ゴブリン塚とプレーンズ・エルフ⑥
並のゴブリンに比べ、その巨躯といえば、五倍はありそうだった。はちきれそうな筋肉を、無毛の薄い表皮で覆っている。腕も太く、長い。短い首の上には、ゴブリン一匹ほどの大きさの頭部。
「ゴオオオオオ!」
巨大ゴブリン咆哮! 同時に走り出す! その動きは巨躯に見合わぬ高速! 丸太のような腕をめいっぱい引いて、慣性を載せた右の打ち下ろしを放つ!
(関節を……断つッ!)
ティレットは拳をかいくぐるように前方ステップし、巨大ゴブリンの膝を切りつけた!
「硬ッ……!?」
舌を巻くべき膝蓋骨の頑強度! つばくろ丸の刃が弾かれる! のけぞったティレットの腹めがけ、打ち出される膝蹴り! 膝蹴りに前蹴りを合わせての後方宙返り跳躍で、辛うじて致命的一撃を回避!
一合で確信する。この巨大ゴブリンもまた、刳岩宮の強者! つばくろ丸の力を得たとはいえ、剣士として余りにもヌーブなティレットには荷の勝ちすぎる相手だ。
「それでも、殺す」
ゴブリン再びの打ち下ろし! ティレットは唸る拳に対して……ああ、君は見たか! 斜め前方ステップで一撃をすり抜けながら、大ゴブリンの小指めがけてつばくろ丸を叩きつける剣技の冴え! 死地こそが剣士にとっての修練場! “飛燕”の二つ名を持つ魔法剣士としてのティレット、ここに開花する!
血の尾を引きながら宙を舞う大ゴブリンの小指! 大ゴブリンが悲鳴をあげ、体を丸める! 狙うは剥き出しになった頸椎! 一刀にて命を断つ一撃が振り下ろされる!
ティレットは剣を振り下ろそうとして膝をついた。全身に満ちていた魔力が、日光を浴びた霧のように消えていく。熱っぽい倦怠感が全ての筋肉から力を奪っていく。
刃に込められた魔力が使い果たされ、身体強化が切れたのだ。限界を越えて稼働し続けた筋肉が、悲鳴をあげている。
「ゴオオオオ!」
咆哮はくぐもって聞こえた。水の膜を一枚通した向こう側から響いているようだった。ティレットはぼんやりと顔をあげた。血まみれの拳を硬く握りしめた一撃が、ゆっくりと迫る。数瞬後に死が訪れることを、ティレットははっきりと理解する。
「……ごめんなさい」
何に対しての謝罪なのか。ティレットは最後に、そう呟いた。
拳のまとう風がティレットの長髪をばたばたと揺らす。膝立ちのまま、ティレットは動けない。拳が迫る。ティレットの視界が拳に埋め尽くされる。切り裂かれた小指の断面に、白い骨が見えている――
その時である!
「マーベラス! これがゴブリンウォリアーというものか!」
嬉々とした声! ティレットと拳の間に何者かが割って入り、片手を無造作に持ち上げる! 細い、あまりにも細い腕! だがその小さな掌が、容易く大ゴブリンの腕を受け止めたのである!
「ゴ、ゴアアア!?」
「後で観察させてくれ」
その細い腕が、ひょいと大ゴブリンを持ち上げ……放り投げた! 放物線を描いて頭からキノコに突き刺さる大ゴブリン! 二本の足が墓標のようにキノコから飛び出す!
