迷宮の外来種⑤
巻物を小脇に抱え、すっかり夜も更けたティルトワースの路地を、ハガネが歩く。
酒と語りの余韻に頬をゆるませ、足取りは軽い。
ふと、なんでもない段差につまづいて、転んだ。立ち上がろうとして、違和感に気付いた。
「なんだ」
呟いた言葉の、ろれつが回っていない。気付いてしまうと、たちまち、痺れが全身を襲った。
視界がかすんで、まばたきしても、好転しない。呼吸ができない。全身に力が入らない。
「毒か。いつだ?」
意識が明瞭なまま、呼吸できぬ苦しさがある。肺がひしゃげ、喉まで押し上げられるような感覚である。
月の灯りを遮って、人影がハガネの顔に落ちかかった。ハガネは逆光に覆い隠された人影を見上げた。
「すまないが、人を呼んできてくれないか」
まともな言葉ではなかった。くぐもった母音ばかりがハガネの口から漏れていた。
とはいえ、言葉が理解できなかったというだけでナイフを抜くのは、人道にもとる行為と言えよう。
そう、人影は、明らかな殺意を抱き、匕首を逆手に掲げていた。
深くかぶった皮革のフードは闇色で、顔は決して見通せぬ。匕首は鋭く研がれていて、一突きで心臓を抜けそうだ。
ああ、これは間違いない……暗殺者! しかし、何の故にハガネの命を狙うというのか!
振り下ろされる匕首は月光を浴びて美しい! 切っ先が目指すは心の臓! 言葉はなく、狙いは過たず!
今まさにハガネの命を終わらせようと、刃が皮膚を削ぎ――
その時である!
闇に響いた微かな音を耳で拾うと同時、暗殺者が後方宙返りで飛び退く。直後、空間を切り裂くのは一条の矢! 街路樹に突き刺さった矢柄が小刻みに震える!
「外した」
ああ、聞き慣れたこの声! 暗殺者が手を止め、振り返る!
そこに立っているのは、エルフの軽戦士、ティレット! 故郷ゆかりの短弓に矢をつがえ、鏃の剣呑な先端が暗殺者の額をねらっている!
「オイオイオイオイ! どういうつもりだ!」
鎧に身を包み、大盾を構えた青年――ディラン! ティレットの射線を確保しつつ、敵の攻撃に備える立ち位置だ!
暗殺者は素早く周囲を見回すと、小さな路地に飛び込もうとして、
「無駄」
おお、瑠璃色の髪よ、瑠璃色の刃よ! “飛燕”のティレットが、弓を捨て愛刀つばくろ丸を手に、立ちはだかった!
「すぐに、終わらせる」
瑠璃色の残光を曳く横薙ぎの一撃! 暗殺者は後方に大きく飛び退いて回避!
「弦奔硝子!」
玄妙なる鈴の音と、鋭い声音で唱えられる呪文。“玻璃”のメイ! 首元には魔力の触媒たる鉛硝子の鈴!
繊維の細さと化した硝子が暗殺者に吹き付ける! その速度と硬度と密度が孕む威力、察するに余りある! 暗殺者の纏う闇色の服が、たちまちの内に切り裂かれていく!
「逃がさねえ!」
ディランの突進! 大盾を構え、暗殺者に体当たりを仕掛ける!
「……ッ!」
ああ、君は見たか! 暗殺者がディランの大盾を蹴り上がり、空中回転するその様! 三日月のように反った肢体は食肉目猛獣の美しさ!
着地を狙ったティレットが、地を這うような高速移動で暗殺者に迫る! 大地を強く踏みしめ、慣性を乗せたつばくろ丸の縦斬撃! 暗殺者は着地と同時のバックフリップで斬撃回避、更にティレットの背後から回転足払い! きりもみ回転して肩から落ちるティレットが、苦痛のうめき声をあげた!
「ひゃあああ!」
逆手の匕首でメイに斬りかかる暗殺者! ティレットが、ディランが、立ち上がろうともがく! 匕首がメイに迫り――
その時である!
「そこで止まれ」
「ぐぇあ」
唐突に地面に叩きつけられる暗殺者! 猛烈な土埃が舞う!
「ぐっ……あっ……」
「毒の同定に少し時間がかかった。助かったよ」
土埃をまとって暗殺者に歩み寄るのは、吉良ハガネである!
