第36話 フラップ・ジャック
9月下旬に入った。まだ少し暑さは残っているが、夏バテのなる事はもうないだろう。長袖シャツやカーディガンなどを用意し、衣替えも済んだが、この時期の服装はちょっと悩ましい。
投稿小説サイトで応募していた新作だが、二次通過までいったものの、受賞までは至らなかった。
それだけだったらいいが、編集の窪田さんから連絡があり、書いているレーベルが終了するという知らせを受け取った。
出版不況が長く続いており、こんな事は珍しくはないが、さすがにショックを受けた。大手出版社は色々と手厚いが、私は中小の出版社としか縁がない。いよいよ小説の仕事も厳しい直面に入ったようだ。
とはいえ、里帆先生に講座も全部終え、希望は少し出てきた。里帆先生に企画や作品も添削してもらっているし、ブラッシュアップを重ねれば再び商業で活躍できるという話だった。里帆先生は案外厳しく、一言もお世辞は言わないが、かえって信頼できた。
こうして里帆先生とのやり取りも多くなった為、仕事も立て込んでいた。以前のように徹夜する事がないが、まとまった休みも取れなかった。
真白さんのフードトラックも全く行けていない。ただ、今は行きたい気分と行きたくない気分がせめぎ合っている。やっぱり彼への気持ちを自覚してしまってからは、少し会うのが気まずい。あの聡い真白さんだ。自分の気持ちなどとっくにバレている可能性もあり、頬が熱くなってくる。
何か小学生みたいな恋だが、元夫の結婚生活も長かったので、すっかり恋の仕方を忘れていた。恋愛経験豊富の人のように、相手の気持ちを翻弄させて見る事もできそうにない。ネットを見ると、女は男を負わせれば良いと書いてあったが、そんな高度なテクニックはできそうにない。
それに康恵さんの事も気になる。あれ以来、康恵さんとは一回も会っていないが、彼女に事を思い出すと、自分はまだまだ真白さんについて何も知らないと思う。その上康恵さんは、モデルをするほどの美人だ。そういう意味でも気後れする。少しジェラシーだって感じる。
アラフォーになって小学生みたいな気分を味わうとは思ってもみなかった。恋愛は、人を子供に戻してしまう力があるようだった。それなりに人生経験があるはずなのに、恋の前では全く役に立たないようだった。
そんなモヤモヤした気持ちを抱えている時、元ママ友の圭子さんから連絡があった。一時は怖いボスママだと思っていたが、それは誤解だった。話してみると、意外と普通の女性でたまに愚痴を言い合ったりしていた。あの運動公園の一件から、圭子さんも真白さんと仲良くり、二人でく糖質オフのメニューを開発したそうだった。
その発売日記念で、真白さんと圭子さんは二人で運動公園で販売するらしい。私が知らぬ間にこんあ事になっていて驚くが、アグレッシブで強そうな圭子さんらしい。
運動公園では、変なクレーマーにも因縁をつけられていたのを思い出す。あの強そうな圭子さんと一緒に販売するのは、良いアイディアだとも思う。
ぜひ、運動公園に食べに来てと圭子さんから誘われて、行ってみる事にした。
スポーツの秋という言葉があるせいか、運動公園の広場は、ランニングやウォーキングをする人達で賑わっていた。意識が高そうで、筋肉モリモリの人も多い。クレーマーの肩を持つわけではないが、こんな運動いる場所で甘いお菓子のフードトラックがあるのは、ちょっとメンタル的にきついとも思う。そうは言っても甘いお菓子には何の罪もないわけだけど。
空は高く、まさに秋晴れといった天候だった。女心と秋の空という言葉もあるが、天気予報によると1週間は晴れの日が続くそうだった。
「いらっしゃい! どうぞ試食してみてください。全部糖質オフのスイーツで、運動後に食べても安心です!」
圭子さんはノリノリで売り子をしていた。白いエプロンをつけ、試食のトレーを持ちながら、フードトラックの前で営業している。圭子さんの押しの強さで、フードトラックの前は賑わっていた。
「圭子さーん、きましたよ!」
「あら、雪乃さーん!是非是非試食して行ってね!」
圭子さんから、試食用のお菓子を受け取った。茶色いシリアルバーのようだった。
「これ、なんですか?」
いつの間にか隣にいた真白さんに、このお菓子の名前を聞いてみた。
「これは、フラップジャックというお菓子だよ。イギリスで親しまれてるシリアルバーで、オーツ麦がメインの材料。身体にもいいし、糖質もそんなない。食べてみて」
ニコニコ顔の真白さんに言われたら食べる他ない。見た目はサクサクしていそうだが、食感は密のようなもので固められているにで、案外歯応えや食べ応えがある。何度も噛む必要があり、これは確かに健康に良さそうだし、美味しい。
「美味しいね。フラップ・ジャックってどういう意味なの?」
フードトラックの前は騒がしかったので、少し大きな声を出して聞く。
「ひっくり返すっていう意味だよ。もともとはパンケーキに使われていた言葉だけど、いつの間にかこのシリアルバーにも使われるようになったみたい」
「へー。面白いね」
そんな事を話している時だった。私達の前に、小太りのおじさんが現れた。すぐに誰だか思い出す。以前、運動公園でクレーマーをつけていたおじさんだ。
さっきまで笑っていた真白さんだったが、顔が強張っていた。やっぱり、あの件は真白さんとしてもショックだったんだろうか。
「おじさん、一つ食べてみる?」
クレーマーおじさんの事はすっかり忘れているっぽい圭子さんは、グイグイと試食を進めていた。
「このシリアルバーは、オーツ麦がメイン食材で身体にいいんです。こちらのイチゴジェラートもプロテインが入っていますし、このアボガドパンケーキなんて見るからに健康に良さそうでしょ? それにこのティラミスは、なんと砂糖は使ってません。それなのに、しっかり甘いんですよ。食べてみません?」
圭子さんはペラペラと営業トークを続けて、クレーマーおじさんは呆気にとられていた。こうしてフラップ・ジャックの試食を手にとっていた。
ベテランの営業マンのような圭子さんは、このまま専業主婦にしておくのは、もったいないなぁと思うぐらいだった。クレーマーおじさんは、フラップ・ジャックを咀嚼すると「案外うまいじゃないか!」と言っていた。
「本当に美味しいんですよ。しかも、栄養価が高いですからね。さあ、フラップ・ジャックの大袋はこちらですよ!」
「お、おぉ……」
圭子さんは、まんまとクレーマーおじさんに大袋にフラップ・ジャックを売ってしまっていた。本当にこの人は専業主婦だろうか。私は全くそうには見えなかった。
「真白さん、あのクレーマーおじさんが買ってくれて良かったね」
「う、うん……」
私は隣にいる真白さんに声をかけたが、この一連の出来事に呆気にとられているようだった。
「うん、うん。よかった、よかったよ。僕の夢はお菓子でお客さんがちょっとでも幸せになって貰う事だからね」
そう呟く真白さんは、少し泣きそうだった。
フラップ・ジャックのフラップは、ひっくり返すという意味だった。クレーマーおじさんの態度は、まさに手のひら返しと言っていいが、終わりよければ全て良しだろう。
「よかったね。大成功だね、真白さん!」
私が笑顔で言うと、真白さんは深く頷いた。
「これも雪乃さんのおかげだよ。ありがとう」
御礼まで言われてしまうと照れるが、私も小説の仕事が上手くいっていない事はすっかり忘れていた。
未来はどうなるかわからない。
クレーマーおじさんのように、態度が180度変わる事もあるかも知れない。
とりあえず、希望だけは失わないようにしたいと思った。




