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粘菌術師吉良ハガネのダンジョン博物誌  作者: 6k7g/中野在太
第七話 ベルカ、吠えないのか?
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ベルカ、吠えないのか?⑤

 第七層には楽土が秘されている。

 ルフ漁のただなか、嵐に姿を消したグリフィンライダーは、乳と蜜の流れる地に辿り着いて寛ぎと憩いの永遠を過ごしているのだ。

 めまいのようにちらつく微かな夢の中で、サンゴは楽土を見た。無辺の砂漠に喪われた友と、友の愛鷲あいじゅを見た。蒼空にはグリフィンがひしめき、デザートワイバーンを引き回していた。


 バイザーに雨滴が強く弾け、サンゴは覚醒した。嵐は続き、薄紫色の闇はいっそう深まっていた。サンゴは禿頭に指を滑らせ、生温い雨水を払った。

 今、空は広い。


(おれは楽土に行きたかったのか? 友と、友の愛したグリフィンのいるところに)


 サンゴは口に出さず自問し、答えは、声にする。


「おれたちは自分の死を飾るため漁に出たわけではない。そうだろう、ベルカ?」


 ベルカの首筋に、サンゴは掌を当てた。羽毛に隠れた薄い皮膚の奥に張り巡らされた血管が、鼓動に合わせて力強く震えていた。


「おれたちにとってはこれが仕事だからだ。クアーツもメイもそのことは分かってくれている」


 鷲の嘴を、ベルカは短く繰り返し噛み合わせて鳴らした。サンゴはベルカの視線を追い、小さくうなずくと、あぶみに爪先を深くねじ入れ、ますます身を低くしてベルカに密着した。


「そうだ、ベルカ。おれたちは、飛んでいる。だから、おれたちなんだ」


 老いの必然として患った白内障に濁る四つの古ぼけた瞳が、砂漠の金と嵐の紫を分かつ鋭い直線の上に、蒼く煌めく魔力スペクトルを捉えたのだ。


 鳥型の魔物は、全長の二倍ほどある翼幅を有していた。

 両の風切り羽根に魔力の炎を点し、最短距離を突き進んでいた。

 即ち、デザートワイバーンへの最短距離を。


 ルフの個体群であった。


 サンゴは目を閉じ、鷲獅子の体を駆け巡る血の音に耳を澄ませた。


(おれたちには分かっている。ベルカの心臓が百八十回、音を鳴らしたら始まりだ)


 鼓動に耳を澄ませながらサンゴは思う。ルフの本当の美しさを知っているのはおれたちグリフィンライダーだけだ。うぐいす色と黒がまだらになった“石の羽”は表面だけのことで、大きく広げた翼の下に隠された、光の加減で何色にも光る羽毛や、嵐をまっすぐに切り裂く魔力の炎、知性に満ちた色彩の瞳を、誰も知らない。


 ベルカの心臓が五十回拍動した。


「ルフ、おれたちはおまえのことを愛している。美しいと思い、尊敬している」


 サンゴは口に出した。

 ベルカの心臓が百回拍動した。


「だが、おまえたちの子を、おれたちは殺す」


 ベルカの心臓が百八十回拍動し、サンゴは目を開け、踵でベルカの腹を蹴った。鷲獅子は大きく背を逸らして前脚で幾度か空を引っ搔くと、尾翼に魔力炎を点して一気に数十メートル上昇した。

 同時にサンゴは、疑似餌をロープから切り離した。ルーストリア海岸松の疑似餌は四方から吹き寄せる風を浴び、悶えるように回転しながら遥か後方へと吹っ飛んでいった。統率者を失ったデザートワイバーンの群れが、哀れっぽいブーミングで疑似餌めがけて訴えかけた。三角編隊が崩壊し、知性なき魔物たちは、砂利に置いた薄紙に引いた線のような軌道でばらばらに飛びはじめた。

 そこに、ルフが来た。


 尾を進行方向に向け、風切り羽根から目いっぱい魔力炎を噴き出して減速したルフは、デザートワイバーンの背中に飛び乗ると、鍵爪でその堅牢な皮膚を引き裂いた。傷は骨に到るほど深いものだ。

 ルフはもがく亜竜の首筋を嘴で抑え込み、足を曲げ、腰を落とした。傷口に総排泄腔そうはいせつくうを押し当て、産卵しているのだ。こうなれば、ルフとご馳走の世界の間を隔てるのは、一枚の薄い殻だけであった。


