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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

あの頃

あの頃 【ナチ編】

作者: 冬野ほたる

 わたしがこの世界で一番嫌いなものが、ゴキブリでも給食で出されるぬるい牛乳でも、真夏の太陽でもないと知ったのは、十三歳の誕生日のことだった。


 わたしは突然に気づいてしまった。もう、自分が子どもではないということを。


 あれから四回目の誕生日がきた今、サチとナオコの不協和音な、流行(はやり)のユニットのバースデーソングを聞いている。




 開けて三週間目のピアスの穴に、サチが贈ってくれたパールのピアスをなかば無理やりに差し込むと、頼りない痛みが耳たぶを襲った。


 洗面台の鏡を覗いて、顔にかかる髪を耳にかけ、ピアスの上にカットバンを貼り付けた。


 今日は服装検査がある。これはお決まりのパターンだ。こんなものでごまかされるような、生活指導課の教師たちではないけれど、パールを隠すのと隠さないのでは可愛げってものが違う。

 もちろん中には色を抜いた明るい髪の毛のまま登校して、わざわざ呼び出される生徒もいる。そういう類は大抵クラスでも自己主張が激しいタイプで、自分の存在を身体を張ってアピールしている。

 わたしはこういうバカな子どもが大嫌いだ。もっとうまくやればいいのに。



 わたしが通う公立高校は、頭の良いとは言えない偏差値の範疇にあるくせに校則が厳しくて、沿線の他校生からは隠れ私立なんて呼ばれている。女子生徒の数がやたらと多い共学校。コドモによるウリやクスリがニュースになっても、なんだかあまり驚かなくなってしまったこのご時世に、風紀委員会などがきっちりと活動をしている。


 風紀委員は学年のはじめに立候補で決定される。でも今時、そんな委員に立候補する奇特な生徒はいない。その場合はとても民主主義的な決め方をする。つまり、じゃんけん。

 二週間に一度の服装検査の為に、一時間も早く誰が登校するはめになるのかが決まる。

 その時にナオコはクラスで一番ついている女になった。



 今年の夏は例年以上に暑くなると、新聞もテレビの天気予報もいっていた。なんだか毎年のように同じことを聞く。


 学校の近くの公園から、校庭の樹木の隙間から、ひっきりなしに届けられるセミの声をBGMにわたしはカシワギの注意を受けた。髪、スカート、ツメ、大丈夫だね。あれ? 耳たぶ見せて。ナチ、夏に開けると化膿するって誰かが言ってたぞ。


 カシワギはわたしの頭を軽く叩いて困ったように笑う。まるで幼い子どもの他愛ない悪戯を見つけた親が、唇をゆるませるみたいに。


 カシワギが校門に立つことになるかぎり、わたしはパールのピアスをしてカットバンを貼り付けて登校する。無邪気な子どものように笑いながら。


 ナオコがカシワギの後ろで口だけを動かしてバカと言った。

 




 毎朝の日課は、黄色い電車の前から五両目に乗って、サチを探すことだ。だいたい、彼女は駅のホームと反対側の扉にもたれかかり、器用にも眠っているのか、瞼を閉じて立っている。終点に向かう下りの電車は人もそう多くない。


 サチは眉間に軽くしわをよせて、ナイロンのデイパックを右肩にかけている。

 朝の光を眩しそうに、不敵そうに、腕を組んでいる。後ろで一つに結んだ茶色い髪に、細いというよりもやせっぽちな身体に光が反射するたびに、サチがどこまでも滑らかな真っ白い彫像のように思えてしまう。何度も瞬きを忘れる。サチの血管を流れるのは朱い血液ではなくて、無色透明な砂のような粒子ではないかとさえ想像する。サチの細い手首にカッターで傷をつけたとしたら、ゆっくりと色のない粒子が流れ出したらキレイなのに。


 いつもの朝の予定通りに、電車が大きく三回揺れる。毎朝のことなのにサチが驚いたように瞼を開け、わたしを見てヨオと言う。






 「ねえ。進路希望調査書は出した?」


 「ン」


 放課後の校庭からは、運動部の何を言っているのかさっぱりわからない掛け声が耳に届く。


 わたしはサチと一緒に夏の空を見ていた。校舎の屋上に二人並んで寝転んで……なんてことはない。マンガじゃあるまいし、校舎の屋上なんか普通に鍵が掛かっていて入れない。冷房も入っているんだか、いないんだかわからないような空き教室で、窓の外に見える水彩絵の具をそのまま絞ったような、濃く青い空をぼんやりと眺めている。


