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粘菌術師吉良ハガネのダンジョン博物誌  作者: 6k7g/中野在太
第七話 ベルカ、吠えないのか?
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ベルカ、吠えないのか?③

 ベルカが背負う革製の鞍は、あちこちに亀裂が入り、体重をかけ続けた場所がすり減っている。胴の左右に振り分けた鞄も同様にくたびれて、めくれあがろうとする革を錆びた鋲が辛うじて抑えつけていた。

 鞍の側部から突き出すフックに水の詰まった革袋をひっかけると、ベルカは重さによろめいた。サンゴはベルカの首筋を抱き、支えてやった。


「そうだな。そんなに多くは要らない。おれたちはすぐに獲物を捕らえるのだから」


 革袋を外して、中身を半分ほど撒いた。水を吸った砂が黄土色に湿って、泡を食った小昆虫がわらわらと飛び出した。


「さあ、これでよし。行くぞ、ベルカ」


 サンゴは壊れかけた鞍にまたがり、鐙に爪先を入れた。


 第七層。無限に広がる砂原を、ベルカが駆け出す。

 獅子の四脚で砂を蹴立て加速し、翼をはためかせて飛び上がる。大きく広げた翼で気流を捉え、一気に上昇する。大気に押しつけられるような感覚を、サンゴは快く思う。


「先は長いぞ、ベルカ。まずは飛び続けなくてはな」


 風に負けぬよう声を張り上げ、ベルカの首を叩く。答えるように、ベルカは翼を打ち振るう。

 

 サンゴは体を寝かせ、グリフィンにぴったり寄り添うような格好になった。鞍上あんじょうのグリフィンライダーが取るべき基本姿勢である。

 この姿勢でいると、ベルカの体温と臭いがはっきりと分かる。翼を打つ度に皮膚下で無数の筋肉が連動しているのを、裸の肌で直接感じられる。


(クアーツはどうしてもこれができなくて、叱られていたものだ。グリフィンと触れ合うのが恐ろしかったのだ。だが、それはまっとうな感覚だ。魔物と一体になるのを厭わぬ者しか、グリフィンライダーにはなれない)


