第19話 真面目なソーダブレッド
5月中旬に入り、日差しも強くなってきた。スプリングコーヒトはクリーニングに出し、シャツやジーパンといった薄着に変えていた。時々寒い日もあるので、カーディガンは手放せないが。
仕事は順調だった。小説の企画は通らないが、ネットの新人賞に応募する為のアイデアが浮かび、資料も揃えて終えた。アイデアの手応えを感じ、プロットも完成。いよいよ執筆に取るかかっていた。元修道士がケーキ屋を開き、町の人々の悩みを聞いていくハートフルな物語だ。売れ線なのかはわからないが、とりあえず滑り出しは順調だった。タイトルは「修道士のケーキ屋〜修道院の秘密のレシピを召し上がれ」とつけた。
今日は午前中ずっとこの新作を書いていた。一度執筆のスイッチが入ると、ノリノリで書いてしまう。最近はこの為に朝ご飯は、家に食べるスタイルに戻っていたが、真白さんのフードトラックは隣町の駅に移動してしまった為、タイミングは良かったわけだが。
気づくと、時計は昼過ぎになっていた。お腹が情け無い音を立てている。
「そういえば、前に真白さんのキャロットケーキをもらった時のタッパー返すの忘れてた!」
すっかりその事を思い出し、急いで洗いかごで干していたタッパーを拭き、綺麗にしてから紙袋につめた。
それを持ってか隣町の駅前ロータリーに向かった。ミントグリーンのフードトラックやのぼりが見えてホッとした。今日もここで営業しているようだった。
「ごめんなさい。このタッパー返すの忘れてたわ」
「いやいや、いいんだよ。タッパーなんてすぐボロくなるからね。捨てちゃっても良かったのに」
「それはちょっと気分が悪いわ」
昼過ぎの中途半端の時間のせいか、他に客はいない。ついつい雑談をしてしまう。
「へぇ。今は新作を書いてるんだ」
「うん。お菓子が出てくる話だから、時々取材の協力して貰ってもいいかな?」
「僕で役に立つなら、もちろん」
そう言って真白さんは、ニコニコと笑っていた。確かにこの笑顔はイケメンかもしれない。ただ、マスクをしているので、顔が見えないのは残念だ。
「このパン、すごいね」
ふと、カウンターの上の置いてあるパンを見てみる。表面に十字が切られたパンだった。ゴツゴツと岩のような見た目だが、とても真面目そうな見た目だ。縁の下の力持ちというか、浮ついたところが一つもない。確かに派手ではないが、このパンの味がきになってしまった。地味なマカロンの件もあるし、見た目だけが全てでは無い。
「このパンはソーダブレットと言って、材料もシンプルで簡単に出来るパンなんだ。重曹、つまりソーダと薄力粉、塩と無糖のヨーグルトだけ」
「へえ。シンプルなのね。表面の十字架は何なの?」
「これはパンがよく膨らむような工夫なんだ。まあ、ヨーロッパの方では悪魔や妖精が避けると言われているみたいだ。十字架はキリスト教徒の多いヨーロッパの人には大事だろう」
「へぇ。面白いわね。ちょっと作品の参考になるかもしれない」
私はそう言ってメモ帳にこの事をメモした。
「真面目だなぁ、霧香先生は」
ペンネームだが、真白さんに褒められて、ちょっと恥ずかしくなってきた。自分の性格は真面目という自覚はないが、そう言われると嬉しい。
「ちなみにこのパンに使ってる重曹は、掃除にも使えるよ。水で薄めて床を磨くとピカピカになる。食用と掃除用の重曹は違うから、買う時気をつけてね」
「試してみるよ。じゃあ、今日はこのソーダブレッドを切って貰える?」
「承知しました。このパンは、スープでもサラダでも何でもあう縁の下の力持ちみたいなパンだからね。おススメだよ」
「そんな事言われちゃうと、一個丸々買って家に置いておいた方がいいかも」
「いいと思うよ。是非一個丸々買って」
そんな事を笑顔で言われると断れない。という事でソーダブレットを購入し、家に帰った。
ソーダブレットを切り分け、チーズを乗せて温めた。それと作り置きしてあったミネストローネを温めて一緒に食べた。
「美味しい!」
確かにソーダブレットは地味な見た目だが、スープにもチーズにもあい、どんどん食が進んでしまう。あっという間に完食してしまった。
まさか真面目な縁の下のようなパンだった。おやつのにも食べたが、紅茶にもコーヒーにもあった。フードトラックで売っていたので、お菓子っぽいパンだと舐めていた所もあった。このパンは、立派な主食になる。
こんなパンを食べていたら、真面目さも大事じゃないかと思わされる。
そういえば真白さんは、重曹を入れて床を掃除すると綺麗になると言っていた。
仕事は順調だったが、部屋の掃除は時々手を抜いてしまっている事に気づいた。
「そうだな、掃除もちゃんとやろう」
何だか元気になってきた。
明日は重曹を買って掃除をしよう。見えないところも綺麗に。
縁の下の力持ちが見えない場所に居るかもしれない。