第一皇女 三
魔王城の一室──。
窓の外は月明かりが照らされてうっすらとした暗がりになっていた。
室内には燭台がひとつ。
ミル・イル・コレットは魔法でつくった水で桶を満たしてから衣服を脱ぎ、体を拭う。
「冷たッ!」
周りには誰もいない。
薄暗い部屋で全裸のミルは桶の水につけた布切れの冷たさに声をあげた。
「もう、冷たすぎ……はあ、クウガが恋しくなっちゃう」
部屋に一人。
独り言は誰にも気を使う必要がない砕けた口調。
彼女の手にはクウガと出会ってから彼が「これで体を拭いてください」と手渡してくれた温かい湯に浸した布──タオルが握られていた。
ミルはそのタオルを今も使っている。
タオルしかないというのに、水を貯めた桶だってないというのに、クウガはタオルさえあればいともたやすく温かく心地の良いタオルを作り出す。
寒い風が吹いていてもクウガの温かいタオルさえあれば、体を拭くだけのことが数少ない娯楽のように気を紛らわせた。
今は冷たいこのタオルはクウガを思い出させる。
それでもあまりの冷たさに声を漏らしながらミルは体を拭き上げた。
「これで髪の毛を洗いたくないなぁ……」
冷たい水で頭を洗うと頭皮がジンジンと痛む。
ミルは勇気を振り絞って髪の毛を桶に浸す。
髪や体を洗い終えると濡れて冷たくなったタオルを絞りながら髪の毛の水を拭き取るミル。
あらかた水を取り終わり、テーブルの上のティーポットから冷えた茶をカップに注ぐ。
「クウガのお茶が飲みたいよ……」
ミルにとってクウガはまるで目の前に現れた白馬の王子様のようだった。
彼女を助けたのはナイアだったが、ナイアの隣にいたのがクウガ。
異世界人に対して強い復讐心を持っていたクウガが見せたあの強烈な苛烈さ。
鋭く刺すような感情の揺らぎを感じさせると猛烈な速度でクウガが時庭に迫った。
御者が覗く窓からミルが大西と一緒に見たその光景。
幼さを感じさせる少年が何の躊躇いもせずに時庭の腕を切り落としていた。
ナイアによって時庭は大事に至らずに済んだが、それからのクウガが強い葛藤に耐え忍ぶ様子をミルは察していた。
だというのに、異世界人の二人を含む皇族の女性たちの身の回りの世話を嫌な顔ひとつせず率先して行い、平民の料理とはいえ、温かい食事で旅の苦痛を和らげ、心を癒やす優しいお茶をいつも淹れてくれる。
一度しか会ったことのない〝爆炎の魔法少女〟の面影を見せつつ、その少女のように分け隔てなく聖者のように温かく振る舞い心を和ませる。
鋭く尖った苛烈さを内に秘めながら周囲の空気を和らげる優しさと温かさ。
女性に見紛えるほどに整った美しい顔立ちは、かつてミルが師事を仰ごうとしたラナという女性と瓜二つ。
クウガの姿は遠い昔に憧れた存在を思い起こさせた。
少女の冒険劇に憧れを抱いたように、彼女の行動の清廉さに魅了されたように、憧憬の中の少女と酷似する少年にミルは年甲斐もなく心を奪われる。
そして、それはミルの心に火を付けた。
〝爆炎の魔法少女〟が産み落とした子が、見た目も性格もよく似た子が、少女時代に憧れた世界を実現させたいという夢をミルの心の中に蘇らせた。
異世界人の手によって命を救われ、魔王ナイアとの邂逅が皇女としての地位を守り、こうして生きている。
かつては魔王が支配していたこの土地に侵攻し、魔族を蹂躙した帝国の皇族だというのに、その魔王だったナイアは皇女たちの命を現世に留めた。
ナイアに言わせれば『それはお互いさまじゃ』ということらしく、皇女を助けたのはクウガの存在もあったとも言う。
魔王と協力関係になれたのはラナの息子クウガが繋いだ縁であったからだった。
魔王城は魔王ナイアの居城として彼女の力を示す象徴。
勇者との戦いに敗れ、魔王城は大半が損壊し、権威の失墜を印象づける。
ミルが借りた部屋はナイアの配下──幹部の者が使っていたものだという。
ナイアはナイア自身の部屋を開けてもらい、それまで、城に寝泊まりをしていたカゼミール家の者たちは魔王城前にある大きな屋敷に住まいを移した。
この魔王城というのはニンゲンが快適に過ごせる設備がない。
魔族の幹部にまで上り詰めるような種族はたいてい食事や睡眠が不要で、魔素や精を取り込んでエネルギーに変換する。
なかにはナイアに仕える褐色のエルフのリウのように、食事を必要とするものも少なからず存在するが、そういったものたちは城外で飲食した。
つまり、魔王城では風呂も無ければ食堂もない。
応接室や会議室、ホールなどがいくつか存在し、私室には椅子と横たわるためのベッド程度。
ニンゲンにとっての快適とはかけ離れた生活がこの魔王城では送られていた。
クウガが置いていったいくつかの荷物──。
その中にはクウガがミローデとニコアとともに旅をしていたときに使った毛布などがある。
