ベルカ、吠えないのか?⑧
歩き出したサンゴを引き止める言葉をメイはしばし探し、諦め、ため息をついた。
「ほ、ほんとはね、分かっていたの。サンゴおじさんが、砂漠で死にたがってること」
「君が止めたことで、サンゴ氏が不幸になったと思っているのか?」
ハガネはメイに問うた。試すでも責めるでもない、いつも通り、率直な物問いであった。
「そう、かも。こ、このままね、だんだん体が動かなくなって、目も悪くなって、ゆ、ゆっくり、死んでいくぐらいなら、って、すこし思います」
「ふむん」
メイの言葉を受け止めるように、ハガネは相槌を打った。
「ある観点からしてみれば、僕はあのデザートワイバーンを治癒すべきではなかったと言えるな」
川岸に眠るワイバーンを、ハガネは指さした。
「致命傷だった。僕がたまたまこの個体の育児嚢を調査していなければ、そのまま死んでいたはずだ。死体は栄養循環の一過程に組み込まれ、孵化したサンドワームを育むことになっただろう。君はそれと同じことをしたわけだ」
「え、そ、それは……うん。え、ええと、サンゴおじさんとベルちゃんが、サンドワームに食べられる、ってこと?」
「より正確に言えば、サンゴ氏とベルカの死体に含まれる炭素や窒素、リンやカリウムといった栄養源だ」
全生命に対してあまりにも公正すぎる物言いに、さすがのメイもかなり長いこと絶句した。
「で、でも、その子を、治したんだね」
たっぷり言葉を失ってから、メイは言った。
「完璧に治療した。とくに理由はない。目の前で死にかけていたからだ。君もそうだったんだろう、メイ」
メイはうなずいた。
「今から話すことに、なにひとつ根拠はないのだが……どう表現すべきだろうか。祈りが近いのかもしれない」
珍しいことに、ハガネは口ごもり、考え込んだ。
「広義人類にとって、目の前で困っている誰かというのは、一種の生得的な解発因なのかもしれない。メイ、言ってみてくれ。解発因だ」
「り、りりー、さー?」
「イトヨという魚のオスは、なわばりに侵入する別のオスに対し、口を開けて突進する闘争行動を示す。これを抽象的に言いかえれば、なんらかの刺激によって、なんらかの行動が解発されていると説明可能だ。なんらかの行動を引き起こす刺激のことを、解発因と呼ぶ」
「え、えと、えと……よその子の侵入が刺激になって、突進が、り、リリース、されるってこと、ですね」
ハガネは頷いた。
「広義人類にとって、困っている誰かは、あわれみの解発因なのだろう」
やや迷いながら、ハガネは言葉を選んでいった。
「僕も君も、あれこれ考えることなく、困っている他者を手助けしようとしてしまう。助けを求める他者が解発因となって、あわれみという衝動が解発されるんだ。これは、なんらかの適応なのかもしれないな」
「さ、サンドワームが、死の行進をするのといっしょで?」
「マーベラス! メイ、君は適応について非常に高度な理解を示している! 進化生物学者の素養があるな!」
ハガネはいつもの調子に戻り、サモエドのような笑みを浮かべた。つられて、メイも笑った。
「は、ハガネくん……ありがと」
「メイが自分の振る舞いに納得できたなら、僕は嬉しい。では、サンゴ氏を迎えに行こう」
「はい!」
刳岩宮広しと言えども、第七層ほど冒険者に顧みられぬ空間はなかろう。
そこには陽光照りつける無可有の砂原が広がっている。高さは無際限で、広さも無際限である。最果ては誰も知らぬ。
両端が繋がっているのだとか、乳と蜜の流れる楽土が秘されているのだとか語る者もいるが、与太話であり、まともに受け取るべきではない。
付言すれば、第七層では階層をつなぐ階段が隣に並んでいる。一秒もあれば通り過ぎることが可能だ。
この第七層にこそ命を賭ける者がいることを、君は知ることになるだろう。
老いた無力な男と、同じぐらい老いた無力なグリフィンは、今、そうした者たちを見守っている。
「もっと体を寝かせろ。おまえとグリフィンは、ひとつだ」
サンゴは風に負けぬよう声を張り上げた。
「は、はいぃ……」
隣を飛ぶ若きグリフィンライダーは情けない返事をすると、若いグリフィンの上でほとんど寝そべるような態勢を取った。
「あ、あの、サンゴ先生、すっごいこれ鼻に羽毛が、ふわっふわして、くしゃみが」
「おまえが鼻を垂れても誰も気にしない」
「ふぇっくし!」
サンゴは右の鐙に体重をかけた。ベルカはゆるやかな弧を描いて青空を横切り、別のグリフィンに寄り添った。あぶなっかしい軌道を描いている。
「おい、意識はあるか」
「むぐぐぐ」
鞍上の新人は呻いた。
「グリフィンに、理解させろ。あまり鋭く飛ぶと、人の体が持たんと」
「ど、う、やって」
「やり方は人による。おれはベルカの首筋に、何度も反吐をぶちまけた。うんざりしたベルカは、飛び方を変えた」
「そりゃ、賢いやり方で……」