ゴブリンを放り投げた青年が、ゆるりと、振り向いた。
その様と言えば、全くの異様であった。
綿ポリエステル混紡のワイシャツ、ニットタイ、ウールシルク混紡のベスト。
コットンのスラックス。
牛革のスクウェアトゥ。
ティルトワース郡には、否、この世界には存在しえない素材で作られた服に身を包む、青年。
そんな青年が……
「えっ? えっ?」
ティレットは戸惑った。
そんな青年が、なぜか無数の大昆虫を背後に従え、ティレットの前に立っているのだ。
「そうせっつかれても困る。もうゴブリンミルクの持ち合わせはないんだぞ」
大昆虫が、青年の背中を我先にと触角で突いている。青年は、噛んで含めるような言い方で大昆虫に呼びかけた。意思が通じるとでも思っているような口ぶりだった。
「あ、あの……あの?」
「ああ、この昆虫か? ゴブリンヅカコオロギだ。言ってみてくれ」
「ご、ごぶりんづかこおろぎ」
青年は無邪気な犬のように笑った。
「かっこいいだろう。ヒゲブトゴブリンヅカハネカクシやゴブリンヅカアブと並んで、好ゴブリン性生物の代表格だな」
寄ってきた大昆虫の頭を、青年は無造作に撫でた。大昆虫は関節をこすり合わせ、嬉しそうに鳴いた。
「こうごぶりんせいせいぶつ」
「ゴブリン塚でしか見られない生き物だ。ゴブリンは、体内に素嚢に似た器官を持っている。素嚢から分泌された栄養たっぷりのゴブリンミルクを、子どもや動けない仲間に与えるんだ」
ティレットの脳裏に、ゴブリンが吐き出した吐瀉物と、がっつく大昆虫の姿が浮かんできた。
「ゴブリンは本能的に、背中をつつかれるとゴブリンミルクを吐き出す。このゴブリンヅカコオロギは、触角による背中つつき行動によってゴブリンミルクを吐き出させ、エサとしている。マーベラス! 行動生態学の神秘!」
「背中を……」
それもまた、ティレットの記憶にある行動だった。大昆虫はまず、ティレットの背中をつついたのだ。あれがエサを求めての行動だったとは、にわかに信じられない。
「僕は向こうにいた頃、好蟻性生物の研究をしていたからな。どうしてもゴブリン塚を観察したかったのだが……マーベラス! 実にマーベラス! これこそフィールドワークというものだ!」
いきなり現れた青年が、ものすごい早口で、矢継ぎ早に理解不能なことを口走っている。ティレットは強烈な眠気を覚えた。脳が過労を防ぐため、働くのを止めようとしているのだ。
「ところで君とは冒険者ギルドでも会ったな。僕は吉良ハガネ、博物学者だ。君は?」
「……ティレット」
「そうか。では、君がゴブリン塚の掃討を?」
ティレットは眠気に抗いながら頷いた。
「では、女王を目指すわけだな。女王の部屋は恐らくこの塚の最上階だ。僕も同行してかまわないか?」
「これは、わたしの仕事」
「僕は仕事で来たわけではない。ディランに怒られるから、こっそり来たんだ。僕がここにいたことは内緒にしてくれ」
怒られる、との言葉に、ティレットは衝撃を受けた。
つばくろ丸の力を借りても敵わなかった相手を、平気で投げ飛ばす青年である。そんなハガネが、あのディランとかいう男に手綱を引かれているのだ。そしてディランといえば、『この辺りでは有名なぼんくら』である。
すなわちディランなる有名なぼんくらは、ハガネ以上の実力者ということになる。当然の論理的帰結だ。
刳岩宮に挑むのであれば、相応の実力が無ければならないのだ。有名なぼんくらでさえ、ゴブリンウォリアー程度に苦戦はしないのだから。ティレットは、自らの未熟を強く恥じた。
ティレットは荷物を拾い上げた。口のひもがゆるんでいたのか、中身をひっくり返してしまう。
「手伝おう」
「触らないで」
なんと情けない姿だろうか。独りで生きる。独りで朽ちる。その程度のことさえ、できないというのか。ティレットはマントを掴んで、荷物に押し込もうとした。
「む!」
「ひゃっ!?」
だしぬけにハガネが叫んで、ティレットは悲鳴をあげた。
「な、なに」
「そのマント、少し見せてくれないか?」
ティレットは無言でマントを投げ渡した。母が荷物に詰め込んだものなのだろうが、一度も羽織らなかった。ザレックも、見向きもしなかった。
マントを広げたハガネは、氏族の紋章たるツバメの刺繍をじっと見つめた。左羽根のない、未完成の刺繍である。片翼のツバメは、決して飛べぬというのに空を見上げ、もがいているように見えた。まるで、今の自らの引き写しだ。
「これは……マーベラス!」
ハガネが叫んだ。のみならず、マントを広げたまま、その場でくるくると回転した。
「やはり! この刺繍、大蜘蛛絹糸だ!」
「えっ?」
「蜘蛛の糸だ! そうだろう、ティレット!」
ティレットはうなずいた。事実、片翼のつばくろは、女王蜘蛛から取り出した強靱な糸で刺繍されている。