 産卵を終えたルフはデザートワイバーンを蹴りつけて強く羽ばたき、速やかに飛び去って行った。亜竜は頭を下に落ちながら、翼を大きく広げた。しばらくは右に左に大きく傾いでいた巨体は、やがて安定し、ゆるやかな角度で降下しはじめた。


「ベルカ、吠えないのか?」


 老いた一人と一頭が叫声きょうせいを纏って垂直軌道で降り注ぎ、デザートワイバーンの翼の付け根にグリフィンの強靭な爪が鋭く食い込んだ。


 今こそ、死の扉の三枚目が一羽と一人の前にあった。


 亜竜は甲高い喚き声を上げ、ベルカを噛み殺さんと首を捻った。しかし老獪なグリフォンは魔物の関節がどのように稼働するかを十分に知り抜いた上で攻撃を仕掛けていたのだ。デザートワイバーンの牙は、ベルカに決して届かなかった。


 サンゴは右足を鐙から抜くとベルカの体をまたいだ。鐙に残した左足を頼りに逆さづりの恰好になると、ワイバーンの傷口に右腕を突っ込んだ。ワイバーンは口の端に溜まったあぶくを吹きながら絶叫し、両脚をばたつかせた。

 ベルカは爪をなお強く更に深く突き立て、めいっぱい羽ばたいて重量を支えた。それでも、一頭と一羽と一人の高度はぐんぐん下がっていった。


 サンゴは鼻からの吸気に温度と湿度と臭気を捉えた。遥か下方で連なって進むサンドワームのものだ。これらの官能は、グリフィンライダーにとって深度を示す指標であった。深く潜れば潜るほど、熱も臭いも強くなる。それらがある閾値を越えた瞬間、彼らは容赦ない圧力に潰され、三つの平等な肉塊と化すのだ。

 砂岩のような亜竜の皮膚はぎざついた切り口になっており、擦れただけでサンゴの皮膚は掻き取られた。血はぬるく、肉は張り詰めていた。サンゴは逆さ吊りのまま腕を動かし、指先に、つるりとした感覚をおぼえた。

 指先で何度も引っ掻いて、引き寄せる。一指が二指に、二指が三指になって、やがて卵が手のひらの中に納まった。潰さぬように柔く握り、腕を引き抜く。

 絡みついた血肉を拭き取ると、めのうに似た複雑な縞模様を持つ、ルフの卵であった。あたたかく、柔らかい。この卵殻は、繰り返し魔力をふくめることで輝きや透明性、展延性を帯びるのだ。


 熱にも臭気にも、まだ生存を許す優しさがあった。死の扉の三枚目をも、老練の漁師は突破したのだ。

 

 サンゴは腹筋に力を込めて上半身を折り曲げ、鞍に手をかけると、振り分け鞄に卵を放り込んだ。深く息をつき、金属化したようにこわばった筋肉をひとつひとつ点検するように動かし、鞍上に戻ろうとした。

 ベルカが、鳴いた。

 不意に心臓が停まったかのような、悲鳴であった。

 右に左に、上に下に、サンゴは大きく振り回された。視界を横切る雨が垂直の、水平の、あるいは放物線の軌道を描いた。遠心力が頭部めがけて容赦なく血を集め、鼻の頭に、頬に、耳に、破裂しそうな感覚があった。

 渦に巻かれる木切れか何かのように揺さぶられながら、何が起きているのか、サンゴは察した。ベルカはおととしの冬に脱臼して以来、左脚が思うように動かせなくなっていた。老いの痼疾こしつは今このときを狙い澄ましたかのように襲いかかり、ベルカの支配下から脱したデザートワイバーンが暴れ出したのだ。


 三つの塊はもつれ合ったまま急激に高度を落としていった。熱が、臭気が、湿度が、凄まじい速度で耐え難いものになっていった。湯気と煙と砂埃が入り混じり、深い霧の中にあるようで視界の全ては薄紫の闇であった。地鳴りが豪雨と暴風を貫いて熱い大気を揺らしていた。飛散する溶けた砂の礫が、サンゴの肌に突き刺さって煙を上げた。

 灼け付く煙霧の中から、丸く切り取られたような闇がぬうっと姿を現した。体が半回転し、煙る視界の向こう側に、返しの付いた巨大な銛らしき影が浮かんだ。サンゴは今や、連結せんとするサンドワームの間に放り込まれているのだ。

 地の底にあって三つの体は浮上を許されず、ただ、死の定めだけが鼻先にぶら下がっていた。


跳合硝子ハワイガラス!」


 鈴の音が、凛として鳴った。

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