ミルはクウガからもらった毛布に包まって一夜を過ごした。
翌日──。
身支度を済ませたミルのもとにカゼミール家から遣わせられた使用人がやってきた。
「ミル殿下。朝食をお持ちいたしました」
「ありがとう。テーブルに置いておいてくださるかしら」
「かしこまりました」
使用人は城外から持ち込んだ朝食のパンなどの軽食。それと、まだ暖かい茶が入ったポットを置いた。
カゼミール公爵家の当主、ブラント・イル・カゼミールより配下の貴族の生存者から使用人を召し抱えるよう薦められたが、ミルは遠慮している。
それでブラントのはからいで朝は朝食の時間から夜は夕食の時間までと決めて使用人が一人、皇女の傍に控えている。
「ああ、それと、今日はニコアとお話がしたいわ。お時間をいただけるようブラント様にお伝えくださらないかしら?」
「かしこまりました。では、ブラント様にお伝えしてまいります」
使用人は一礼して部屋を出ていくのを見送ったミルはテーブルに置かれた冷えた朝食を手を付けた。
大西うた子に秘密を打ち明けたニコア・イル・セアは小さなビスケットとお茶を一杯という朝食をとる。
「にこち入るよー」
「どうぞー」
大西の声にニコアは応じて大西を部屋に入れた。
「おは」
部屋に入った大西は遠慮する様子なくニコアの正面の椅子に座り
「昨日はびっくりしたよー。でも、生きてて? 良かった」
「や、死んでるんだけど……」
ニコアが大西に「アタシさ……入海丹恋愛の生まれ変わりなんだ」と打ち明けたのは昨夜。
ニコアの突然の言葉に驚いた大西はニコアからもっと話を聞いていたいと考えていたが、彼女はセア辺境伯家の新しい当主となったレオル・イル・セアの妻となった。
そのため、ニコアの話を聞き出す余裕がなく「ごめん。旦那が……」と言葉をつまらせたところ「こう見えて貴族の女として教育を受けてきてるから、そのくらいわかるよ。レオル伯父様と結婚したんでしょ? 話はまた後でもできるからさ」と、ニコアはレオルの元に戻るように促している。
「死んだっていうけど、よく見るとにこちの面影が残っててマジでビビる」
「……え、マジ?」
「や、でも、可愛くなってさー。あっちのにこちも超可愛かったのに、こっちのにこちもめっかわー」
「それはどーも……」
大西の褒め言葉に照れたニコアはティーポットの茶を魔法で温めてから「ミル皇女殿下からいただいたお茶だけど……」とティーカップに注いで差し出した。
「で、にこちは今までどうしてたの?」
「アタシは……」
ニコアはクラス転移の記憶がないこと。
突然、目の前に女神を名乗るニューイットが姿を現してこの世界への異世界召喚に失敗して死亡し、その代替手段として転生すると告げられたこと。
物心がついたらニコア・イル・セアとして過ごしていたこと。
最後に領民学校で異世界人を中心とした帝国軍に攻め込まれてセルム市から避難したこと。
ファルタで家族を殺されてやり返したこと。
そういったことを包み隠すことなく大西に伝えた。
「ごめん……」
「どうして謝るの?」
「いや、ほら、ウチも異世界人じゃん? だから……」
「しょーじき、めっちゃ複雑」
異世界人がセア辺境伯領に攻め込んだせいで家族を失い魔族領まで逃れて、今、魔王城の一室で軟禁されている状態のニコア。
前世ではいくら親しい友だちだったとしても許せない部分と、クウガに対する呵責もあって誰かに縋りたいという気持ちがあった。
「てか、うたっち。レオル伯父様と結婚ってマジかよ」
「できちゃったからさー。もうウチも若くないし、子どもを生むなら今しかないじゃん? 日本に帰りたいけど無理そうだし、それにレオルはそんなに悪くないし」
「それはおめでとう……。うたっちがアタシの叔母になるんだー」
「にこちが義理だけど姪っ子になるんだー。でも、にこちが死んじゃったとき、ミル皇女、薄情すぎじゃねって思ってにこちのこと、ずっと気になっててキツかったけど、なんだか胸のつかえが取れてスッキリしたよー」
「それは良かった……」
ニコアは大西のスッキリした表情とは裏腹に、大西の言葉を受けるごとに気が重く感じる。
大西は自覚はないが、現当主の妻。ニコアにとってはただの叔母ではない。
それに大西のお腹には跡取りになるかも知れない子が宿っている。無事に生まれたら私はセア辺境伯家では不要な無能者──恩恵を持たないニコアは将来に悲観しかなかった。
「にこち、大丈夫?」
声のトーンが低かったニコア。顔を見ると表情が暗い。
大西はニコアが心配になった。
「アタシは大丈夫……でも……」
ニコアはクウガのことが頭から離れなかった。
やっぱり探しに行きたい。
