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粘菌術師吉良ハガネのダンジョン博物誌  作者: 6k7g/中野在太
第五話 ゴブリン塚とプレーンズ・エルフ
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ゴブリン塚とプレーンズ・エルフ⑤

 ゴブリンたちは整然と群れていた。

 一つの集団が出て行ったかと思えば、別の集団が獲物を抱えて戻ってくる。また、建物の補修をしていると見えるゴブリンもいた。喉のあたりの肉襞から染み出した、なにかべとべとするものを撫でつけると、壁のひびがたちまちの内に消え失せるのだ。


 先ほどティレットを襲った大昆虫も、ゴブリンの群れに馴染んでいた。

 大昆虫に触角で背中をつつかれたゴブリンは、えづき、どろっとしたものを吐瀉する。大昆虫はその吐瀉物に顔を突っ込み、ぺちゃぺちゃと音を立てて貪り食った。

 ティレットはこみあげる吐き気を必死で抑えた。二度と虫のことは好きになれないだろう。


 熱っぽくぼんやりする頭で、ゴブリンたちの観察を続けるうち、ティレットは一つの事実を発見した。

 ひときわ大きな建物が、塚の中心にある。尖塔と呼んで差し支えない規模だ。

 どうやらゴブリンたちは、獲物の内蔵や頭など、滋養のある部分を選り分けて塔に運んでいるのだった。


 郷での蜘蛛狩りの記憶が、ティレットの内によみがえった。母に連れられ、短弓とナイフを手に、藪を目指した記憶――



――ごらんなさい、ティレット。たくさんの巣があるけれど、わたしたちが狙うべきはただ一つよ。それがどれだか分かるかしら?



――わかんない。



――あの、とくべつに白い糸で張られた巣よ。女王蜘蛛は食べ物が良いから、吐き出す糸は白くて美しい。さあ、行きましょう。蜘蛛を狩るのは女の仕事。あなたもはやく、ひとりで狩れるようにならなくてはね。



 短弓のつるを引き絞り、放った矢が、あやまたず女王蜘蛛の眉間を射抜いた時の高揚感。

 子蜘蛛たちが泡を食って逃散していく。追おうとしたティレットを母が止める。



――わたしたちはこの草原から、必要以上に多くのものを奪ってはいけないのよ。蜘蛛たちが、自分たちの必要とする以上に、食べ物をため込まないのと同じで。



――子蜘蛛も狩れば、たくさん糸が取れる。



――死んだ子蜘蛛は、子どもを残せないわ。あの子蜘蛛たちの一匹が女王蜘蛛になって、藪に巣を張り、子どもを産む。そうしてわたしたちにまた、恵みをもたらすのよ、ティレット。

飢えた獣には、進んで我が身を差し出しなさい。『古いリミ』の言葉よ。わたしたちはこの草原で、自分に必要なだけ奪い、相手に必要なだけ奪われながら生きていくの。



 でもね、と言い添えて、女王蜘蛛の腹を傷つけなかったことを、母はとてもほめてくれた。



「女王……」


 ティレットは呟いた。根拠の無い推測であることは理解している。それでも、漫然と死を待つよりは、少しばかり前向きな考えだ。ティレットはグラディウスをしっかり握りしめて、女王の塚を目指した。


 息を潜め、建物の影に隠れ、じりじりと進む。血は止まったが、体力を大きく失った。女王など存在するのか。自分の力で勝てるのか。女王を倒した後はどうなる? この塚から逃げ切れるのか?


 ティレットはうすく笑った。自嘲の笑みであった。独りで生きて、独りで朽ちる。望み通りの状況だ。なんの文句もありはしない。


 ゴブリンの群れが獲物を搬入した直後、ティレットは尖塔の中に転がり込んだ。

 低い天井を突き破って佇立する一本の太い柱に、らせん階段のような突起がある。ティレットはあらためて驚愕した。知性などかけらも感じられない魔物どもが、このように高層建築を築き上げているのだ。


 柱を見上げて、ティレットは大きく息を吸った。この先に待つゴブリンの女王を仕留める。今はそのことだけを考えるべきだ。

 心許ない突起に手をかけ、ティレットは登攀を開始した。



 地階の天井を抜け、視界の端に広がるのは、またも奇妙な光景であった。

 サルノコシカケのような平たいキノコが、階段状に茂っている。その一枚一枚が、途方もない大きさであった。無数のゴブリンや大昆虫がその上をちょろちょろと行き来しているのだ。


