矢先。
──ガラガラガラ。
浴室の戸が開く音がした。
湯煙でよく見えないが人影が見えるような気がする。
手桶を取る音、バシャバシャとかけ湯をする音が聞こえて──
『背中を流しに来たよ』
と、女性の声が耳に入った。
それからすぐに、女性は浴槽に近付いて湯に足をつける。
『ダージャ……様?』
手拭いで前を──胸と鼠径部を隠しているが九つの尻尾がゆらゆらと揺れる美女があられもない姿で俺が浸かる浴槽に入った。
ダージャは後ろに振り向いて持っていたタオルを丁寧に畳まれて置き、俺と向かい合う位置に腰を下ろして湯に浸かる。
いろいろと見えてはいけないところが見えた気がするが見なかったことにしよう。
『ここの風呂はどう?』
驚きのあまり声が出なかった。
広い浴室、大きな浴槽とは言え、人が二人向かい合って座り足を伸ばせるほど広さはない。
それでも三、四人くらいは入れそうだけど……俺の足がダージャの太腿に触れそうなそんな距離感。
チラチラと見えるものが十三歳になる俺の血流を加速させる。
『ん? どうした?』
気恥ずかしくて声を出せずにいたら、ダージャが水音を立てながら俺の隣に移動した。
隣に移動したことで視界を占める彼女の割合が減り、少し落ち着く。
そばにいることは当然意識するけど、俺もダージャも全裸である。
少年の俺には刺激が激しい状況だった。
『あ、いえ。ここのお風呂、とても良いですね』
真正面を見ればダージャが視界に入らない。
隣の全裸の獣人族。結わえてあった髪の毛は今は解かれていて毛量の多さが伺える。
髪の毛で胸が隠れていて先程よりも刺激が弱まった気がした。
──これで落ち着ける。
それにしても獣人族の女性をこんなに間近にしたのは初めてだ。
狐の耳が頭に乗っかっていて、人間の耳の位置には何もない。
長いきつね色の髪の毛は湯船でゆらゆらと揺れているが九つの尻尾は湯の中で揺らめいているようだ。
時折俺の背中や脇を尻尾が掠める感触があった。
『温泉は村の自慢──とはいえ、よそ者を入れることはめったに無いけどね』
『そうなんですか。良かったんですか? 俺たち……』
『もちろん。アルちゃんの連れでナイアの知り合い。だからアタシはクウガを歓迎してるんだよ』
『それは、どうも……』
ダージャはそう言うと俺の腕に手をかけて立ち上がった。
『さ、体を流してあげるよ。ここのお風呂は他と違うから使い方を知らないだろう?』
ご尤もな理由──なんだけど、前世の温泉風呂のようなここの風呂は使い方を熟知してると言える。
でも、今生ではこれまでの人生でこんな風呂は見たことがない。
知ってると言ったら何か勘ぐられそうだ。
そう考えたらまた、言葉を発せず。
何一つ隠そうとしないダージャの言葉に従うしかなかった。
風呂から上がり、ダージャと部屋に戻ったらアルダート・リリーとメル皇女、ニム皇女が魔人語で会話してるところだった。
彼女たちは互いの言葉を教え合って交流を図っている。
幼女──アルダート・リリーと、美少女──ニム皇女が睦まじく話しているのは心が和む。
まるで妹のリルムと妹の友達が仲良く遊んでいるかのよう。
その傍ら、メル皇女が二人を見守りながら魔人語で答えていく様子は尊さを感じさせた。
俺とダージャに気が付いたアルダート・リリーは目を丸くする。
『ん? 随分と肌艶が良いね。もしかして吸った?』
アルダート・リリーは悪魔族に近い夢魔族だけあって魔力の──魔素の変化に敏感。
何か感じ取るものがあったんだろう。
『クウガも満更でもないみたいで、ニンゲンとは思えない上質な魔力だったよ』
アルダート・リリーの問いにダージャはうっとりした顔で答えた。
メル皇女とニム皇女はアルダート・リリーとダージャの言葉を理解できず、声を出した順番を目で追っている。
俺には何も言えない。