空にひしめくグリフィンとライダーの間には、いずれも調和がなかった。無理もない。グリフィンは、ルーストリア本国の大富豪が私設動物園で飼育していたのを引き取ってきたばかり。ライダーは、昨日までグリフィンにまたがることなど考えもしなかった連中だ。
サンゴとベルカはひっきりなしに飛びまわった。鞍にしがみつくだけの新人に飛行のこつを教え、興奮するグリフィンをなだめた。
ひと段落ついて、サンゴとベルカは砂漠に舞い戻った。
「お、おつかれ、サンゴおじさん」
メイが、軽食と冷えたデーツワインを手に駆け寄ってきた。
「ありがとう、メイ」
サンゴは鞍を降り、メイから受け取ったワインを一息に飲み干した。
「ううん。仕事の、つ、ついで、だったから」
「そうか」
第七層の入り口には、銅鉄一家のパーティメンバーが立っている。
「ベルちゃんも、はい。汗かいたでしょ?」
メイはベルカのくちばしを撫で、塩気のきいたアンチョビを差し出した。ベルカはメイの腕を幾度か噛んでから、ようやくアンチョビを口にした。
「じゃ、じゃあ、行くね。がんばって」
「ああ。メイも」
サンゴとベルカを抱擁し、メイはパーティメンバーのところに戻った。
「あれ? もういいの?」
ディランが言った。
「う、うん。邪魔したく、ないから」
「魔力が、きれい……」
グリフィンの尾翼に灯った青い魔力炎を、ティレットはうっとりと眺めた。彼女がこうなると、長い。気が済むまで動かないだろう。
ディランとメイは顔を見合わせて苦笑した。
「昨日の今日で、よくここまで集まるもんだなあ。ティルトワース気質ってことか」
「きゅ、求人倍率、三百倍だったって」
「そりゃあ金だな、金。なんたって大図書館の事業だ」
「ディラン、『世界の知性に貢献するティルトワース人の財団』だ」
「一緒だろ」
ハガネが訂正し、ディランはすげなく返した。『世界の知性に貢献するティルトワース人の財団』はティルトワース大図書館の管理団体だ。
『世界の知性に貢献するティルトワース人の財団』がなぜグリフィンライダーを募集したかといえば、ハガネの働きかけによるものだった。
ハガネが提出した研究計画書を検めた大図書館は、サンドワーム研究への莫大な投資を即決した。その際、問題になるのは、いかにしてサンドワームを発見、追跡し、首尾よく育児嚢内部に進入するか、であった。
このうち、発見と追跡には膨大なノウハウが既に存在した。グリフィンライダーとルフ漁師の存在である。こうなれば話は早い。大図書館はグリフィンとグリフィンライダーをかき集め、新人育成を始めたのだ。
慣熟飛行訓練の担当に、サンゴは志願したのであった。
「ちょ、ちょっと、意外だったかも。サンゴおじさん、そういうの、好きそうじゃないから」
「口下手なんだっけ? 職人だな。でも、楽しそうに見えるぜ」
辛うじて浮いているようなグリフィンの群れを見上げて、サンゴは、笑みを浮かべている。
「う、うん。だから、よかったなって」
「そうだなあ。仕事があるってのはいいことだ。だからティレット、そろそろ俺たちも仕事に行くかあ?」
「…………はっ」
ディランに声をかけられ、ティレットは我に返った。
「愚門。急ぐ」
照れと興奮に紅潮した頬を手で抑えながら、ティレットは大股で第八層への階段を駆け下っていった。銅鉄一家は、笑いながらティレットを追った。
「休憩は終わりだ。おれたちも戻ろう、ベルカ」
無限に広がる砂原を、ベルカが駆け出す。
獅子の四脚で砂を蹴立て加速し、翼をはためかせて飛び上がる。大きく広げた翼で気流を捉え、一気に上昇する。大気に押しつけられるような感覚を、サンゴは快く思う。
「先は長いぞ、ベルカ。飛び続けなくてはな」
風に負けぬよう声を張り上げ、ベルカの首を叩く。答えるように、ベルカは翼を打ち振るった。
砂混じりの風は鋭く乾き、ベルカの肌を打った。サンゴはバイザーを下げた。ルフ卵殻を骨のリムで接いだものだ。瞳を沸騰させんばかりの陽光と熱風とを、よく遮ってくれた。
地平線では、空の青と砂漠の金がきっぱりと画されていた。
老いに濁った四つの瞳は、グリフィンライダーのいる空を見ていた。
ベルカは尾翼に魔力の炎を点した。二つの体は共に一つの歓喜を味わっていた。
今、空は狭い。
「ここが、楽土だ。そうだろう? ベルカ、おれたちは選んだんだ」
加速の中で湿った熱い空気を肺に行き渡らせて、サンゴは、言葉を用意した。
それは、二つの体を鼓舞する言葉であった。
触媒に魔力をふくませるように、サンゴは漁がはじまる度、危殆に陥る度、繰り返し、この言葉で自分とベルカを駆動させた。
「ベルカ、吠えないのか?」
老いたるグリフィンとグリフィンライダーは叫声を纏って滑らかに空を駆け上がり、よたよた飛び交うグリフィンとグリフィンライダーたちの度肝を抜いた。
第八話『ベルカ、吠えないのか?』おしまい