 一列に並んだ大昆虫が、羽を震わせている姿が見えた。ゴブリンたちは、キノコの根元に例の吐瀉物を吐きかけ、そこに枯れ葉や枝や土をかぶせている。

 乳酒が腐ったときのような、甘ったるいにおいがした。

 キノコに腰掛けてあたりをぼんやり見回しているゴブリンの姿も、そこかしこに見られた。

 幸い、ゴブリンや大昆虫が気づく様子はない。ティレットは更に柱を昇った。


 半刻も昇っただろうか。頭上には引き続き、深い暗闇がわだかまっている。

 腕の筋肉が燃え上がるかのように熱い。にじんだ汗が眼や傷口に染みる。


 そして更に悪いことに、足下がざわつきはじめた。


「チィ……チィ……」


 ゴブリンたちの鳴き交わす声が、眼下の暗闇から聞こえてくる。多くの生き物が、すさまじい速度で柱を登っている。ティレットは恐怖の悲鳴をかみ殺し、突起に手をかけ体を引き上げた。


「チィ?」


 しかし、ゴブリンの速度はティレットを遙かに上回っていた。ゴブリンの声が、すぐ下から聞こえた。見るまいとの決意は、一瞬で崩れた。

 足下に眼をやれば、獲物のかけらを咥えたゴブリンが、ティレットを見上げていた。数十にも及ぶ視線が、鋭く突き刺さった。


「チィ! チィ!」


 先頭のゴブリンが咆哮する! 声は引き波のように遠のき、寄せ波のように迫る! なんらかのコミュニケーション!

 ゴブリン加速! 螺旋の軌道で一気にティレットとの距離を詰める!


 ティレットは突起に片手でぶら下がり、グラディウスを抜いた。右から迫るゴブリン! 逆手に持ったグラディウスを深々と突き刺し、柱に縫い止める! 刃を引き抜けば、貫かれたゴブリンは手足をぐにゃぐにゃと振り回しながら奈落へと落ちていった。


「全員、殺す!」


 振り子の勢いで蹴り飛ばす! 頭を掴んで柱から引きはがし、投げ捨てる! 力任せに振り抜く刃が首を刎ね、柱に食い込む!

 ティレットは次の襲撃ウェーブに備えた。仲間を切り殺されたことでわずかに怯んだゴブリンたちは、再び咆哮すると、上下左右からティレットに襲いかかった!


 ああ、君は見たか! 知性ではとうてい説明が付かぬほど精密な四方向同時攻撃! 爪が、牙が、ティレットの首に、腕に、腹に、足に食い込む! 激痛に意識がまたたき、ティレットは突起を手放してしまう。まとわりついたゴブリンと共にはじまる地獄への自由落下!


「ああああああっ!」


 血を噴きながら、ティレットはグラディウスを柱に突き立てた。急停止によって振り落とされ、落ちていくゴブリン!

 グラディウスは柱を数メートルほど裂いた後、ぴたりと動きを止めた。


「はあッ……はあッ……あああッ!?」


 折れた! グラディウスの刃が折れたのである! ああ、恐るべきは決して休息を許さぬ刳岩宮の悪意! ティレットは奈落めがけ落下していく!


「がッ……あッ!」


 背中から落ちたティレットは、数センチ弾むと、そのまま斜面を転がった。背骨が砕け散ったかのような衝撃はあまりにも強く、痛みすら覚えない。

 ティレットはうつぶせのまま、しばらく動けずにいた。全身が蟻にでもたかられたようにしびれている。甘ったるい腐敗臭が絶え間なく鼻を刺激した。どうやらキノコの階層まで落ちてきたらしいと、その臭気で理解した。


 竹筒越しに覗き込むような狭い視野の中、一匹のゴブリンが、ティレットを見下ろして不思議そうに小首を傾げる――


 ティレットは、わずかに動く指先で床をひっかいた。死ぬとしても、足掻かずにはいられなかった。勝手に故郷を飛び出して、だまされ馬鹿にされ、抵抗もできぬまま引き裂かれて死ぬのであれば、なんのために生まれてきたと言える?


