ゴブリン塚とプレーンズ・エルフ⑦
ティレットは再び柱に手をかけ、らせん状の突起を頼りに登攀を開始した。
その横では、ハガネが柱に対して垂直に立っている。
「あの」
「どうした、ティレット」
「それ、魔法?」
ハガネといえば、そそり立つ柱が地面であるかのように、平然と歩いているのだ。なにか言わずにはいられなかった。
「魔法だ。君は使わないのか」
「……使えない」
「ではそうしているのは、ゴブリンの気持ちを知りたいからではないのだな」
「は?」
「僕もさっきまではそうやって登っていたんだ。口に荷物を咥えて、腕だけの力で。一つ分かったのは、ゴブリンのあの短い前肢はあまり登攀に向いていない、ということだ。今のゴブリンの生態は、天敵に本来の生息場所を逐われた結果なのかもしれないな」
「それは、別にいい」
「そうか? それでは、キノボリカンガルーの話はしなくてもかまわないか?」
「愚問」
ハガネは少しさみしそうな顔をしたあと、ティレットに補助魔法をかけた。
「……すごい」
立ち上がったティレットは、身を震わせた。足裏の触れている頼りない柱が、決して揺るがぬ堅固な地盤としか思えないのだ。羽織ったマントが重力に逆らわず垂れており、むしろそのことに違和感をおぼえた。
「一気に登ってしまおう。まずは君の仕事を片付けなくてはな」
「あ、ありがとう」
「ディランが言っていたんだ。ティルトワースにあっては、人みな冒険者。僕は良い言葉だと思う。君も、なにかあったら僕に手を貸してくれ」
「うん」
心からの頷きと言葉が素直に出てきて、そんな自分にティレットは驚いた。
道すがらハガネは、ゴブリンの行動生態について、推論を交えながら多くを語った。たかだか魔物の群れにも、魔物なりの秩序があり、暮らしがあるのだ。
「あの門歯で迷宮の壁を削り取り、体内の物質と化合して建材にしているみたいだな。少し観察してみたが、建築専門の個体もいるようだ。ゴブリンアーキテクトとでも名付けようか」
「建築家……ゴブリンの」
ティレットにとっては十把一絡げにゴブリンであったが、ハガネの観察によれば、違いは明白だと言う。
「肉襞の厚さもそうだが、顕著なのは門歯がオレンジ色である点だ。迷宮の壁を削り取るために、他の個体よりもエナメル質が分厚いせいだろう」
「いろいろな、仕事がある」
ハガネはうれしそうにうなずいた。
「マーベラス! その通りだ。さまざまな個体がさまざまな役割を果たし、ゴブリン塚は成り立っている。それにしても君は理解が早いな、ティレット。僕の博物学に関する研究を手伝う気はないか?」
ティレットは一瞬、ほんの一瞬だけ、真剣に考えた。
「愚問」
だが最後にはハガネの提案を一蹴した。醜悪な魔物や虫に集られて嬉しそうにするハガネと、横で吐いている自分の姿を思い浮かべたからだ。
「君が戦ったゴブリンウォリアーは外敵排除の専門家だ。狩りやキノコの栽培は、ゴブリンワーカーが行う。これらは全て、メスの仕事だ」
「オスは」
「時宜を得た質問だな、ティレット」
柱を通すための穴を、かがんでくぐり抜けた先である。薄暗く、天井の低い広間があった。
「これがオスだ。ゴブリンキングとでも呼ぶべきか。僕もはじめて見る」
声をひそめ、厳粛な調子で、ハガネは呟いた。なにか尊いものが眼前にあるかのような、ハガネの態度であった。
一見してゴブリンワーカーと変わらない、ゴブリンキングとは、それほどに小さな個体である。それが数匹、なにかふわふわするクッションのようなものの上に、わだかまっているのである。まるでゆりかごの上の嬰児のような、ゴブリンキングの有様であった。
「マーベラス」
畏怖の念に打たれたような、ハガネの声である。
「見てくれ、ティレット。あのクッション、大蜘蛛絹糸を編んだものだ。あの繊細な凹凸……恐らく、ゴブリンキングの体圧分散を担っている。床ずれ防止のためかもしれないな」
「床ずれ」
「床ずれだ」
ティレットが思い出したのは、寝たきりの老人のことである。自力で寝返りも打てぬため、ときどき姿勢を変えてやらねば、ずっと床に接している皮膚が腐ってしまうのだ。
そう思ってよくよく観察すれば、ゴブリンキングは異形であった。ゴブリンワーカーよりも手足がずっと短く、眼も小さい。まともに動くことさえ難しいだろう。
「ゴブリンキングの役割は繁殖のみで、移動したりなにかを見たりする必要はない。だから、手足も眼も退化しているんだろう」
一匹のゴブリンキングが身をよじった。その拍子に、別のゴブリンキングがゆりかごから転がり落ちる。だが転がり落ちた個体は、なにかを気にする様子もない。
「……幸せ、なの?」
ティレットは思わず、口にしていた。ばかげた問いだとは思いながら。相手は知性など持たぬ魔物である。幸せも不幸もないだろう。
笑われるかと思ったが、ハガネは、真剣な表情でしばし考え込んでいた。
「君はゴブリンワーカーの狩りを見たか?」
