ゴブリン塚とプレーンズ・エルフ①
ティレットのオリジン・エピソードです。
多分これが一番面白いと思います。
夜も更けたかさご屋のテラス席では、テーブルの上に置かれた色とりどりの行灯が、やわらかく周囲を照らす。
淡い色彩に染められた紙がろうそくの光を乱反射する幻想的な光景の中、ティレットとハガネは横並びでティルトワース湾を眺めていた。
ティレットは、郷の楽器、琴の音色を、海に向かって響かせている。
琴は、弦楽器だ。三本の弦が張られていて、弓で引き、奏でる。椅子に座り、大きく開いた足の間に琴を据えた姿勢は、ハガネに胡弓や馬頭琴の演奏を思い出させる。
琴の音は、決して洗練されたものではない。馬の毛を束ねた弦と弓からは、かすれの混じった低い音が生まれる。和音も、一粒一粒の音が主張をしすぎて、きれいに揃わない。
「絹や大蜘蛛絹糸では駄目なのか?」
ハガネがたずねると、ティレットは首を横に振った。
「郷の音じゃない」
言葉少ない解答で、しかし音色は多くを語る。つまるところ、このかすれた音こそが、プレーンズ・エルフの郷によく似合う。
「ティレットの故郷か。いずれフィールドワークに出てみたいな。どんなところなんだろうか」
今日のティレットは、いつもより少しだけ酔っている。メイとディランが迷宮探索に出かけ、ハガネと二人だからであろうか。
「見せてあげる」
デーツワインに赤くなった頬をゆるませて笑うと、郷の曲を弾き、歌った。
彼女の氏族が信仰する宗教、『古いリミ』における、それは聖歌であった。メロディラインは朴訥で、端々にカノンコードが混じっている。
古いリミは、ルーストリア国教とプレーンズ・エルフの接触によって生まれた宗教だ。更に遡れば、ルーストリア国教そのものが、異世界人によって礎を築かれている。讃美歌やカノンコードも、いわば、宗教的外来種と言えた。
しかしながらティレットの奏でる音楽は、彼女の郷のように、素朴で、力強く、美しい。ハガネは瞳を閉じ、ティレットの生む音に耳をかたむけた。
音は語る。
夏の草原を歩く羊と、蹄に踏まれた草の青い香り。
冬の天幕の中で、バターを落としたミルクが沸騰するときの鉄鍋の音。
遠い雷と短い雨期。
澄んだ空と青く霞む山脈。
プレーンズ・エルフの故郷を、音が語る。
「以前にも、聞かせてもらったな」
演奏が終わって、ハガネが口を開く。
「意外。覚えてた」
「僕は君の音が好きだからな」
「ありがと」
頬を染めながら、今日のティレットはハガネの賛辞に素直だ。
「私も、音が好き」
「そうだろう。君はとても優しい表情で琴を弾いているぞ。郷のことを語る時のようにな」
「今は……郷のことも、好きだから」
ティレットは目を細めて、琴の棹に指をすべらせた。ティレットの声に、ハガネが併せた。何度も聴いている内に覚えたものだ。
声に声を乗せて。ティレットは歌った。遠い遠い郷から今に連なる思い出、その一つ一つを、奏でるように。
第五話 ゴブリン塚とプレーンズ・エルフ
お気に入りの灌木に腰かけて、ティレットは背負っていた琴を下ろした。
湿った風が走り、黄土色の曠野に顔を出すわずかな草を揺らした。地平線の果て、紫色に縁どられた黒雲が空に沸き上がり、稲妻を走らせていた。
大きく開いた足の間に琴を置く。武骨な四角い共鳴板には繰り返しアルガンオイルを擦りこんで、今や顔が映るほど。棹は雨期の湿気によく耐えて、曲がらなかった。馬毛を使った弦も弓も、新調したばかり。
弦を押さえて、弓で引く。音を空に放つ。
ティレットは琴の音色が好きだった。乾期の夜、天幕の中で聞く雷の音に似ていたから。
奏でるのは、風と雲を見ていてふと思い浮かんだ音。
歌うのは、土と草を見ていてふと思い浮かんだ言葉。
それなのにどうしてだか懐かしく、春の夜風のように胸をくすぐる。