 サンゴは古い時代を思い出し、感傷的になっている自分を発見した。一人と一頭は、十分に老いた。ルフ卵殻の唯一の買い手は、病に伏せって明日をも知らぬ命だ。


「さあ、飛べ、飛べ。ベルカ、おまえはこれまで、たらふく喰ったろう? 味も臭いも、覚えているはずだろう? サンドワームの、おまえの獲物の臭いを追って、飛べ」


 ベルカは鋭い鳴き声を上げた。白内障に濁った瞳で、地上を見た。否、その眼差しには、睥睨という言葉がふさわしかろう。グリフィンこそは砂原の王であるのだから。


 砂混じりの風は鋭く乾き、ベルカの肌を打った。サンゴはバイザーを下げた。ルフ卵殻を骨のリムで接いだものだ。瞳を沸騰させんばかりの陽光と熱風とを、よく遮ってくれる。

 地平線では空の青と砂漠の金がきっぱりと画されている。ベルカは翼に風を孕み、金と青を分かつ一筋の黒い線めがけて奔った。


「少し食うか、ベルカ。メイが持たせてくれた。おまえ好みの味付けだ」


 鞄に手を入れたサンゴは、紙の包みのひもをほどいた。青魚を挟んだ堅いパンが手に残り、ひもと包みは後方に吹き流されていった。

 サンゴは手を伸ばし、パンをベルカの口元に持っていった。ベルカは何度かサンゴの手首を噛んだ後、くちばしの先でパンを捉えて一飲みにした。


 地平線が煙った。


 サンゴの心臓が音高く鳴った。かすかな大気の歪みを、老いた彼の目はそれでも見分けた。


「ベルカ、吠えないのか?」


 それは、二つの体を鼓舞する言葉であった。触媒に魔力をふくませるように、サンゴは漁がはじまる度、危殆に陥る度、繰り返し、この言葉で自分とベルカを駆動させた。

 老いの必然として患った白内障に濁った瞳で地平線を睨み、ベルカは吠えた。サンゴはうなずき、ベルカの首筋に手を当てた。熱い血が、巡っている。


「はじまるぞ、ベルカ。おれたちの、最後の仕事だ」


 サンゴは左の鐙に体重をかけた。ベルカは鋭く旋回し、くちばしの先端が空気のかすみを指した。


 死の行進が地平線を食い破り、砂塵を巻き起こしながら突き進んでいく有様をサンゴは捉えた。蝟集したサンドワームは数百にも及び、それぞれが全長数キロほどもある。砂に潜んでばかりのサンドワームが、このときばかりは地上をのたうつ。

 サンドワームの歩行は尺取り虫に似る。体を棒のように伸ばし、口の真下にある爪を砂に突き立てる。胴を前腕まで引き寄せ、肛門の真下にある爪を地面に突き立てる。再び体を棒のように伸ばす。その繰り返しである。

 サンドワームは、五体ほどが貨車のように連結したぐんを幾つも作っていた。先頭から順序良く、波のように前進している。

 巨体が地面を打つ度、砂と大気は蹴散らされた。速度と衝撃が熱を産み、サンドワームの通過痕は赤熱した硝子となる。熱と煙の尾を引いて、サンドワームの群れは第七層を横切るのであった。


 行進の前方には、また別の集団があった。第七層のありとあらゆる生物が、死にもの狂いでサンドワームから逃げ回っている。地には這いずる大昆虫や小型の長虫ワーム砂漠大猫デザートキャット、宙にはワイバーンや不定形の魔物。サンドワームは彼らを呑み、轢き潰す。


 行進のやや後方に達したベルカは、小さな径を描きながら旋回下降した。高度が下がるにつれ、空気は湿っぽく、暑くなる。熱された大気が立ち上っているのだ。

 搔き乱された気流が老いたグリフィンの衰えた肢体をぐらつかせた。サンゴはより深くベルカと密着した。こわばった筋肉から、ベルカの怯えが伝わった。

 サンゴは手を伸ばし、ベルカの首筋を掻いた。ベルカは甘えるように鳴いた。


「なにを恐れることがある。おまえはグリフィンで、おれはグリフィンライダーだ。この迷宮で、おれたちはもっとも強い。さあ、降れ」


 掛け声に応じて、ベルカは翼を畳んだ。前肢を体にぴったりくっつけ、後肢をまっすぐ伸ばし、くちばしを地上に向け、曲射された矢のように気流を切り裂き鋭く墜ちた。

 沸騰する地表のすれすれで、ベルカは翼を大きく広げた。地面から湧き上がる熱い風が、ふたつの肉体を上空に押しやる。


「そこだ。そうだ、ベルカ。保て。この高さだ。ここを、おれたちの地面としろ」


 サンドワームの大移動が砂漠に雲をもたらし、空が翳った。

 バイザーに、水滴が跳ねた。膨れ上がった雲が雨に化けたのだ。冷たい風と熱い風がでたらめな方向から吹き付けた。ベルカは絶え間なく変化する空気の流れを捉えようと、体を小刻みに揺らした。


「ベルカ、行くぞ。負けるな」


 やがて二つの体はサンドワーム群の直上に達し、サンゴは鞍に結び付けていた荷物を解き放った。親指ほどの太さの紐が、引っ張られるように後ろに流れる。風の抵抗を受けて、紐の先端の疑似餌が揺れた。

 ルーストリア海岸松カイガンショウの芯材にデザートワイバーンの革をかぶせ、鋲を打って止めたものだ。そしてデザートワイバーンこそ、ルフが卵を産み付ける生物であった。

 デザートワイバーンは、その学名をlepidopterus vastitasestrisとする。鱗の翼を持ち、砂漠に棲むものといった意味だろうか。この学名によって諸兄がお気づきの通り、ワイバーン(wyvernis属)とデザートワイバーン(lepidopterus属)は全くの別種である。よって、デザートワイバーンは亜竜と俗称される。