 「ナチはどうするの?」


 「ン、一応、進学で出した」


 「同じだ」


 進路希望調査は同じでも、わたしとサチでは全然違う。サチはどうしてこの高校に通っているのかわからないほど頭が良い。しかもお爺ちゃんがヨーロッパのどこかの国の人だかで、天然で髪色が薄い。サチとナチだけど似ているのは名前だけ。それにわたしのナチは苗字のナチだ。


 太陽の光が目に入り、眩しくて瞼を閉じた。目をつぶっていても太陽はわたしを追いかけてくる。


 サチが起き上がった気配がする。


 「夏休みの進学対象の補修は出るでしょ?」


 「サチが出るなら」


 サチはいつものように軽く鼻で哂う。


 わたしは目を開けた。サチはほつれた髪を解いてわたしを見ていた。


 「なに?」


 「うそつき」


 「なんで?」


 「カシワギが理科を教えるからでしょ?」


 わたしはサチから視線を逸らした。太陽を遮るように両手を伸ばし、光に指を透かして目を隠す。細く長い指の縁に沿って光が零れていく。わたしの身体の中でわたしが一番に気に入っている部分。カシワギはわたしのこの指をきれいだと言った。


 「そこまでバカじゃないよ」


 カシワギは人気がある。若いし、まあ、顔もいい方だと思う。歳が近い分、話しやすいし、話していると楽しい。授業は訳が分からないけど。


 「バカなくせに」


 「そんなにバカに見える?」


 「(はた)から見ればね」


 「ふん」


 わたしは軽く笑う。どんな風に見られてもそんなの全然関係ないけど。


 だって、あの指先がわたしの髪に触れるのだから。

 

 「サチだってバカでしょ」


 サチは駅のホームで毎朝会う、名前も知らないスーツの男に恋をしているらしい。そのスーツはサチが乗る駅の上り線にいるらしいので、わたしは顔も見たことがない。このことをナオコはまだ知らない。わたしとサチの二人だけの秘密だ。ナオコはいいやつだが口が少し軽い。


 サチの髪がさらさらと頬に落ちてくる。それからだんだんと顔が近づいてくる。


 わたしはサチの顔を両手で挟む。


 「そういう迫り方はスーツにしなさい」


 「予行演習」


 「バーカ」


 「そうだね……。バカかもしれない」


 そう言ってサチが笑った。






 去年の秋に本当に偶然に、音楽室でカシワギがピアノを弾いているのを聴いた。社会の課題が終わらなくて、放課後に教室で必死に仕上げて提出した後だった。もう外は暗くなっていた。廊下に漏れていた音楽室の灯りとピアノの音色に、誰が弾いているのだろうと、好奇心で覗いてみた。


 ピアノの前にはカシワギがいた。


 カシワギの指は切ないような、哀しいような旋律を奏でていた。聴き入っているうちにいつの間にか、足にクギをさされたように動けなくなった。


 ふと顔を上げたカシワギが、扉の小窓から覗いているわたしと目が合うと、指を止めて椅子を立ち、音楽室の扉を開けた。


 「恥ずかしいとこ見られちゃった」


 そう言ってカシワギは照れくさそうに笑った。


 「センセー、もっと聴きたい」


 えー? ううん、じゃあ、一曲だけな。だって、もうそろそろ最終下校だろう? そう言って渋々ながら音楽室に入れてくれた。


 「ナチもピアノを弾くの?」


 中学まではと答えると、カシワギはわたしに指を見せてと言った。そして長くてきれいな指だねと笑った。




 カシワギのことは一過性の熱のようなものだと思っていた。ある時期にある期間だけ訪れる、都合の良い相手との幻想。こんなのは実際、ドラマでもマンガでも小説でも映画でも、掃いて捨てるほどに転がっている。





 夏休みに入り補習が始まった。進路調査を進学希望で出した者の、半分に満たない人数が朝の教室にいた。机はがらがらに空いている。ナオコは就職を希望していたので、進学を希望する生徒のための補習にはいなかった。