 指先がなにかに触れた。ティレットの傍らに投げ出された荷物袋である。これが緩衝材となって、命に到るほどの落下衝撃を吸収してくれたのだ。

 中指のわずかな動きで、ゆっくりと荷物袋を引き寄せる。ゴブリンが手を伸ばし、ティレットの顔に触れる。冷たくてすべすべとした感触が、頬を撫でた。嫌悪のあまり、涙が反射的に浮かぶ。


 ゴブリンが不意に爪を立てた。ティレットの頬はあっけなく貫かれ、奥歯に、舌に、ゴブリンの指先が触れた。

 その激痛が、ぞっとするような腐敗の味が、全身にわだかまるしびれを吹き飛ばした。ティレットは涙をこぼしながら荷物に手を突っ込んだ。触れたものを掴んで、引っ張り出した。

 つばくろ丸である。ザレックに無価値と断じられた、氏族の宝である。ティレットは鞘に収められたままの剣を振り回して、ゴブリンの横っ面を力いっぱいひっぱたいた。


 短い悲鳴をあげ、ゴブリンがのけぞった。口に突っ込まれていた指が、頬の筋肉をいくらか余計に引き裂きながら抜けた。ティレットは頬に空いた穴から血の泡を垂れ流し、ゴブリンを睨みあげる。


「チィ」


 短く無感情に鳴いたゴブリンが、ティレットの頭をわしづかみにし、力を込めた。二本腕での超高速登攀を可能とする、凄まじい膂力である。頭蓋がみきみきと音を立て、吐き気を伴う頭痛がティレットを襲う。


「殺す……殺す!」


 絶叫しながら、ティレットは四肢を振り回した。尋常ならざる様子に気づいたゴブリンや大昆虫が、ティレットの周囲に群がりはじめた。


「チィ! チィ!」


 ティレットの頭を焼き栗のように割ろうとしながら、ゴブリンが叫ぶ。その咆哮に、集まってきたゴブリンが答える。なんらかのコミュニケーション!


「がッ……ああああああッ!」


 力の限りに吠え、つばくろ丸でゴブリンの脇腹を何度も打つ。ゴブリンは気にも留めず、指先にますます力を込める。意識が遠のいていく。

 氏族の宝たる、つばくろ丸。ザレックの言葉は正しかった。飾りでしかないのに、飾りとしての価値すら認められない。どうしてこんなものを父は押しつけたのか。

 混濁した意識の中によぎる、無数の過去の記憶。心が死に支度をはじめているのだとティレットは悟る。

 思い出が、泡のように生まれては弾ける。それは、つばくろ丸の記憶。



――お父さん、なにしてるの。



――つばくろ丸に祈りを捧げている。魔力の流れが分かるか、ティレット。



――うん。すごくきれい。雨の前の風みたい。遠い雷みたい。



――風と雷の力。私たちの信じる力だ。そしてツバメは、風と雷に敬意を払って低く飛ぶ。だからこそ、ツバメというのはあれだけ速く飛ぶことができるし、はるか遠くの土地まで旅をすることができるのだ。風と雷の力を借りて。



――つばくろの、力?



――いずれ必要な時に、この剣を抜きなさい。私の父の父の、その父の父から引き継がれたつばくろの力が、お前を助けてくれるはずだ。



 ティレットは信心を持たない。故にティレットにとって、つばくろ丸は無価値な飾りでしかない。

 父の操る魔力の流れは、美しかった。羊を解体するときのように。

 いつの間にか、そんなことは忘れていた。誰かがその一時、美しかったこと。敬意を払うべき、わざがあること。独りで生きて独りで朽ちる、それだけがティレットの願いになっていた。


 なんて都合の良い祈りだろう。それでもティレットは、祈らずにいられない。


「お父さん、助けて……!」


 つばくろ丸を、鞘から抜き放つ。



 ティレットは遠い雷の音を聞いた気がした。



 ああ、君は見たか! つばくろ丸を手にしたティレット、その身体の変化を! 黒髪が、瞳が、刀身と同じ瑠璃色に変化していく! つばくろ丸に満ちた魔力が、彼女の身体に働きかけている!