 全長は尾を含めて十メートルほど。雑食性で気性は荒い。その点は似通っている。デザートワイバーンとワイバーンと画すのはまず第一に、魔法使用の有無だ。デザートワイバーンを含むlepidopterus属はまったく魔法を使えない。魔力を寄せ集めて投げつけることすらできぬのだ。


 雨が激しく打ち付けるバイザー越しの視界に、サンゴは五頭からなるデザートワイバーンの小集団を見つけた。知性無き魔物の群れは、V字の編隊を取り、気流に煽られながらよたよたと飛んでいた。

 サンゴは鐙でベルカの脇腹をそっと蹴りつけた。ベルカはサンゴの意図を察し、短く鳴いた。尾翼に魔力の青い炎が点り、ベルカの肉体は急加速する。サンゴは振り落とされないよう、更に深くベルカに密着した。


(おれは、忘れろ。肉体からだがふたつであることを。おまえとおれは、ひとつだ。そうだろう、ベルカ)


 薄暗がりに青い航跡を曳きながら、ベルカは亜竜の小集団に突っ込んだ。死の行進から離れようと必死で羽ばたく魔物は、隊列を搔き乱すグリフィンの出現に泡を食って鳴き喚いた。

 一匹のデザートワイバーンが、体を斜めに傾けてベルカに寄った。琥珀色の知性無き瞳は、サンゴとベルカを彼ら特有の二分法のどちらかに振り分けようとしている。すなわち、獲物であるか、天敵であるかを。

 この瞬間、まさにこの瞬間こそが、この先に幾つも立ち塞がる死の扉の一枚目であった。デザートワイバーンは後肢によく発達した鉤爪を、ベルカあるいはサンゴの柔らかい肉に突き立てるかもしれない。あるいは乱雑に並んだ牙を。

 ベルカはワイバーンを振り切るように加速した。紐にくくられた疑似餌が群れの先頭で揺れた。

 でたらめな風が、ワイバーンの鳴き交わす声をサンゴの耳まで途切れ途切れに運んだ。強い指向性と不快な甲高さの喚き声は、やがてぶうんという唸りのような低音に変わっていった。低音は鼓動のように周期的に繰り返された。


 この低音こそ、ワイバーンとデザートワイバーンを画す第二の特徴、ブーミングであった。胸部の気嚢を膨らませて放たれる無指向の音波は、いわば敵味方を識別するための信号だ。ワイバーンは、群れの先頭にはためく疑似餌に対して呼び掛けている。


 サンゴは振り分け鞄から角笛を取り出し、息を吹き込んだ。角笛はワイバーンの鳴き声そっくりの低音を響かせ、バイザーに落ちかかった雨粒を震えさせた。何度か繰り返すと、サンゴの顔はたちまち真っ赤になった。

 今よりも若い頃は、一晩中でも角笛を吹いていられた。サンドワームから逃げまどうワイバーンを、根こそぎ連れ回すことができた。あの栄光の日々、グリフィンライダーにとって、引き従えるワイバーンの数はそのまま実力の指標だった。多くのワイバーンには、多くのルフ。多くのルフには、多くの富。世界は単純で、美しかった。


 今のサンゴには五頭の小集団を率いるのが精一杯だった。だが、それでいいとサンゴは考える。


(おれたちは忍耐を学んだ。一晩でも二晩でも、待つことができる。おれの若い頃、年老いたグリフィンライダーが小さな群れを引き回すのを見て、おれたちはおおいに哂ったものだ。だがもう、おれたちを哂う若い連中はいない)


 サンゴは後方に視線を送った。ワイバーンは疑似餌を仲間だと認識したようだった。V字を崩し、疑似餌を先頭に二体、三体が並ぶ三角編隊を作っている。そこで角笛を吹きやめ、鞄に戻すと、サンゴはベルカの背に体重を預けた。

 荒い息をする。吸気の度にベルカの臭いを感じる。いっそう熱く、いっそう激しく動くベルカの筋肉がサンゴの体をかすかに上下させる。


 死の扉の一枚目を、一人と一匹は通り抜けたのだ。漁は続く。サンゴは目を閉じ、僅かに眠った。

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