 出席をとるぞー。席につけー。大きな声を出しながら教室へ入ってきたのは、学年主任のタナカだった。国語の教師だが、なぜかかなりの強面だ。去年の担任だったが、入学式でタナカの顔を見た時には、ほとんどの生徒が緊張したはずだ。話してみると顔に似合わずかなりのとぼけたセンセーで、授業もわりと面白かった。



 補習は一週間。午前中の三時間で終わる。国、数、英が主な補修科目で、カシワギの理科は一日おきだった。



 補習が終わるとサチと高校近くのコンビニで、、アイスを買って食べた。他愛もない話を延々と話して笑い合った。いつまでもこの夏が続くような気がしていた。




 補習の最終日には朝から雲行きが怪しかった。午前中の授業が終わる頃には、どんよりとした黒い雲が立ち込めていて、空気は雨の匂いがした。用意のいい者は傘を持ってきていたが、わたしもサチも、置き傘や折り畳み傘さえ持っていなかった。


 昇降口で靴を履き替えようとした時に、雨粒が落ちた。傘を広げながら玄関を出る生徒たちの中で、わたしとサチは靴箱の前に座り込んだ。


 「なんで傘持ってこないかなー?」


 「ナチもね」


 「サチが持ってくると思った」


 「ナチが持ってくると思った」


 雨はあっという間に景色を白く染め上げた。ざーざーという雨の音。補習を受けていた生徒もほぼ校舎から出ていた。湿気で床がべたついた昇降口に座り込んで、笑い合うわたしとサチの声が薄暗い廊下に響いていた。


 「まだ残ってたのか。施錠しようと思ったのに」


 顔を出したのはカシワギとタナカと、髪を金色に染めた男子だった。


 「なんだサチナチコンビか。傘ないの?」


 カシワギが訊いた。


 「忘れちゃった」

 「忘れちゃった」


 わたしとサチの声が重なると、金髪が笑った。


 「あれ? オノ?」


 「ああ」


 サチが訊くと、金髪はばつが悪そうに返事をした。


 「どうしたの? 髪」


 サチが金髪を指さす。


 「ちょっと、な」


 「ちょっとなじゃない!」


 タナカが金髪を小突いた。


 「痛ってーな、なんだよ?」


 「痛くない! 約束通りに次の部活までに戻すか切ってこいよ」


 「……なんだよ、せっかく染めたのに」


 「嫌なら今切るか?」


 「ちっ……」


 そんなやり取りが続いていた。サチはこそっとオノは中学が一緒だったと教えてくれた。


 「ナチ、耳どうした?」


 カシワギがしゃがみ込んで、自分の耳を指でとんとんとさしてわたしに訊いた。


 「大丈夫だよ」


 「そういうことじゃなくて……。まあ、化膿しなくてよかったね」


 笑い返すとカシワギも困ったように笑った。


 「わかったよ、わかったから。うるせーよ、タナカ」


 「こらっ! 先生だろ」


 金髪がしつこいタナカを振り切るように、割って入ってきた。


 「コミネ、傘がないなら俺が送ってやるけど……」


 「……え?」


 突然の金髪の言葉にサチが戸惑った。


 「いや、いいよ。ナチもいるし……」


 金髪はちらりとわたしを見た。しつこいタナカから逃れるためか、それともサチを送りたいのかはわからないが、その目はわたしを邪魔だと言っているように見えた。やっぱりこういうやつは大嫌いだ。


 「なんだオノ。お前そうなのかー? コミネ、家、近所だろ? 送ってもらえー」


 タナカが大きな声ではやし立てると、金髪がまた「タナカ、うるせー」と、舌打ちをした。


 「いや、でも、ナチが……」


 「ナチは雨が止むまで俺が国語の補修をしてやる」


 「えー? 日本語は話せるからいいよ」


 「ナチ、お前、国語なめてるのか?」


 「なめてないよー」


 「じゃあ、理科の補修でもする?」


 カシワギが提案した。


 「するっ」


 即座に答えるとサチが何かを言いかけた。タナカは後ろでなんだそりゃとかなんとか、ぶつぶつ言っていた。


 「コミネ、行こうぜ」


 「……うん」


 金髪が声をかけると、サチが肯いた。



 理科の補修は職員室だった。夏休み中のためか、昼食時だからかセンセーの数は少なくて、だいたいの机に人がいなかった。タナカが昼食用のおにぎりを一つ分けてくれた。カシワギはお弁当を持ってきていた。昼食を食べ終わった後の補修は、一時間もしないで終わった。雨が上がったからだ。

