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粘菌術師吉良ハガネのダンジョン博物誌  作者: 6k7g/中野在太
第五話 ゴブリン塚とプレーンズ・エルフ
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ゴブリン塚とプレーンズ・エルフ⑥

 並のゴブリンに比べ、その巨躯といえば、五倍はありそうだった。はちきれそうな筋肉を、無毛の薄い表皮で覆っている。腕も太く、長い。短い首の上には、ゴブリン一匹ほどの大きさの頭部。


「ゴオオオオオ!」


 巨大ゴブリン咆哮! 同時に走り出す! その動きは巨躯に見合わぬ高速! 丸太のような腕をめいっぱい引いて、慣性を載せた右の打ち下ろしを放つ!


(関節を……断つッ!)


 ティレットは拳をかいくぐるように前方ステップし、巨大ゴブリンの膝を切りつけた!


「硬ッ……!?」


 舌を巻くべき膝蓋骨の頑強度! つばくろ丸の刃が弾かれる! のけぞったティレットの腹めがけ、打ち出される膝蹴り! 膝蹴りに前蹴りを合わせての後方宙返り跳躍で、辛うじて致命的一撃を回避!


 一合で確信する。この巨大ゴブリンもまた、刳岩宮の強者つわもの! つばくろ丸の力を得たとはいえ、剣士として余りにもヌーブなティレットには荷の勝ちすぎる相手だ。


「それでも、殺す」


 ゴブリン再びの打ち下ろし! ティレットは唸る拳に対して……ああ、君は見たか! 斜め前方ステップで一撃をすり抜けながら、大ゴブリンの小指めがけてつばくろ丸を叩きつける剣技けんぎの冴え! 死地こそが剣士にとっての修練場! “飛燕”の二つ名を持つ魔法剣士としてのティレット、ここに開花する!


 血の尾を引きながら宙を舞う大ゴブリンの小指! 大ゴブリンが悲鳴をあげ、体を丸める! 狙うは剥き出しになった頸椎! 一刀にて命を断つ一撃が振り下ろされる!


 ティレットは剣を振り下ろそうとして膝をついた。全身に満ちていた魔力が、日光を浴びた霧のように消えていく。熱っぽい倦怠感が全ての筋肉から力を奪っていく。


 刃に込められた魔力が使い果たされ、身体強化バフが切れたのだ。限界を越えて稼働し続けた筋肉が、悲鳴をあげている。


「ゴオオオオ!」


 咆哮はくぐもって聞こえた。水の膜を一枚通した向こう側から響いているようだった。ティレットはぼんやりと顔をあげた。血まみれの拳を硬く握りしめた一撃が、ゆっくりと迫る。数瞬後に死が訪れることを、ティレットははっきりと理解する。


「……ごめんなさい」


 何に対しての謝罪なのか。ティレットは最後に、そう呟いた。

 拳のまとう風がティレットの長髪をばたばたと揺らす。膝立ちのまま、ティレットは動けない。拳が迫る。ティレットの視界が拳に埋め尽くされる。切り裂かれた小指の断面に、白い骨が見えている――



 その時である!



「マーベラス! これがゴブリンウォリアーというものか!」


 嬉々とした声! ティレットと拳の間に何者かが割って入り、片手を無造作に持ち上げる! 細い、あまりにも細い腕! だがその小さな掌が、容易く大ゴブリンの腕を受け止めたのである!


「ゴ、ゴアアア!?」

「後で観察させてくれ」


 その細い腕が、ひょいと大ゴブリンを持ち上げ……放り投げた! 放物線を描いて頭からキノコに突き刺さる大ゴブリン! 二本の足が墓標のようにキノコから飛び出す!


 ゴブリンを放り投げた青年が、ゆるりと、振り向いた。

その様と言えば、全くの異様であった。


 綿ポリエステル混紡のワイシャツ、ニットタイ、ウールシルク混紡のベスト。

 コットンのスラックス。

 牛革のスクウェアトゥ。


 ティルトワース郡には、否、この世界には存在しえない素材で作られた服に身を包む、青年。

 そんな青年が……


「えっ? えっ?」


 ティレットは戸惑った。


 そんな青年が、なぜか無数の大昆虫を背後に従え、ティレットの前に立っているのだ。


「そうせっつかれても困る。もうゴブリンミルクの持ち合わせはないんだぞ」


 大昆虫が、青年の背中を我先にと触角で突いている。青年は、噛んで含めるような言い方で大昆虫に呼びかけた。意思が通じるとでも思っているような口ぶりだった。


「あ、あの……あの?」

「ああ、この昆虫か? ゴブリンヅカコオロギだ。言ってみてくれ」

「ご、ごぶりんづかこおろぎ」


 青年は無邪気な犬のように笑った。


「かっこいいだろう。ヒゲブトゴブリンヅカハネカクシやゴブリンヅカアブと並んで、好ゴブリン性生物の代表格だな」


 寄ってきた大昆虫の頭を、青年は無造作に撫でた。大昆虫は関節をこすり合わせ、嬉しそうに鳴いた。


「こうごぶりんせいせいぶつ」

「ゴブリン塚でしか見られない生き物だ。ゴブリンは、体内に素嚢に似た器官を持っている。素嚢から分泌された栄養たっぷりのゴブリンミルクを、子どもや動けない仲間に与えるんだ」