ティレットはうなずいた。大猫とゴブリンの争う光景を、忘れられるはずもない。
「そうか、羨ましいな。僕はまだ見ていないんだが、数の力で押しつぶすのだろう?」
「最初の一匹も、死んだ」
「その最初の一匹になるのは、幸せなことだろうか?」
ティレットは口を閉ざし、ゴブリンキングを見つめながら考えた。
「仲間は、生き残る。自分は、死ぬ」
ひとつ頷いたハガネは、両手を大きく広げた。ゴブリンキングもティレットも、まとめて一つに括るような動きであった。
「たいていの動物は、自分一人よりも近親者数名の生存を優先する。広義人類も含めての話だ。群れを生かそうとするのは、動物に組み込まれた本能といえる。
そういう意味では、最初の一匹もゴブリンキングも、幸せなのかもしれないな。本能に従うのは気持ちの良いことだろう」
ヒトもゴブリンも、同じように語るハガネの言葉であった。ティレットが思い出すのは、郷にあって、母が獣とエルフとを同じように語った蜘蛛狩りの日。
郷で過ごした数多の記憶が、今、ティレットと共にある。
いつの間にか背を向けていた。独りで蜘蛛を射り、糸を掻いた。独りで獲物を狩り、解体した。
理由などない。いつの間にか誰かといるのが嫌いになっていた。独りでいるのが好きになっていた。
「独りで生きて、独りで朽ちる……それは、おかしなこと?」
なぜ、こんなことを聞いているのか。出会って間もない、おまけに少しばかり頭のいかれた青年に、どうしてすがろうとしているのか。
だがハガネであれば、この自分を嗤わないでいてくれるだろう。そんな確信を、ティレットはいつの間に抱いていたのである。
ハガネはしばし黙っていたが、やがて考えを整理するような早口で語りはじめた。
「群れの多様性の問題だな。ゴブリンにだって、独りで好きなことをやっている個体がいる。獲物をちょろまかして、勝手に食べている個体をさっき見かけたぞ」
「多様性?」
「さっきも言ったが、ゴブリンというのは、もともと塚を作るような生き物ではなかった可能性がある。天敵に住処を逐われ、仕方なくこのような生活に移行したのかもしれない。
そうした際、新しい場所に適応するのは、好きなことをしている連中だ。それまでの生き方を変えられない個体は、天敵にぜんぶ食われてしまっただろうからな」
ティレットは無言で、ハガネの言葉を聞いた。どうしてこんなに真剣になっているのか、自分でも分からない。だが、この青年の言葉を一つたりとも聞き逃すまいと、ティレットは決めていた。
「どこかのカンガルーが、気まぐれな思いつきで木に登った。他のカンガルーは、そいつの正気を疑ったことだろう。だが、正気を疑うばかりで木に登らなかったカンガルーは、天敵に襲われ全滅した。気まぐれを起こしたカンガルーは、今でもキノボリカンガルーとして元気にやっている。ニューギニアや、横浜の動物園でな」
ハガネの言葉の多くを、ティレットは理解しない。
それなのに、ティレットは涙を流しそうな自分に気づく。
きっと目の前の青年は、ゴブリンについて、それから、カンガルーとか言う聞いたこともない生物について、問われるまま語ってみせただけだろう。
「わたしも、まちがって、いないの?」
震える声で、そう問う。
「なぜそう思うんだ?」
「わたしは……独りが、好きだから。それは、おかしなことだから」
「間違っているかどうか決めるのは、僕ではない。君でもないし、君の近親者でもない。強いて言えば、数千年後に君の子孫が繁栄していて、君がかつて属していた群れが滅びていれば、君の行動は正解だったと言える」
ティレットは思わず、笑った。
「なにかおかしいことを言ったか?」
「ごめんなさい」
笑いながら、ティレットは謝った。まなじりに浮かんだ涙を、小指でぬぐった。
「数千年後」
「数千年もあれば評価可能だろう。しかし、そんなスパンの追跡調査は非常に難しいのも事実だ。そうなると、未来の考古学者に評価を委ねる他ないな」
大まじめな表情でそんなことを言うのが、ハガネという男であった。
ティレットはいよいよ、声をあげて笑った。
それから、にこりと、切れ長の目尻をやわらかく下げたのである。
「ありがとう、ハガネ」
「何かの役に立てたのであれば、うれしい。さあ、先に進もうか」
と、先に歩き出したハガネだが、たちまちの内に足を止めた。
ティレットがハガネの視線を追えば、そこに、新たなる魔物の影を認める。
大蜘蛛である。
体高といえばティレットの背丈ほどもあり、太く、けむくじゃらの足を持つ大蜘蛛である。
「……あ、あれは、まさか、ティルトワースゴブリングモか?」
ハガネはスラックスの尻ポケットから付箋だらけの手帳を取り出し、ぺらぺらとめくった。
「鋏角はよく発達し、構造色による輝きが見られる。歩脚のうち前一対のみ先端が吸盤様となり、後ろ三対は爪を持つ。そして、腹部には原始的なクモ目に見られる体節の名残。
ま、まっ、まっままま……マーベラス」




