ベルカ、吠えないのか?①
刳岩宮広しと言えども、第七層ほど冒険者に顧みられぬ空間はなかろう。
そこには陽光照りつける無可有の砂原が広がっている。高さは無際限で、広さも無際限である。最果ては誰も知らぬ。
両端が繋がっているのだとか、乳と蜜の流れる楽土が秘されているのだとか語る者もいるが、与太話であり、まともに受け取るべきではない。
付言すれば、第七層では階層をつなぐ階段が隣に並んでいる。一秒もあれば通り過ぎることが可能だ。
この第七層にこそ命を賭ける者がいることを、君は知ることになるだろう。
老いた無力な男と、同じぐらい老いた無力なグリフィンが、今、生を賭して『死の行進』に挑む。
紐解こう。老人と迷宮の物語を。
第七話 ベルカ、吠えないのか?
入り江に寄り添うあばら屋であった。
元は網小屋だったところを最低限の改修だけほどこし、最低限の家具を詰めた家である。
そこには一人の老人と一羽のグリフィンが住んでいる。
老人は食肉目系統の広義人類、つまり獣人である。
はげ上がった頭には、同じくはげ上がった猫の耳。
あらゆる筋肉が衰えており、それは顔面にも同じ事が言えた。目頭からは、死貝の斧足にも似て弛んだ瞬膜がはみ出している。
しかしながら、赤銅色に日焼けした裸の上半身には、数々の傷が刻まれている。ある傷は盛り上がり、ある傷はえぐれ、血が噴き出しそうなほどに生々しい。彼の肉体と傷は彼の歴史を記憶しており、それらは決して風化しない。
老いたる獣人は、仕事道具を黙々と手入れしている。
あばら屋には午後の陽光がきれぎれに差し込み、無数の小さな陽だまりを作っている。
「さ、サンゴおじさん、ほんとうに行くの?」
あばら屋の入り口に立っているのは、老人と同じく食肉目系統の広義人類である。こちらは若い女性で、ねこみみ付きフードをかぶっており、首には銅硝子のチョーカーを下げている。
冒険者クラン“銅鉄一家”のパーティメンバー、“玻璃”のメイであった。
「おれの最後の仕事になるだろうな。こいつにとっても」
老人――サンゴは、この家にあるただ一つの家具であるベッドの方を、顎でしゃくって示した。
「ベルちゃん……」
粗末なベッドを占拠して、一羽のグリフィンが体を丸め眠っている。メイが呼んだのは、その鷲獅子の名であった。
グリフィンは鷲の顔と翼に獅子の体を持つ、驚異的な魔物である。群れでの生活を好み、賢くも温厚であるため、共和国時代のティルトワースではそれなりの頭数が飼育されていた。
今、ティルトワースで飼育されているグリフィンはこの一羽のみである。
「そうだろう、ベルカ。最後の仕事だ」
サンゴは手を伸ばし、グリフィンの背中を撫でた。老いた鷲獅子の毛並みはぱさついており、元は新雪の純白であったろう体色も、くすんだ黄土色となっている。
撫でられたベルカは片目を開けた。瞳は老いの必然として患った白内障で白く濁っている。が、それはサンゴも同じだ。
大あくびしたベルカは身を起こした。前肢を突き出して背中を反らし、のびをした。お座りの姿勢になって、後ろ肢で耳の後ろをかこうとした。だが、後ろ肢はむなしく宙を掻くばかり。おととしの冬に脱臼して以来、左脚が思うように動かせなくなったのだ。
サンゴはベルカの耳の後ろを掻いてやった。ベルカは心地よさそうに唸り、サンゴの手をくちばしで甘噛みした。
甘えてくるベルカの頭を抱き込むようにして、目やにを取る。そうするとベルカはいっそう唸り声をあげ、サンゴの裸の胸に頭をこすりつけるのであった。
「で、でも、サンゴおじさん……」
「そうだろうな。おれもベルカも死ぬかもしれない。そうでなくとも、何も獲れないかもしれないな」
メイの言葉を、サンゴは先回りしてみせた。
「だが、これがおれの仕事だ。割が良いとは言えんが、おれはそれしか知らない。クアーツのように、ガラスを吹くことはできんのだ」
クアーツはメイの祖父で、ティルトワースにおけるガラス産業を上流から下流まで一手に担う資産家である。
一代で莫大な財を成した大富豪であり、なおかつ生粋のティルトワース人でもある。可愛い孫娘が、すかんぴんの冒険者と肩を並べて迷宮にアタックすることを許しているのだ。酔狂と自由を好む、これこそティルトワース気質である。
そしてサンゴは、クアーツの年の離れた兄だ。
「お、おじいちゃんがね、サンゴおじさんも、うちに来ないかって」
「おれはこういう生活を選んだ。いつの間にかこうなっただけかもしれないが、選んだつもりだ。弟には、ありがとうと言っておいてくれ」
「……うん」
「おまえは優しいな、メイ。だが、おれは漁師なんだ」
然り。サンゴは漁師である。それも、刳岩宮第七層専門の。
「わ、わかったよ、サンゴおじさん。行くんだね」
「行くのさ」
「なにか、ひ、必要なものはある?」
「ベルカに肉を食わせてやりたいな。だが、それぐらいの金なら持っている。後で市場に行ってくるつもりだ」
「そっか……それじゃあ、またね。ベルちゃんも」
メイはベルカに手を振り、去っていった。
「おれとおまえの最後の仕事なんだ」
サンゴは、うとうとしはじめたベルカの背中を、愛情を込めて小突いた。
「ベルカ、吠えないのか?」
ベルカは目を閉じたまま吠えた。