 

 カシワギは昇降口までついてきた。


 「センセー、またピアノが聴きたいな」


 「ああ……でも人に聞いてもらえるほどでもないし……。いつか、機会があったらね。それよりナチのピアノを二学期にでもクラスの前で弾いてみたら?」


 「……なに言ってんの? もう指も動かないし、曲も憶えてないよー」




 雨は上がっていたが、空には雲が残っていた。空気は蒸していて、肌にじっとりと汗のように張り付く気がした。雨上がりの匂いは大地の匂いだとカシワギが言っていた。大きな水たまりがそこら中に出来ていて、()けながら駅までの道を歩いた。


 改札を通り上りのホームで電車を待つために移動すると、ベンチにサチが座っていた。


 「サチ? どうしたの?」


 「ナチを待ってた」


 「あの金髪は?」


 「金髪って……。オノだよ。先に帰ってもらった」


 「……ふーん。金髪よりわたしを選んだんだ」


 「……ナチはわたしよりカシワギだったけどね」


 「……あの金髪がわたしのこと邪魔だって言ってるみたいだったからさ」


 「オノだって。……まあ、でも悪い奴ではないよ。ナチの嫌いなタイプだけど」


 「……お昼食べたの?」


 サチが首を振った。


 「ナチは?」


 「タナカが嫁の作ったおにぎりくれた。美味しかった」


 結局、駅から出ていつものコンビニまで戻った。二人でおにぎりと、かき氷みたいなアイスを買った。近くの公園のブランコに乗って食べた。ブランコは濡れていたが気にしなかった。夏はすぐに乾く。


 駅のホームのベンチでしゃべり疲れるまでくだらない話をしていた。夕方近くに電車に乗った。始発から二駅目ということもあるが、帰宅ラッシュの前の車内は空いていた。座席の端にわたしが座り、隣にサチが座る。補習は今日で終わった。明日からは本格的な夏休みが始まる。


 わたしが降りる駅の手前で席を立つ。サチが席を詰めて端に移った。


 「ナチ」


 降車のための車内アナウンスが流れると、サチがわたしを呼んだ。


 「ン?」


 顔を向けるとサチが立ち上がり、わたしの頬を両手で押さえて唇を押し当てた。


 一瞬の事だった。サチは何事もなかったようにすぐに離れた。


 「………」


 「へへへ」


 いつもの悪戯だというふうに、笑っていた。


 「……バカ! そういうのはスーツにやれって言ったじゃん」


 「ナチがいいよ」


 「……本当にバカ」


 ホームに電車が停止してドアが開いた。


 「……じゃあね」


 「うん。バイバイ。ナチ」


 いつものようにサチは笑った。




 夏休みの間にサチに会うことはなかった。ファミレスのバイトで忙しかったのが大半の理由だが、どんな顔をして会えばいいのかが、わからなかったからでもある。連絡もしなかったし、連絡もなかった。