言ったら何が起きるのか……。
アルダート・リリーとダージャは俺を見る。
「クウガ、似合ってるね」
「そういう格好だと男らしく見えるわね」
ふたりの魔族の視線を追い、メル皇女とニム皇女は俺の着物姿をまじまじと見つめる。
そんなに見られると恥ずかしい。
『クウガは着物がよく似合ってるだろう?』
ダージャが自分のことのように俺を自慢すると、アルダート・リリーが『さすが、ウチが見込んでるだけのことがあるよ』と獣人語の言葉で続く。
『そっちのお姫様もクウガの着物姿が気に入ったみたいだよ』
魔人語で言い直すアルダート・リリー。
俺に見惚れていたらしいニム皇女は顔を真っ赤にして俯いた。
魔人語は通じるようだ。
空いてる座布団に座るとメル皇女が隣に来て身を寄せるように体を傾けると
「良く似合ってるわ」
俺の耳元に口を寄せて囁く。
目線を落とすとメル皇女の胸元が少し開けて谷間がくっきり。
ふわっと女性特有の甘い香りがこみ上げてきて、ここでも少年の純情を擽られた。
しばらく益体もない話をして時間を過ごしている内に、襖の向こうから『食事のご用意ができました』と家人の声がする。
ダージャは
『さ、これから晩餐だ。案内するよ。アルちゃんはどうする?』
と言って立ち上がるとアルダート・リリーに聞く。
『酒ある?』
『もちろん』
『んじゃ、ウチも同席させてもらうよ』
食事をあまりとらないアルダート・リリーは酒の有無で晩餐への参加を決めた。
晩餐の会場も和室。
とても広い畳の間に人数分のお膳が並べられていた。
「すごい……」
広さと絢爛さに思わず声が出る。
『狐人族は獣人族なのに魔族の中でも魔人に比肩する魔力を有する上位の種族でさ。周囲の種族との交流があんまなくて独自の文化を形成してるんだよ。ウチも初めて見た時はびっくりしたんだよ』
アルダート・リリーが言う。
一人に一つのお膳。柔らかい座布団が並べられて奥の席の背後には綺羅びやかな屏風が飾られていた。
『ここは貴人を招くときに使う間でね。食事も準備が短かったけどできるだけ特別なものを用意させてもらったの』
この大広間の美しさに感動していたら、横からダージャが追い抜くように広間の奥へと歩み「さあ、いらっしゃい」と席に招く。
お膳には白いご飯、豆腐と油揚げの味噌汁。油揚げが入った煮物。それから鱒や岩魚らしき淡水魚の刺し身。山菜の天ぷらなどが並べられていた。
メインは油揚げらしいので、どうやら狐人族は油揚げを大変好んでいるようだ。
刺し身は綺麗な色をしており、生魚を食べる機会のないメル皇女とニム皇女が「これ食べられるの?」とふたりが目を合わせた。
かくいう俺も、今生では生魚を食べたことがない。
せいぜい塩や酢、油でつけたものを食べる程度。しかし、目の前の刺し身は本当に美味しそうで──。
『この刺身は郷で育てたもので大事なお客様が訪ねてきたときに振る舞っているんだ』
活造りのように盛られた生の魚におじける思いのメル皇女とニム皇女。そんな二人に向けてダージャは『ニンゲンは生の魚は難しいのかねぇ』と冷やかし混じりの笑みを浮かべる。
ダージャの言葉で、この刺し身は養殖のものだから安全なのだろうと思えた俺。
こんなところで和食を食べられるとは思ってもなかった。
ダージャが奥の席に座り「さ、皆も座ろうか」と着座を促すと、それぞれ、腰を下ろして座布団の上に座る。
俺は当然末席。座布団に腰を下ろしたのも最後。
ダージャが俺の顔を見て、ニコリと微笑むと、
『さ、食べよ』
と、酒が満たされた升を掲げて音頭を取った。
ダージャとアルダート・リリー、メル皇女が酒が満たされた升を掲げて、ニム皇女と俺も真似をする。
前世では飲酒は成人してから……この世界でも飲酒は十六歳になってからというのに、ニム皇女と俺が掲げた升に注がれているのは酒。
飲んで良いのか?
