『友好的』な魔物⑥
オルダンの引っ越しを手伝っている内に、夜になってしまったと、遅刻の原因はそういうことだった。
「なんかさあ。びっくりするぐらい私物が少なくてさ……哀しい気持ちになっちゃったよ、俺」
「興味深いな」
しみじみと語りを終えれば、さっそくハガネが、世迷い言の気配を漂わせた。
「なにがだ? ヒターリアか? めっちゃ可愛いぞヒターリア。幸せになってほしいよなあ」
「それも実に興味深い。君は気づいていないのか。その話を聞く限り、ヒターリアの好きな相手はもごっ」
ハガネの口を覆ったのは、メイである。
「急にどうした、メイ。僕の発言に問題があるなら言ってほしい」
「えっ、べ、べつに……ね、なんでもないよね、ティレットちゃん!」
「愚問」
腕を組んだティレットが、重々しく頷いた。ディランは善人だが、血の巡りの悪い男である。とくに、自分の利益になりそうなことに関しては。
「そうか、なんでもないなら構わない。バンシーの生態について、ひとつ仮説を立ててみた。ディラン、悪いがハイリエの排泄物を回収してくれないか」
ハガネの言葉が腑に落ちるまで、しばらくディランは停止していた。
やがて脳裏によぎるのは、ハガネに付き合ったせいで起きた、排泄物がらみのろくでもない探求行である。それも、一つや二つではないのだ。
「またうんこかよオマエ!」
怒鳴ってみせたが、ハガネの表情は真剣そのものだ。
「非常に重要なことだ。予断を許さず事に当たりたい。君もハイリエのことが大事なんだろう」
そんな風に言われてしまえば、お人好しのディランである。ただちに怒りは鎮火して、まっすぐにハガネを見つめるのであった。
「……それ、ハイリエのために言ってるんだよな?」
「率直に言えば、知的好奇心も大きい。だが、君が困ったり悲しんだりするのはとても辛いんだ。協力してくれないか、ディラン」
嘘をついたり、甘言を弄したりなどと、決してしないのがハガネである。だからこそディランは、ハガネを信用しているのだ。
そしてハガネの言葉に、思い当たる節があるのも、本当であった。
「分かった。排泄物だな。それって口から出たものでもいいのか?」
「もちろんだ」
「実はハイリエがさ、一度もまともにものを食べてないんだ。なにを食べるのか分かったら、俺に教えてくれ。どんなに高くても買うし、どんなに大変でも手に入れてみせるから」
「そのための研究助成費だ。足りなくなったら言ってほしい」
こうして銅鉄一家は、サブクエスト『バンシーの生態調査』に乗り出したのである。
「ひゃあああああ!」
「え、ええと、『肩たたき』、『すり抜け』、『実体化』、『群衆化』……これは、必ず起きてる、かも」
「たすけて……メイ、たすけ……あああああっ!」
「は、ハガネくんに報告しなきゃ!」
「ああああああっ!」
悲鳴をあげて腰を抜かすティレット、その様子を観察するメイ。
「吐瀉物を調査してみたが、バンシーの唾液には消化酵素が含まれていないようだな。試料にはコムギとソバとコメを使ったが、澱粉が糖化されていないように思える」
「なんだそれ? つまりどういうことなんだ? 俺に分かるように言ってくれよ」
「炊いたコメを噛んでいると甘くなるだろう? それは、唾液がコメを甘くしているんだ。しかし、バンシーの吐き戻したコメからは甘みを感じない」
「それ、どうやって分かったんだ?」
「官能検査だ」
「オイオイオイオイ! だから、分かるように言ってくれって!」
「分かるように言えば、ハイリエの吐瀉物を食べたんだ」
横で聞いていたティレットが、えづいて口を覆い、テラス席から身を乗り出す。
「結婚しろ!」
「しないわよ!」
「まあまあまあまあ」
「うるさいわよ、うすらでっかち!」
「口出しするな、うすのろが!」
「すみません……」
怒鳴りあうオルダンとヒターリア、その間でおろおろするディラン。
そんな日々が続いて、ここはルーストリア国教ティルトワース第三教区支部である。
ルーストリア本国様式の、高い吹き抜けを持つ木造建築。天窓から午前の陽光が差し込み、冬枯れの季節にあっても暖かい。
ヒターリアは長いすの隅に腰掛け、集まった他のひとびとと同じように、坊主の説法を半ばぼんやりと聞き流していた。
今日の客は昼食からの同伴だ。説法が終わってからも時間がある。娼婦仲間としばらくおしゃべりを楽しむのも、悪くない。
「失礼」
その程度の考えをもてあそんでいると、声をかけられた。どこかで見た覚えのある顔だ。
「あー……ディランの友達?」
冒険者の間でも時折話題にのぼる、粘菌術師である。
「吉良ハガネだ。ここ、かまわないか?」
「どうぞ」