 頬に、脇腹に、背中に瑠璃色の魔力が凝集し、たちまちティレットの傷を癒やしていく! 戦慄すべき変化を感じ取ったゴブリンが飛び退く! おお、ティレットよ、美しき黒髪の孤独なプレーンズ・エルフよ! 君は氏族の宝を携え、勇敢に立ち上がった!


 全身に魔力が満ちている。視覚も聴覚も、驚くほど鋭敏になっている。目の前のゴブリンが緊張に全身をこわばらせている、その筋繊維がどのように怯えているのかさえ、手に取るように分かる。


「これが……つばくろ丸」


 おお、瑠璃色の刃の、あくなき薄さよ! 向こう側が透けて見えるほどに厚みを持たぬ刀身、これこそティレットの氏族に代々伝わる魔法剣、つばくろ丸に他ならない!

 数百年にもわたって魔力をふくませ続けた鞘に収められているのは、押せば砕けるほどに脆い石英の板。この石英が鞘に込められた魔力によって変質したとき、つばくろ丸は類を見ない切れ味の魔法剣と化す!


 ティレットは大きく息を吸い込み、吐き出した。つばくろ丸を構えた。


「すぐに、終わらせる」


 ティレットは地面を蹴った。たちまちの内にゴブリンとの距離を詰める。ゴブリンが身を庇うように腕を振り上げる。


「遅い」


 つばくろ丸の縦斬撃! 刃の軌跡に瑠璃色の残光が尾を引く! 水を切るかのように容易く真っ二つになるゴブリン!

 ゴブリンの断面から滲んだ血が噴き出すよりもなお速く、ティレットは動いた。瑠璃色の残光を曳きながら、集まったゴブリンの群れに突っ込み、一閃! 上半身が、腕が、頭が、回転しながら宙を舞う!


「ギイイイ!」


 大昆虫襲撃! 先ほどティレットを為す術無く奈落の底へと突き落とした圧倒的質量の砲弾! ティレットはつばくろ丸の腹で、突撃を真っ向から受け止めた!


「邪魔」


 大昆虫の顔面につま先を叩き込む! 大昆虫は吹き飛んで壁にめり込む! 蹴りの反作用で体を回転させ、背後から飛びかかってきたゴブリンの頭を斜めに切り飛ばす!


「チィ! チィ!」


 鳴き声をかわしたゴブリンが、ティレットめがけ殺到した! 大猫を押しつぶした時と同じ、犠牲を厭わぬ特攻だ!


 四方八方、更には上空からもゴブリン襲来! 空間の全てをゴブリンが埋め尽くし逃げ場無し! この物量の破壊力、察するに余りある!


 ティレットはしかし、悠然と周囲を見回した。時間の流れがひどく遅く感じられる。さっき切り飛ばしたゴブリンの頭がゆっくりと回転し、断面と苦悶の表情を交互にこちらに向けていた。

 襲いかかるゴブリン一匹一匹の表情を捉える。醜悪に歪んだ口から吐き出される唾液が、雫となって空中で震えている。


 静止したような時間の中で、ティレットは地面を蹴った。目前のゴブリンを袈裟懸けに切り裂く。泣き別れになった上半身を蹴り上げて、上空のゴブリンに叩き込む。刃を横に薙ぎ、三匹まとめて斬り殺す。


 ゴブリンには感知し得ぬ超高速連続斬撃。薄暗がりに青白い小さな稲妻がいくつも咲いた。つばくろ丸を手にした際、ティレットの髪は、高速移動中に蓄積した静電気を解き放つための放電策としてはたらく。

 

 蝟集したゴブリンをたちまち壊滅させたティレットが、剣にまとわりついた血を払う。


 時間の流れの正常化をティレットは感得した。背後で、斬り殺されたゴブリンたちが、あるいは地面に落ちてつぶれ、あるいは血を噴き出し、あるいは内臓をまき散らしながら倒れた。


「チィイイイ! チィイイイ!」


 残されたゴブリンが、悲鳴をあげながら逃散していく。ゴブリンなりの本能で、ティレットには決して勝てぬと悟ったのか? 否、そうではない! 彼らは道を空けたのだ!


 塚全体を震わせるような野太い絶叫。ティレットはゆっくりと振り向き、それを見上げた。

 ひときわ巨大なゴブリンが、ティレットを見下ろしていた。



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