 サチの唇は柔らかかった。しっとりと湿っていた。二人で食べたアイスの甘い味がしたような気がした。ほんの一瞬のキスとも呼べない接触だったけど。




 夏休みが明けた。


 始業式の日の、黄色い電車の前から五両目にサチの姿はなかった。顔を見てしまえば、いつも通りにできると思っていたのに。


 教室にも姿がない。初日から遅刻なんてサチにしては珍しい。


 ナオコが教室に入ってきた。


 「おはよ。ナオコ」


 「……おはよ」


 「今日はサチ、休みかな?」


 「………ナチ、ちょっと来て」


 ナオコはわたしの手を引いて、教室の外に連れ出した。屋上へ続く階段の廊下の前で手を離す。ここは普段から人気(ひとけ)がない。


 「なに? どうしたの?」


 「ごめんなさい」


 ナオコが突然に深く頭を下げた。


 「……え? ちょっと、やだ、なに?」


 「サチに、ナチには言わないでって頼まれてたから……」


 「………え?」


 なんだろう。心臓の鼓動が早くなる。


 「サチ、もういない」


 「…………………は?」


 「夏休みの間に家の都合で、お爺ちゃんの国に引っ越した」


 「………」


 「引っ越す日の朝に空港から電話がきて。飛行機の時間があるからって、わたしも少し話しただけ」


 「………」


 「クラスの子にも誰にも言ってない。みんなに言わないでほしいって、担任にお願いしてあったんだって」


 「………」


 「だから……わたしに電話してきたんだよ」


 「……ナオコにだけ? わたしは?」


 「……サチは…」


 ナオコはなにか考えを振り払うように、首を小さく左右に振った。


 「いや……いい。サチはナチにはどうしても……言えなかったんだよ。ナチだって…本当は……わかってた、よね……?」


 「……」


 「なにしてんの? 始業式始まるよ。体育館に行ってー」


 カシワギだった。教室に生徒が残っていないか見回りにきたのだろう。


 「あ…」


 わたしとナオコの顔を見ると、カシワギは明らかに何かを察した。


 「……センセー、知ってたでしょ?」


 「いや、それは……まさか……ナチは知らなかったの?」


 頭の中で何かがぱちんとはじけた。それがなんなのかはわからなかった。


 わたしは駆け出していた。行く場所なんかどこにもないのに、どこに行こうというのか自分でもわからなかった。ただここにいたくなかった。じっとしていられなかった。

 カシワギの横をすり抜けようとした時に腕を掴まれた。


 「ナチ、ちょっと落ち着こう?」


 「………」


 前が見えなかった。なんでこんなに、どこからこんなに涙がでるのかわからない。


 サチがわたしに何も言わなかったから。わたしは気がつかないふりをしていたから。だって楽しかったから。ずっとこのままでいたいと思っていたから。


 いつものように笑ってた、あのバイバイが最後なの? もうコンビニでアイスを買って、二人で食べることもないの? あの公園でくだらない話をして笑うこともないの? 朝の電車の前から五両目にサチはいないの? どうしてわたしに話してくれなかったの? どうして……


 どうして……キスしたの?


 ……たぶん、もう二度と、サチに会うことはないのだと、十三歳の誕生日の時のように突然に理解した。


 カシワギとナオコが、わたしの頭の上でなにか話していた。カシワギはそのままわたしを引きずって、保健室へ連れて行った。


 腕を引かれて連れて行かれる途中に、遅れて体育館に行く生徒たちとすれ違った。「遅れてるよー。急いで」なんて言いながら、カシワギはわたしを隠すように歩いていた。


 一瞬足を止めた、坊主に近い五分刈りの頭の男子とすれ違った。金髪だとわかった。金髪もわたしを見ていた。

 

 カシワギはわたしを、保健のセンセーに引き渡すと体育館へ戻って行った。






 サチのいない日常に慣れた。ナオコとバカみたいな話をして笑って、時々、教室の中に、黄色い電車の前から五両目に、サチを探した。





 高校を卒業して、少し離れた短大に進学した。ナオコは地元の信用金庫に就職した。

  

 今でも時々会って、相も変わらず、くだらなく、他愛もない話をしながら、お互いの近況などを報告している。


 カシワギには高校を卒業してから会っていない。カシワギのことを思い出すと胸が疼くような気がしたが、サチのことを考えるともっと胸が疼いて痛かった。いつかこの痛みに慣れる時がくるのかもしれないが、忘れることはできないだろう。


 あの頃の夏の空は手を伸ばせば届きそうだった。未来は確かに手の中にあった。きらきらとしていたが無色透明で、何も見ることはできなかった。もう、子どもではないと思っていた。でも、まだ大人でもなかった。


 サチがいつも笑顔でありますように。


 あの日に、カシワギが弾いてくれた曲のタイトルは今でもわからない。サチの少し鼻にかかった高い声と一緒に、旋律だけがずっと胸に残っている。








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― 新着の感想 ―
[一言]  恋と憧れの境界線がまだはっきりしない年代、大事だと思う気持ちも、そこに含まれてしまうんですよね。  淡々と語られるからこそ、身近な日常感があって。  ラストに向けての心境に、何となく懐か…
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