ベルカ、吠えないのか?④
一方で、サンゴを追って第七層に踏み込んだハガネとメイである。彼らは小さな丸テーブルを挟んで椅子に腰かけていた。テーブルの上には、かさご屋の女主人オステリアが持たせた軽食の類を並べている。
「マーベラス! もっと近くで見たい! この集団移動にはなんの目的があるんだ? ああ、標本にしたい! 累代飼育してみたい! ゲノム解析もだ!」
思いついた欲求をすべて口走り、今にも椅子を蹴立てて犬のように飛び出そうとするハガネ。
「だ、だめ! ハガネくんでも、死んじゃう、かも!」
椅子にしっかりしがみつきながら、ハガネを制そうと叫ぶメイ。
彼らは、死の行進を前方から見下ろす高所に位置していた。二人とも足場無き空中に在って、単に大地が見えなくなっただけのように振る舞っていた。
これこそ、史上有数の魔法使いたるハガネによる浮遊の秘術であり、今回はそこに一捻りを加えていた。死の行進における先頭個体との相対位置を保ち続けるよう、魔法に一筆書き添えたのである。故に二人は、中空を高速で移動しながらも、テーブルを囲んで軽食を摂っている。
「サンゴおじさん、だ、だいじょうぶ、かな」
「今のところは問題ないようだ。グリフィンの上でうたた寝している。グリフィンも……マーベラス! 左目だけ閉じているぞ! 半球睡眠か?」
ハガネは再び興奮し、椅子を激しく揺らした。
「み、見える、の?」
「視力を魔法で一時的に強化したんだ。メイもやるか?」
頷くと、ハガネは人差し指でメイの眉間を二度突いた。
「あ……サンゴおじさん、かも」
「漁のプロトコルに沿って、デザートワイバーンを味方につけたようだな。さて」
ハガネは空中に生じた虚無に手を突っ込んで、寝具を引っ張り出した。見よ! 無数の凹凸を持つマットレスのタグには燦然たる『AIR』の文字列! 東京西川が誇る高反発マットレスの寝心地、察するに余りある! 舌を巻くべき加齢に伴う避け得ぬ身体不調への気遣い! 吉良ハガネ、三十台を迎えた自らの身体能力に対して些かの油断も無し!
「しばらくは停滞するはずだ。交代で仮眠を取ろう。何かあったら起こしてくれ」
「え、あ、うん」
ネクタイを緩めて横になると、ハガネはたちまち寝息を立てはじめた。舌を巻くべき入眠速度! 動物の生態に合わせざるを得ないフィールドワーカーにとっては必須の資質である!
そしてハガネの予言通り、ここからが長かった。
デザートワイバーンを従えたサンゴとベルカは、丸一日飛び続けた。無辺の砂漠に熱の瘢痕を刻みながら進行するサンドワームは、その速度を決して緩めなかった。前方を逃げる魔物の数もまた、増え続けた。
十分刻みの眠りと長時間の覚醒を繰り返しながら、サンゴとベルカは飛び続けた。ひっきりなしの雨に打たれ、立ち昇る熱い空気に押されながら、高度を堅守した。
「なあ、ベルカ。おれたちにも、小さな獲物が必要な頃合いだろう」
鞄から取り出したのは、一枚の木片である。太い幹糸に幾つかの枝糸をくくって、その先端に鉤針を付けた仕掛けが巻き付けてある。絡まないように仕掛けを解いていき、鉤針の一つ一つに塩漬けの魚の短冊をかけていく。
出し終えた仕掛けは、風にはためいて小さな動物を誘った。仕掛けの終端には錆びた鉄環が結んであって、サンゴはこれをしっかりと握った。これは小物獲り用の延縄であった。
食い気を出した獲物がさっそく針にかかった。幹糸を通して、鉄環まで震えが伝わった。サンゴは後方に目をやった。一羽の、なにか鳥のようなものが気流に弄ばれながらもがいている。しばらく待って追い食いをさせると、似たような鳥がつごう三羽も針に食らいついた。
サンゴは、仕掛けを木板に巻きつけながら手繰っていった。やがて一羽が眼前に現れた。スズメの類である。暴れまわったせいで幹糸が頸に巻きつき、既に絶命していた。サンゴはそっと糸を外し、鳥を鞄に放り込んだ。
「そら、ベルカ」
仕掛けを回収しおえたサンゴは、二匹をベルカの口元に持っていった。ベルカはサンゴの手首をくちばしで四度噛んだあと、ようやく鳥を探り当てて呑んだ。
「うまいか。血と内臓だ。体を熱くさせて、動く力をくれるものだ」