 ティレットの脳裏に、ゴブリンが吐き出した吐瀉物と、がっつく大昆虫の姿が浮かんできた。


「ゴブリンは本能的に、背中をつつかれるとゴブリンミルクを吐き出す。このゴブリンヅカコオロギは、触角による背中つつき行動によってゴブリンミルクを吐き出させ、エサとしている。マーベラス! 行動生態学の神秘!」

「背中を……」


 それもまた、ティレットの記憶にある行動だった。大昆虫はまず、ティレットの背中をつついたのだ。あれがエサを求めての行動だったとは、にわかに信じられない。


「僕は向こうにいた頃、好蟻性こうぎせい生物の研究をしていたからな。どうしてもゴブリン塚を観察したかったのだが……マーベラス! 実にマーベラス! これこそフィールドワークというものだ!」


 いきなり現れた青年が、ものすごい早口で、矢継ぎ早に理解不能なことを口走っている。ティレットは強烈な眠気を覚えた。脳が過労を防ぐため、働くのを止めようとしているのだ。


「ところで君とは冒険者ギルドでも会ったな。僕は吉良ハガネ、博物学者だ。君は?」

「……ティレット」

「そうか。では、君がゴブリン塚の掃討を?」


 ティレットは眠気に抗いながら頷いた。


「では、女王を目指すわけだな。女王の部屋は恐らくこの塚の最上階だ。僕も同行してかまわないか?」

「これは、わたしの仕事」

「僕は仕事で来たわけではない。ディランに怒られるから、こっそり来たんだ。僕がここにいたことは内緒にしてくれ」


 怒られる、との言葉に、ティレットは衝撃を受けた。

 つばくろ丸の力を借りても敵わなかった相手を、平気で投げ飛ばす青年である。そんなハガネが、あのディランとかいう男に手綱を引かれているのだ。そしてディランといえば、『この辺りでは有名なぼんくら』である。

 すなわちディランなる有名なぼんくらは、ハガネ以上の実力者ということになる。当然の論理的帰結だ。

 

 刳岩宮に挑むのであれば、相応の実力が無ければならないのだ。有名なぼんくらでさえ、ゴブリンウォリアー程度に苦戦はしないのだから。ティレットは、自らの未熟を強く恥じた。


 ティレットは荷物を拾い上げた。口のひもがゆるんでいたのか、中身をひっくり返してしまう。


「手伝おう」

「触らないで」


 なんと情けない姿だろうか。独りで生きる。独りで朽ちる。その程度のことさえ、できないというのか。ティレットはマントを掴んで、荷物に押し込もうとした。


「む!」

「ひゃっ!?」


 だしぬけにハガネが叫んで、ティレットは悲鳴をあげた。


「な、なに」

「そのマント、少し見せてくれないか?」


 ティレットは無言でマントを投げ渡した。母が荷物に詰め込んだものなのだろうが、一度も羽織らなかった。ザレックも、見向きもしなかった。


 マントを広げたハガネは、氏族の紋章たるツバメの刺繍をじっと見つめた。左羽根のない、未完成の刺繍である。片翼のツバメは、決して飛べぬというのに空を見上げ、もがいているように見えた。まるで、今の自らの引き写しだ。


「これは……マーベラス!」


 ハガネが叫んだ。のみならず、マントを広げたまま、その場でくるくると回転した。


「やはり! この刺繍、大蜘蛛絹糸スパイダーシルクだ!」

「えっ?」

「蜘蛛の糸だ! そうだろう、ティレット!」


 ティレットはうなずいた。事実、片翼のつばくろは、女王蜘蛛から取り出した強靱な糸で刺繍されている。


「非常に興味深い! どんな風に糸を取り出す? 重要な民俗学的考察だ!」

「それは、その……」



 母と共にでかけた蜘蛛狩り。藪に巣をかける大蜘蛛、その女王を射抜いた後のこと。

 ささやかなテントに氏族の女が集まれば、糸掻きがはじまる。

 木で作った万力に蜘蛛の腹を固定し、糸疣にナイフでわずかな傷をつける。



――傷が大きすぎると、糸は太く、もろくなってしまう。だけど傷が小さすぎると、今度は糸掻きができないのよ。見ていてごらんなさい、ティレット。ルハーブはとても上手く、ナイフを使うわ。