「非常に興味深い! どんな風に糸を取り出す? 重要な民俗学的考察だ!」
「それは、その……」
母と共にでかけた蜘蛛狩り。藪に巣をかける大蜘蛛、その女王を射抜いた後のこと。
ささやかなテントに氏族の女が集まれば、糸掻きがはじまる。
木で作った万力に蜘蛛の腹を固定し、糸疣にナイフでわずかな傷をつける。
――傷が大きすぎると、糸は太く、もろくなってしまう。だけど傷が小さすぎると、今度は糸掻きができないのよ。見ていてごらんなさい、ティレット。ルハーブはとても上手く、ナイフを使うわ。
母が指さした先、盲眼のルハーブは、糸疣を五本の指で撫でた。ナイフの先端を糸疣に突き刺した。引き抜かれた刃の先端に、白い固まりがわずかな量、こびりついているのである。
――どうだい、ティレットちゃんよ。ババァになっても、眼が見えなくても、うまいもんだろう。
ルハーブは、あらぬ方向を向いて、にやっと笑ってみせた。ティレットに向けた笑顔だった。
ナイフにこびりついた白い固まりこそ、蜘蛛の体内にある糸の素だ。それを、木の棒の先端になすりつける。そうしたら、木の棒を引っ張る。ナイフの傷から、糸の素を引き出していくのだ。
ある程度の長さを引き出したら、木の棒で糸を巻き取り、また引き出す。その繰り返しで、女たちは蜘蛛糸を得ていた。
力を入れすぎても、抜きすぎても駄目だった。はじめて糸掻きをしたティレットは、そのほとんどをだめにしてしまった。
――まあ、自分で狩ったもんを自分で駄目にしてるんだから、誰に恥じることでもねえって話だね。ババァになるころには、上手になってるさ。
ルハーブが、あらぬ方向に向かって腕を突き出した。ティレットはその腕の先に頭を寄せた。するとルハーブの手が、ティレットの頭を優しく撫でた。
――きれいな髪だねえ。きっとティレットちゃんは、器量のいい女になるよ。若かったころのあたしみたいにさ。
糸掻きの思い出を、ティレットはぼそぼそと語った。ハガネは興奮して跳ね回った。
「なるほど。蜘蛛の糸というのは、体内にあってはたんぱく質の塊に過ぎない。出糸突起を通る時の圧力によって、強い糸になるわけだが……蜘蛛の出糸突起そのものを利用するとは、実にマーベラスだ」
「まーべらすって、なに」
さっきから気になっていたことを、ティレットは聞いた。
「ああ、マーベラスだ。君もそう思うだろう、ティレット」
まともな答えが返ってこないことに、ティレットは慄然とした。改めてもう一度、同じことを問おうとしたが、先に口を開いたのはハガネだった。
「しかし、君はどうしてこのマントを帯びないんだ。大蜘蛛絹糸を身につけていれば、ゴブリンは近づいて来ないぞ」
驚くべき事実であった。『マーベラス』という言葉の意味を問うことなど、限りなくどうでもよくなってしまうほどに。
「な、なんで」
「好ゴブリン性生物に、ティルトワースゴブリングモというものがいる。ゴブリンに擬態する蜘蛛だ。と言っても、姿かたちはゴブリンに全く似ていない。ゴブリンヅカコオロギのように、なんらかの標識を発信して、ゴブリンに仲間だと思わせているわけだな」
「それが、蜘蛛の糸」
ハガネはうなずいた。
「当て推量の仮説でしかないがな。とにかく種類を問わず蜘蛛の糸さえ身につけていれば、ゴブリンに襲われないことは事実だ。どれ、少し試してみよう」
「ゴオオオオオ!」
キノコから抜け出したゴブリンウォリアーが、二人めがけて突っ込んでくる。ハガネは動じた様子もなく、マントをゴブリンウォリアーに向けた。
「ゴオオオ?」
すると、ゴブリンウォリアーはたちまち動きを止めた。きょとんと小首を傾げたあと、ふたりに背を向け、どこへともなく歩き去って行った。
ぽかんとするティレットに、ハガネがマントを押しつけた。
「こういうことだ。しかし、ティルトワースゴブリングモはどこにいたものか。この畑ではないようだが」
「は、畑……?」
「ここはゴブリンのキノコ畑だからな。見てくれ、ティレット」
ハガネが指さす先を、ティレットは眼で追う。
「あそこでゴブリンヅカコオロギがキノコに風を送っているだろう。ああやって湿度をコントロールしている」
登攀時にも見た光景だ。ゴブリンヅカコオロギが一列に並び、羽を震わせている。意味のある行為だとは、考えてもいなかった。
「あちらではゴブリンミルクの吐き戻し行動が見られるだろう? ゴブリンミルクに腐葉土を被せて発酵を促し、キノコの苗床にしているんだ。そしてこのキノコこそが、ゴブリンミルクの原料となる。全く、ゴブリンとは実にマーベラスな魔物だな」
知性などない生物が、群れて生きているのだ。ティレットは、何をどう考えていいのかすら分からない。
「さて、そろそろ行くとしよう。マントは?」
ティレットは無言でマントを羽織った。軽く、あたたかく、郷の匂いがした。