残った一匹の首を捻ってちぎり、溢れた血をサンゴは呑んだ。ぬるさと塩っぽさと錆び臭さが、サンゴの体をめぐる。サンゴは頭も体もひとまとめに口に放り込んで、咀嚼した。濡れた羽毛のひなびた匂いがした。
「おまえとおれは、同じものを食う。分かるか。そうしておまえとおれは、一つのものに近づくんだ。ベルカ」
ベルカは応じるように翼を打った。
ルフ漁の死の扉の、これは二枚目であった。デザートワイバーンを従えた後は、ルフの到来を待つ他ない。いつまで経っても現れぬルフを待ち続け、気力を使い果たして墜死したグリフィンライダーは数知れない。彼らは決して引き下がることを知らなかった。死の行進はいつ起こるとも知れぬもので、その間隔も不定である。ルフ卵殻の相場が大高騰していたひところでは、命知らずの一匹と一人の死体が砂漠に散乱したものだった。
短く眠り、延縄で獲物を捕らえ、飛び続け、四日目の朝を迎えたころである。
「マーベラス! マーベラス! マーベラス!」
奇怪な叫び声を耳にしたサンゴは、視線を下に向けた。そして、弟の孫が懇意にしている冒険者が、死の行進めがけてまっすぐ落下していくのを目にした。
サンゴはそれを眠気の呼んだ幻覚と断じ、禿頭をぴしゃりと叩いた。
無論それは、幻覚などではない。調査対象にできる限り接近したいというフィールドワーカーとしての健全な欲求を抑えきれなくなったハガネが、サンドワームの群れの中に自ら飛び込んでいったのである。
ハガネは牛革のスクウェアトゥの爪先をサンドワームの表面に置いた。灰と黒がまだらになった表皮はざらついており、後ろに向かって流れる強い短毛で覆われている。砂中で滑らかに移動するためのものであろう。
「サンドワームは地中に適応しているようだな。では、この行動にどんな意味があるんだ?」
大きく持ち上がり、叩きつけるように激しく落下する移動の最中である。しかしハガネの体は揺らがない。舌を巻くべき体幹の強度! これこそがフィールドワーカーに求められる資質である!
ハガネは、サンドワームの進行方向を目指して歩きはじめた。数キロに及ぶ体である。一時間も歩き詰めただろうか、ようよう先端の辺りまで来たところで、足裏に伝わる感触の変化があった。下を向けば表皮の有様が変化している。茘枝のような乳白色をしており、無毛で、靴が半ば沈み込むほど柔らかい。
さっそくしゃがみこんで、調べてみる。毛で覆われてごつごつした皮膚との継ぎ目に手を突っ込み、開いた。柔らかい部分とは、半透明の膜状組織で結びついている。一部を掻き取ろうと試みた指先が、強く押し返された。
「マーベラス……いや、オーサムと言うべき靭性だ。非常に興味深い」
ハガネは厳かに呟いた。体躯の先端のみが、なぜ柔らかくなっているのか? 検討し甲斐のある課題だ。立ち上がり、更に歩を進める。その先には開口部があった。ハガネは危険を顧みず、知的好奇心の赴くままに突き進んでいった。
サンドワームの体の前面には、どことも知れぬ目的地めがけてぽっかりと開いた巨大な穴がある。かつてこの深淵を覗きこもうとした者などいないだろう。そんなことをすれば、一瞬にして呑み込まれ命を散らすだけである。しかしハガネは躊躇しなかった。迷わずに突き進み、乳白色のオーバーハングに手をひっかけてぶら下がった。底知れぬ闇の奥には、真珠色のきらめき――
その時である!
不意に前方のサンドワームが速度を緩めた。二つの巨体が見る見る内に接近する! ハガネが見たものは、前方サンドワームの突端に生じた槍状器官! さながら全長数キロの鯨を打つため鍛えられた銛! 石灰質の白濁した外観が暗緑色の粘液できらめく、凝縮された悪意の形象!
しがみついたサンドワームの開口部と迫り来るサンドワームの槍状器官をハガネは交互に見た。そして電撃的な閃きに全身を打たれた。
「ま、ままままま……」
ハガネは両手の拳を強く握りしめた。そんなことをすれば、どうなるか。当然、その身体を自由落下に任せることとなる。
「マーベ」
全てを言い終えぬうち、ハガネの体は槍状器官に突かれ、開口部へと呑み込まれていった。
そのやや上空にはサンゴがいて、ベルカと共に僅かな眠りを味わっていた。
そのやや上空にはメイがいて、高反発マットレスの眠り心地に感動していた。
誰にも気づかれぬまま、ハガネは闇に消えた。