 母が指さした先、盲眼のルハーブは、糸疣を五本の指で撫でた。ナイフの先端を糸疣に突き刺した。引き抜かれた刃の先端に、白い固まりがわずかな量、こびりついているのである。



――どうだい、ティレットちゃんよ。ババァになっても、眼が見えなくても、うまいもんだろう。



 ルハーブは、あらぬ方向を向いて、にやっと笑ってみせた。ティレットに向けた笑顔だった。

 ナイフにこびりついた白い固まりこそ、蜘蛛の体内にある糸の素だ。それを、木の棒の先端になすりつける。そうしたら、木の棒を引っ張る。ナイフの傷から、糸の素を引き出していくのだ。

 ある程度の長さを引き出したら、木の棒で糸を巻き取り、また引き出す。その繰り返しで、女たちは蜘蛛糸を得ていた。


 力を入れすぎても、抜きすぎても駄目だった。はじめて糸掻きをしたティレットは、そのほとんどをだめにしてしまった。



――まあ、自分で狩ったもんを自分で駄目にしてるんだから、誰に恥じることでもねえって話だね。ババァになるころには、上手になってるさ。



 ルハーブが、あらぬ方向に向かって腕を突き出した。ティレットはその腕の先に頭を寄せた。するとルハーブの手が、ティレットの頭を優しく撫でた。



――きれいな髪だねえ。きっとティレットちゃんは、器量のいい女になるよ。若かったころのあたしみたいにさ。



 糸掻きの思い出を、ティレットはぼそぼそと語った。ハガネは興奮して跳ね回った。


「なるほど。蜘蛛の糸というのは、体内にあってはたんぱく質の塊に過ぎない。出糸突起を通る時の圧力によって、強い糸になるわけだが……蜘蛛の出糸突起そのものを利用するとは、実にマーベラスだ」

「まーべらすって、なに」


 さっきから気になっていたことを、ティレットは聞いた。


「ああ、マーベラスだ。君もそう思うだろう、ティレット」


 まともな答えが返ってこないことに、ティレットは慄然とした。改めてもう一度、同じことを問おうとしたが、先に口を開いたのはハガネだった。


「しかし、君はどうしてこのマントを帯びないんだ。大蜘蛛絹糸スパイダーシルクを身につけていれば、ゴブリンは近づいて来ないぞ」


 驚くべき事実であった。『マーベラス』という言葉の意味を問うことなど、限りなくどうでもよくなってしまうほどに。


「な、なんで」

「好ゴブリン性生物に、ティルトワースゴブリングモというものがいる。ゴブリンに擬態する蜘蛛だ。と言っても、姿かたちはゴブリンに全く似ていない。ゴブリンヅカコオロギのように、なんらかの標識を発信して、ゴブリンに仲間だと思わせているわけだな」

「それが、蜘蛛の糸」


 ハガネはうなずいた。


「当て推量の仮説でしかないがな。とにかく種類を問わず蜘蛛の糸さえ身につけていれば、ゴブリンに襲われないことは事実だ。どれ、少し試してみよう」

「ゴオオオオオ!」


 キノコから抜け出したゴブリンウォリアーが、二人めがけて突っ込んでくる。ハガネは動じた様子もなく、マントをゴブリンウォリアーに向けた。


「ゴオオオ?」


 すると、ゴブリンウォリアーはたちまち動きを止めた。きょとんと小首を傾げたあと、ふたりに背を向け、どこへともなく歩き去って行った。

 ぽかんとするティレットに、ハガネがマントを押しつけた。


「こういうことだ。しかし、ティルトワースゴブリングモはどこにいたものか。この畑ではないようだが」

「は、畑……?」

「ここはゴブリンのキノコ畑だからな。見てくれ、ティレット」


 ハガネが指さす先を、ティレットは眼で追う。


「あそこでゴブリンヅカコオロギがキノコに風を送っているだろう。ああやって湿度をコントロールしている」


 登攀時にも見た光景だ。ゴブリンヅカコオロギが一列に並び、羽を震わせている。意味のある行為だとは、考えてもいなかった。


「あちらではゴブリンミルクの吐き戻し行動が見られるだろう? ゴブリンミルクに腐葉土を被せて発酵を促し、キノコの苗床にしているんだ。そしてこのキノコこそが、ゴブリンミルクの原料となる。全く、ゴブリンとは実にマーベラスな魔物だな」


 知性などない生物が、群れて生きているのだ。ティレットは、何をどう考えていいのかすら分からない。


「さて、そろそろ行くとしよう。マントは?」


 ティレットは無言でマントを羽織った。軽く、あたたかく、郷の匂いがした。


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