ニム皇女も確かめるように俺の顔を見ていた。
注がれて掛け声のあるものを飲まないわけにいかない。
前世ではお神酒以外に飲んだことのない酒を俺はダージャが「かんぱい」とゆっくり唇を動かして声を発したタイミングでぐっと口に含んだ。
『はー! 美味いッ!』
「甘くて美味しい……それに良い香り……」
アルダート・リリーはここの酒が好きみたいで最初の一口から更にグイグイと飲み続け。
メル皇女は手で口元を押さえて、酒の味に浸る。
「うう……」
ニム皇女にはまだ早かったようだ。
そして、俺はと言うと──。
「飲みやすい……」
まるで水のような味わいというか、日本酒。
前世で年始に参拝したときに飲んだお神酒のよう。
まだ飲めそう……とは思ったものの俺はまだ十二歳。もうすぐ十三歳になるけど酒はまだまだ早いのだ。
それから目の前のお膳に並ぶ食事に手をつける。
最初に気になっていた刺し身をつまみ、醤油をつけて口に入れる。
ん。美味い!
この世界で生の魚──刺し身を食べられるとは。
先に飲んだ酒のおかげか刺し身が前世で味わったものよりもずっと美味しく感じられた。
そんな俺を見たダージャが嬉しそうに俺に言う。
『そこの女子は慣れないようだけど、クウガはアタシらの味がわかるみたいね』
ダージャが振る舞ってくれたお酒は美味しいと思えたのは事実。
でも、俺はまだ子どもだからお酒にはそれほど強くないだろう。
なにせ母さんはお酒が弱くて家では酒の匂いが全くしない。
父さんはそんな母さんに気を使ってるのか酒を飲むことはほとんどない。
一緒に住んでいたレイナは実家に帰ったときに酒を嗜むことはあるようだけど俺の家では酒に手を付けたことがなかった。
かわりに俺にお茶を淹れてといつもねだってたし。
それにしてもお酒がこんなに美味しいものだなんて思ってもみなかった。
前世で父親が酒の肴に美味い刺身を好んで食べていたのも理解できたような気がする。
『量は飲めなさそうだけど、甘くて美味しいです』
『そうか。それは良かった。クウガは飲める子なんだね。狐人族でも子どものうちは飲めても食前酒程度。飲めない子にはムリにのませないからさ』
目を合わせて離さないダージャに言葉を返すと嬉しそうに俺に言う。
隣ではニム皇女が一口つけた升をお膳に置いてそのまんま。
刺し身を食べる俺を不思議そうに見ていたけど、どうやらお酒が苦手なようで──。
無礼だと思いつつも、この席ならば見ても良いだろうとニム皇女に目線を向けると俺が食べた刺し身を口に頬張るところだった。
「料理がとても美味しい……」
生魚を醤油に付けて一口食べると自然と声が漏れる。
この刺し身は本当に美味しい。川魚だろうけれど臭みが全く無くて身がプリプリしてる。
お酒を飲んだ後に刺し身を口に含むと一層、味が際立った。
とはいえ、酒に対する苦手意識は拭えないようで、ニム皇女は最初の一口だけ含んだだけで、それ以降は升に口をつけることはなく、ゆっくりと味わいながら食事を進める。
俺とニム皇女が刺し身を食べたのを見たメル皇女も刺し身から食べ始めた。
ニム皇女は何も言うことなく口に入れた刺し身を咀嚼すると目を丸くして美味いものを食べているという顔になる。
狐人族の料理が人間の口に合うと確信したダージャ。
『アタシらの食べ物は珍しいだろう? 何百年か前にニンゲンに振る舞ったときも見たことがない料理だとあまり口にしなかったけど、クウガたちはちゃんと食べてくれて、口に合うみたいで安心したよ』
俺たちが食べてることを確認してダージャも料理を口に運ぶ。
『まあ、アタシらの料理は独特みたいで、ほかの種族は食べないからさ』
目の前のお膳の料理は前世で言う和食。
この機会を逃したら絶対に口にできないだろう食べ物ばかり。
毒は盛られていないと信じられるからこそ、遠慮なく食べることができた。
ここに連れてきてくれたアルダート・リリーと、和食を俺に振る舞ってくれたダージャに。そして、それを許してくれたメル皇女とニム皇女に俺は感謝する。
何か良いお返しを出来た良いのに──と、俺はこの食事を堪能しさせてもらった。