第2話 安息日のパン
当然ながら、元旦の昼間は暖かくはなく、プルプルと震えながら近所を散歩した。
散歩といっても畑ばかりの田舎だ。歩いていると肥料の匂いがする。養鶏場も近くにあるので、良い香りはしない。
元旦のせいなのか、近所の人とも全くすれ違わない。
初詣も興味がない。というのも子供の頃、家族で初詣に行ったら、全員インフルエンザになってしまった。健康をお願いしたつもりだったのだが。以来、すっかりアンチ神社になり、初詣は一回も行った事はない。そもそも年に一回だけ拝みにいくのも、ご利益宗教的過ぎないかという感じだ。
そんな事を考えながら、近所の公園に入った。
このあたりの住民の犬の散歩やランニングコーヒーに公園は組み込まれているようで、普段は賑やかだが、やっぱり元旦のせいで人は少ない。
木々に囲まれているが、中央に大きな噴水がある。噴水は年中枯れているが。そのそばに自動販売機があったので、コーヒーでも買おうと考えた。
噴水の近くは普段は、人でいっぱいだったが、元旦のおかげで人は少ない。
それは予想通りだったが、フードトラックがあるのが見えた。
珍しい。
都内に住んでいた時はよく見かけたが、人口の少ない田舎では滅多に見ないものだった。
しかも結構おしゃればフードトラックだった。
ミントグリーンの車体で、レトロで丸みがある雰囲気だ。
そばには簡易のテーブルとイス、のぼり、黒板状の四角い看板が置いてあった。
このフードトラック周辺だけ賑やかなお祭りの雰囲気があったが、残念ながら客は他にいないようだった。
フードトラックにあるのぼりには「ベーカリー・アーク 美味しいコーヒーと焼き菓子、パンのお店」とある。
それを見ていたら、やはり食欲を刺激される。こういうフードトラックは一期一会だ。そう高い印象もないし、ちょっと買ってみても良いだろう。何よりお腹が減っていた。
「いらっしゃいませ!」
カウンターの中にいる店員は、30代ぐらいの男性だった。コック風の帽子をかぶっているしマスクもしているので、ちょっと顔はわからない。ただ20代の若々しさは無いし、声は落ち着きがある。たぶん30代前半ぐらいで、私よりは5つぐらい下だろうか。
「今日は色んなカップケーキがあるよ」
「へー。メニューがないの?」
「うちはないんだ。その日の気分によって、色々焼き菓子を提供しています。たまにアイスクリームやプリンもあるよ」
「ぜいぶんと自由ですね」
「ま、美味しいものの何でも屋さんです」
店員はちょっとフレンドリーだった。ほぼ引きこもり生活中だった私としては、久々にリアルで会話した感じだ。仕事では電話やテレビ通話を活用していたが。
何でも屋というのは、ちょっと面白い。自分の仕事もそんな感じだが、私は仕事相手の需要を全部聞かなければならない。
ここまで自由にはできそうになく、ちょっと羨ましい。
鼻には焼き菓子の甘い香りも届く。食欲が刺激された。とりあえず何か注文したいが、カップケーキの気分ではない。
「お客さんには、ハッラーというパンがおススメだよ」
「ハッラー? なにそれ?」
「イスラエルの三つ編みパンだよ。珍しくない?」
店員はだいぶフレンドリータイプのようだ。そんなノリに押されて、そのパンとアメリカンコーヒーを注文した。これから仕事があるので、カフェイン抜きとはいかない。ちゃんとカフェイン入りのコーヒーを注文した。
「持ち帰る? それともこの場で食べる?」
「お腹減ったし、ここで食べるわ」
「承知しました! ありがとうございます!」
お金を払うと、私はフードトラックにあるイス方へ行き、そこに座った。
本当に簡易のイスという感じで、座り心地はよくないが、見上げると蒼い空が見える。こんな空の下で美味しいものを食べるのは、悪くない気がした。まあ、美味しくない可能性もあるけれど。
「お待たせしました!」
しばらくして店員が、コーヒーと紙皿に乗ったパンを持ってきた。
パンは確かに三つ編み状だったが、食べやすいようにスライスされていた。想像以上にボリュミーで、金額の割にはお得だった。
コーヒーからは薄い湯気とともに、香ばしい匂いがする。カップは特別にデザインされたものなのか、舟の絵がデザインされていた。カタカナで「アーク」と書いてあったが、レトロな書体で味がある。
「このパンは、イスラエルのパンです」
「ユダヤ人が住んでるっていう?」
それぐらいしか知らない。
「ええ。で、宗教上の理由から安息日に食べる特別なパンがこれなんです」
「安息日って何?」
はじめて聞く。
「僕も詳しくはないですが、ユダヤ人は金曜日の夜から土曜日夜まで家事も仕事も一切しないで休むそうですよ」
「宗教上の理由で?」
「ええ。バスや公共機関も全部止まってしまうとか」
ワーカーホリック気味の私には、信じられない話だった。
「ユダヤ人は七年に一回、一年ぐらい休む習慣もあるらしいですよ」
「えー? そんな休んで大丈夫なの?」
「なぜか前年にその分の収入があったりするらしいですよ。神様が休んでも大丈夫って言ってるんでしょうね。では、ごゆっくり」
店員が蘊蓄を述べ終えると、フードトラックに方に帰って行ってしまった。フードトラックの中はよく見えないが、オーブン付きで何か焼いているようだった。また、いい香りがする。
私はこの三つ編み状のパン、ハッラーを食べてみた。
どんな珍しい味かと思ったが、別にそれは普通だった。シンプルな味だが、ジャムやバターも要らずに、どんどん食べられそうだった。
食べながら、やっぱり自分は働きすぎかなー?と思いはじめた。思えば、自分の気の弱さから、受けたくもない仕事を断れなかったものもある。
シンプルでちょっと堂々として見えるハッラーを見ながら、たまには休んでも大丈夫だと思いはじめた。
コーヒーを一口すする。やっぱり青い空の下で食事をするのは、美味しく感じた。確かに寒いが、余計にコーヒーの温かみが嬉しく美味しく感じてしまった。気づくと、パンもコーヒーも全部空になり、お土産のカップケーキも注文していた。
「お客さん、さっきよりちょっと元気そうだよ?」
「そうかな。美味しいもの食べてっとっと回復してきたよ」
そう言うと、店員は笑っていた。マスクで顔が見えないのが、本当に残念だ。
「また買いにきていい? というか、いつお見せ出てるの?」
「僕は気まぐれだからね。はっきりと営業時間は言えないんだよ」
「えー?」
「でも縁があれば会えるよ。僕のお菓子は、必要な人に届くよう祈っているからね」
なかなか自由なお店のようだ。
でも、フードトラックなんていうお店形態はそんなものかもしれない。まさに一期一会。
とりあえず、年始早々美味しいものが食べられてよかった。
蒼い空を見上げて、そんな事を思った。