礼を言って腰掛けたハガネの、横顔に目をやった。神経質な表情を浮かべ、広げた獣皮紙に目を落としている。ディランや他の冒険者から聞いていた印象とは、異なる雰囲気だった。近づきがたい印象だ。
「あたし、ヒターリア」
おそるおそる話しかけてみると、顔を上げたハガネの表情は柔和だ。
「君がヒターリアか。ディランから聞いている。最近では君とハイリエの話しかしないぞ」
「えっ、ほんと?」
思わぬ大声が出てしまい、ヒターリアは慌てて口をつぐんだ。坊主の説法中である。
「君に面倒をかけているのが申し訳ないそうだ。引っ越しも検討しているらしい」
「面倒なんて!」
またも大声が出てしまう。ヒターリアは頭を何度も下げ、ハガネの手をつかんだ。
「詳しく聞かせて」
教区支部の外、路地裏までハガネを引っ張りこんで、ヒターリアは仔細を余さず問いただした。
「迷惑かけてるのはアタシなのに……あいつ、そういうとこあるわよね」
オルダンとヒターリアの口げんかは、連日連夜繰り広げられている。だが、ディランはそのことを気にした様子がないのだという。
「家族ができたようで楽しいと言っていた。それはそれとして、君の負担にはなりたくないそうだ。君の好きな人のことを気にしていたぞ」
「うっ……なにそれ。粘菌術師様って、そんな皮肉も言えるわけ?」
「そんなつもりはない。好意があるならはっきり伝えるべきだとは思うが」
ヒターリアは唇をとがらせ、つま先で地面を引っ掻いた。
「僕はディランのことが好きだ。おそらく、ディランを好きになる相手とは気が合うと思う」
そう言ってから、ハガネはしばし、考え込む素振りをみせた。
「しかし、ディランを嫌う人間をまだ見たことがないから、断定はできないな」
思わずヒターリアは笑った。
「そうよね、ほんと、そう。アイツのこと嫌いな人間なんていないわよ、きっと。でも、だからアタシじゃダメなのよねえ」
おどけて、ため息をついてみせるヒターリアである。笑顔には影が差している。
「なぜだ? 君とディランであれば繁殖可能に思えるが」
真顔でそんなことを言う、ハガネであった。ヒターリアは呆気にとられた後、粘菌術師について聞き及んでいた様々な評判について、腑に落ちるのを感じた。
「生物学的な障壁は無い。君の気持ち次第だ。僕も友人として、ディランが幸せになれば嬉しい」
「……そっか」
「そうだ」
心が融けるような、粘菌術師の言葉だった。何をぐずぐずと思い悩んでいたのか、自分でも呆れてしまうほどに。
「繁殖可能、かあ」
「無論、断定はできない。実証の必要があるだろう」
ヒターリアは、ハガネがきょとんとするのにかまわず、また笑った。
「ハガネって、もっと難しい人だと思ってたわ。さっきすごいしかめっ面だったし」
「ハイリエの件で考え事をしていたんだ。君には話しておいた方がいいかもしれないな」
「……あの子が、どうかしたの?」
警戒心をあらわにする、ヒターリアだった。彼女とて、ハイリエがなにも食べていないことは気にかけているのだ。ましてバンシーなる魔物は、レイス専門戦闘坊主の獲物であるという。
「観察による仮説段階ではあるのだが――」
「ヒターリアさん! こんなところにいたのね!」
金切り声が、ハガネの言葉を遮った。
なぜなにティルトワース
ルーストリア国教教区
ルーストリア王国において、教区とは行政上の一単位を示す。各支部は教区の成員に対する徴税権を持ち、住民票を管理し、また、教区独自の財源による社会保障を担う。
国民のほぼ全員がルーストリア国教に信心を捧げている以上、これは必然と言えた。
休日になれば、ルーストリア国民は坊主の説法を聴きに教区支部までやってくる。信者に与える各種の宗教儀式も、一括して教区支部が管理している。
ティルトワース共和国を支配したルーストリア王国がまず最初に行ったのは、教区制の運用開始だった。宗教的な侵略と国民管理システム導入を狙ってのことである。
もちろん、そうした試みがティルトワースにあって根付くはずもない。
ティルトワース人は、共和国となるよりもずっと昔から、他人の信仰に横やりを入れる行いを恥知らずと断じてきた。刳岩宮を目指す冒険者たちにとって、宗教上の争いがなにか利益をもたらすことは歴史上一度もなかったからだ。
そうは言っても、今のティルトワース郡において、ルーストリア国教を信仰する者は多数派と言えた。ティルトワースにおいて教区制は、ある種の互助組織として特殊な発展を遂げている。どれほど貧しい者でも、教区支部に足を運べばパンとスープぐらいは分けてもらえる。望めば文字の読み書きや職業斡旋もしてくれるのだ。