どうせ、レオルが跡を継いで分家ですらないニコアはそう遠くない将来セア家から除籍される。
だったら──。
「クウガっていう平民の子がいるんだけど……」
ニコアは大西に相談を持ちかける。
私はそのうち除籍されるから、彼を追いかけたい──と。
しかし、言葉を発したその途中で、部屋の扉がコンコンと叩かれた。
「ニコア様。ミル皇女殿下がお呼びでございます」
大西との会話はそこで中断。
「………」
「………」
一瞬、室内が静寂で包まれて、ニコアは静まった空間から扉の外の声に応じる。
「かしこまりました」
それから、扉を開けて大西とともに部屋を出たニコアは一呼吸して「うた子様、お話を聞いてくださり感謝いたします。それでは──」とカーテシーで一礼をしてミル・イル・コレットが待つ応接室へと向かう。
にこちは何を言おうとしてたんだろう──大西は使用人の女性と歩くニコアの後ろ姿を見送りながら、ニコアの浮かない表情に胸のつかえを覚えていた。
ニコアが応接室に入るとミルが待っていた。
「おはよう。ニコア・イル・セア」
「おはようございます」
ソファーに座って挨拶をしたミルにニコアはカーテシーを見せて挨拶を返す。
「さあ、座りなさい」
「はい。失礼します」
着座を促されたニコアはミルの正面に腰を下ろした。
部屋にはミルとニコアのふたりだけ。
他には誰もいなかった。
「お呼びしたのは、あなたに聞きたいことがあったの」
「何でしょうか……」
「平民の子……クウガについてです」
ミルはクウガのことを知りたがった。
ほぼ私情によるものだが場合によってはニコアの処遇にも関わる。
しかし、ニコアはクウガと出会ってからのことをできる限り詳しく伝えることにした。
そうしたほうが良いという天啓めいたものがニコアにあったからだ。
「私がクウガと初めて出会ったのは、お父様にクウガの住む家に連れて行かれた日のことでした……」
セルム市の孤児院で生まれ育ったクウガの母のラナ。
彼女は父のゴンド・イル・セアや叔母のレイナ・イル・セアととても親しかった。
ゴンドの初恋相手がラナで、レイナはただ魔法の使い手のラナに強い憧憬を持つ。
そのラナの息子がクウガ。
それまでの経緯はよくわからないが、領民学校の入学試験でセア領史で初の満点合格者が平民のクウガで、それを評して領城に招いたのが二度目の邂逅。
それから領民学校での学校生活や野外実習での出来事。
ファルタ対岸に渡ってから魔王城までのことをニコアはミルに伝える。
「──長くなりましたが、この魔王城に至るまでクウガとは旅をして参りました。皇女殿下がご到着なさったのはそのしばらく後ということになります」
二時間ほど、ニコアは話し込んだ。
熱心に耳を傾けるミルにニコアは少し違和感を感じていたが──。
そして、そこで一つ、ミルは聞き捨てならないところがあった。
「ニコアはエルフ族や魔族とも会話ができる──ということよね? 獣人族の街でも会話ができたのでしょう?」
「は、はい……そうですが……」
「少し思うところはありますが──」
ミルはクウガに肩入れし過ぎてニコアに対する心象が悪い。
クウガは平民。クウガの扱い方はニコアのほうが王侯貴族として正しいのに、ミルの恋慕がそれを許さなかった。
とはいえ、ミルは一国の皇族。不快な気持ちを心の奥に押し込んでニコアの特異性に注目する。
まるで異世界人のように他種族の言語を操る能力を持つニコアをミルは──
「ニコア、私の従者として仕えていただけないかしら? 今の私は仮の従者としてカゼミール家の使用人が身の回りの世話をしてくれています。ニコアは無能者として疎んじられることを心配なさっているようですから、私に仕えるのは悪くないでしょう?」
と、提案。
「──私に勤まるのでしょうか?」
「ニコアはまだ若いわ。至らない部分は私が教育しましょう。レオル・イル・セアに話を通しておきますわ。でしたら問題はないでしょう?」
おずおずと答えるニコアにミルは畳み掛ける。
断る理由がない──むしろ、貴族としての身分が保たれるミルの側近ということなら応じる他はない。
それにニコアは自分自身に決定権がないように思えた。
「承知いたしました。そういうことでしたらお断りする理由がございません」
「ありがとう。では、レオルに話を通しておきますから、その後に迎えを寄越すわ。それからは私の従者として仕えてもらうわね」
話がまとまり、ミルは使用人に命じてニコアを送り届けさせると、自身はそのままレオルのもとへと向かう。
兄の遺児とはいえ女神の恩恵を持たない無能者のニコア。
レオルにとって扱いの難しい目の上のたんこぶを、ミル皇女が側仕えとして迎えたいと申し出ると、レオルは合理的に放逐できることに胸を撫で下ろす思いで二つ返事で了承した。