空と土の間に溶けて消えていくような心地の良さを、ティレットは感じる。
馬の蹄の音と、父親の歌声が、ティレットを世界に引きずり戻した。ティレットは演奏を止めて顔をあげた。
「なんだ、ティレット。どうして歌うのを止める。佳い音と佳い声だった」
馬にまたがったままで、父親が笑いかけた。ティレットは灌木から飛び降りると、自分の馬にまたがって駆け出した。
長い耳が風を切り裂く音。心地よい疾駆。それだというのに、父が併走すれば、気分は台無しだった。
「父さんに教えてくれ。お前はとても上手に琴と声を使うのに、どうして誰かと一緒に歌わないんだ?」
答えず、ティレットは馬に速く駆けさせた。理由などない。ティレットは最初から、誰かと歌うのが嫌いだった。一人でいるのが好きだった。たったそれだけのことなのだから、説明などない。
「お前は刺繍もしなければ、かまどにも立ち寄らん。狩りも糸掻きも一人でやる。黒髪の子は懐かんと言うが、お前の場合は極端すぎると感じているよ」
父が速駆けで追いついてきた。馬を操るのは、父の方がずっと上手い。
ティレットは答えない。理由などないからだ。
「ティルトワースに行く」
その夜ティレットは、ずっと思っていたことを口に出した。
天幕の中、炎に舐められた鉄鍋が、きんきんと澄んだ金属音を立てていた。
母親は何も言わなかった。刺繍の手を留めて、静かにため息をついただけだった。ティレットがいつか誰かと結ばれた時のためにと、用意したマントだった。氏族の紋章であるツバメは、まだ左羽根を縫い終えていない。
「ティルトワースでなら、独りで生きていける」
両親が何も言わないので、ティレットは言葉を続けた。
塩屍砂漠のはるか南。刳岩宮の存在によって空前の繁栄を遂げる都、ティルトワース郡。そこには富があり、名誉がある。謡われるような勲がある。そして何よりも、独りで生きていける環境がある。ティレットはそう信じていた。
数十人の氏族単位で、平原に散らばって生きるプレーンズ・エルフであれば、一人になることなど不可能だ。雨期にほんのわずか雨が足りないだけで、羊も馬も獲物も絶える。
ティレットの、目も覚めるような美貌である。待っているのは、有力氏族との婚姻だろう。ティレットには耐え難いことだった。
独りで馬を走らせ、独りで狩り、独りで生き、独りで朽ちる。ティレットが望むのは、そればかりのことであった。
「いずれ、そんな風に言い出すとは思っていた」
と、父が持ち出したのは、一振りの剣である。
「私の父の父がまだ小さな子どもだった頃から、つばくろ丸はもう古ぼけていた。持っていくといい。きっと、役に立つことだろうから」
「要らない」
「では、ティルトワースについたら、生活に用立てなさい。お前に授けてやれるものなど、これ以外に何も持っていないのだから」
そう言って押し付けられた剣を、ティレットはぼんやりと持て余しながら、両手に抱えた。
母は刺繍していたマントを天幕の隅に追いやると、鍋を杓子でかきまわした。高黍のミルク煮は、底がすっかり焦げ付いていて、かき回す度にじぶじぶと嫌な音を立てた。
琴と、つばくろ丸。それから母親に持たされた、旅道具。
「山渡りのドワーフのねぐらを、カラザスの麓に求めなさい。馬と引き換えに、お前をティルトワースまで連れて行ってくれるはずだ」
それが父と交わした最後の言葉だった。ティレットは馬を走らせた。
しばらくして振り返れば、小さくなった父と母が、天幕の前で、途方にくれたように突っ立っていた。
ティレットは身体を丸め、馬に密着するようにして、速く走らせた。風切りの音と疾駆の中に、自らを溶かそうとでもするかのように。
胸をちくりと刺す、小さな後悔。「行ってきます」の一言を、言えなかった。言わなかったのだろうか? だが今のティレットは、後悔を塗り潰すほどの期待と憧憬に身を浸していた。