「ボツリヌス症とは驚いたな。どうやって培養した? ともかく、実にマーベラスだ」
這いつくばってもがく暗殺者のフードをはぎ取れば、見慣れぬ顔である。
褐色の肌に銀髪の冴える、少女であった。敵意や諦めですらない、虚無の瞳がハガネを見上げている。
「説明してくれないか。どうして僕の命を狙う?」
「殺しなさい」
「君が僕を殺せるぐらい強ければそうしていた」
単に事実を告げる口調が、暗殺者の心をたちどころに折った。暗殺者は首を横に振った。
「信用を失うぐらいであれば、死ぬわ」
「そうか。好きにしてくれ。君の依頼主と話を付けにいくが、かまわないか?」
「好きにしてちょうだい」
ハガネは立ち上がり、歩き去ろうとした。
「オイオイオイオイ! ほっとくのかよ!」
「ではどうするべきだ?」
「愚問。殺すべき」
「ま、また、狙われる、かも」
ハガネは振り返った。暗殺者の姿は既にない。
「そうしたら、また助けてくれ。助けてもらうぐらい嬉しいことはないぞ」
「……バカ」
ティレットがてのひらで額を抑え、うめいた。
それから、四人で夜道を歩く。ディランの目に、ハガネは、うなだれているように映った。
「まあ、上手くいかないとは正直思ってたよ。暗殺者まで来たのはさすがにビックリだけどさ」
ディランが、ハガネの肩に手を置いた。
「妥当な説明だったと思っている。だが、なんの意味もなかったようだ」
「それが信心ってもんだからな。ウーガルーの神さんなんてすごいぜ。貧乏人からなけなしのラマを盗んで信心を試すんだ。そんな神さん、普通頼りたくないだろ。でもみんな信じてる。そういうもんなんだよ」
「そうか……やり方を間違えたんだな」
「そ、それじゃあ、どうしたらいいんでしょう?」
「愚問」
ティレットは、その先を言葉にできなかった。ハガネが見る影もなくしょんぼりしていたからである。
「フィッチ議員のところに行ってくる」
「オイオイオイオイ……」
「誤解されているようだからな。再び暗殺者を差し向けられるのは面倒だ」
ハガネは、路地をとぼとぼと歩いていった。わびしい風に巻き上げられた土埃が、月光に照らされてきらきら光っていた。
ディマ・フィッチは、薄暗い書斎の真ん中に据えられた机に向かい、招待状をしたためていた。
窓もなく、息苦しい一室だ。燭台の灯りが、弱弱しく机のまわりを照らしている。
不意に風が吹き込んで、ろうそくが一本、吹き消えた。振り向けば、扉がかすかに開いている。
扉を閉めに立ち上がろうかしばし迷った後、鼻を鳴らして顔を戻すと、目の前にハガネが立っていた。
内心はどうあれ、フィッチは表情を変えなかった。そこにハガネがいるのは当然だと言わんばかりの態度で、椅子に深く背をもたれた。
「さすがだな、吉良議員。毒も暗殺者も退けたか。それで、どうした。私を殺しに来たのか?」
「物事が解決するのならば、そうする」
「賢明な判断だ。私を殺したところで、あのちっぽけな魔物は救われん」
「一つ聞かせてくれ。どうして僕を殺そうとした?」
「君の説明が私の意に沿わなかったからだ。リカトルを見ろ。あの純朴な田舎エルフは、君のことをすっかり気に入ってしまった」
フィッチは皮肉っぽい笑みを浮かべた。一方のハガネは、無表情である。
「ディマ・フィッチ議員。僕はあなたの信心に難癖をつけるつもりはない。それを伝えに来ただけだ」
「ならば、マーマンは見捨てるのだな。それでこそ、と言いたいところだが、少し失望もする。君ほどの力があれば、私と、私に連なる者を一夜の内に皆殺しにもできるだろうに」
リスクを恐れぬ踏み込みであった。ハガネが史上有数の魔力の持ち主だと理解しながら、挑発によって真意を引き出そうとしている。実以て、フィッチ家の当代にふさわしい胆力であろう。
「あなたがどこの誰とどのように生物間相互作用を結んでいるのか、僕には判断できない。迷宮川のマーマンがそうであるように」
フィッチは、笑った。
「君にしてみれば、私もマーマンも変わらないか。だが、それでは何も変えられんぞ」
「自分好みの生態系を作るつもりはない。僕は保全生態学者ではないからな。どこかの商売人が持ち込んだものだろうと、そこで繁殖している以上、ウーガルーマーマンはもう生態系の一部だろう?
あなたの言う通りかもしれないな。あなたも、ウーガルーマーマンも、僕にとっては変わらない」
「意外だな。君が理想主義者だったとは」
「僕は博物学者だ」
フィッチは自らの威厳と叡智を誇示するかのごとく、椅子に深く腰かけ直した。
「年長者として、ひとつだけ忠告しておこう。
もしもヒトが、迷宮の生態系とやらを自由に弄ぼうとしたその時、君には立場を選ぶ権利がある。ヒトの側に立つのか、迷宮の側に立つのかを、選ぶ権利がな。君には、それだけの力があるからだ。自らの拠って立つべきものを、よく考えたまえ」
「話は終わりか?」
「ああ。君に暗殺者を差し向けることはしない。これでいいな」
ハガネは、ヒマティオンについていたカメオを外し、フィッチの机の上に置いた。ウンディーネの横顔の意匠が、ろうそくの明かりに照らされて深い陰影をつくった。
ふとハガネは、ウンディーネの横顔に目をとめ、なにか思い出そうとするかのように、しばらく黙っていた。
「まだ何かあるのか」
「いや……そうだな、あなたはウンディーネを信じているのか」
フィッチはカメオを手に取り、ろうそくの光にかざしてウンディーネの意匠を際立たせた。
「真なる愛国者であれば、ウンディーネを好むものだ。不毛の曠野に川を生むウンディーネは、迷宮より富を得るティルトワース人の象徴だよ。
それに、まともな井戸掘りの技術がティルトワースになかったころ、真水の供給源はウンディーネの恵みたる迷宮川だった。フィッチ家も、もとを辿れば水売りだ」
「カメオのピンに毒を塗るのは、愛国者精神の現れというわけだな」
ハガネがそう言えば、余裕たっぷりに面白そうな顔をしてみせるフィッチであった。
「驚いたな、君は皮肉を言うのか」
「あなたが酔っぱらった道化を演じられることにも驚かされた」
「見事なものだったろう? その通り。“ウンディーネの裁き”は、私たちが敵対者を消す時の手段であり、同時に符牒でもある」
「死人がカメオを付けていれば、愛国者がやったことだと分かる。合理的だ」
うなずいたフィッチの表情が、皮肉っぽい笑みから、怒りに変わる。
「ウンディーネを信じるからこそ、フィッチの者だからこそ、許せないものがある。あの川に、ウーガルーマーマンは要らない」
ハガネは返事をせず、部屋を出ていった。残されたフィッチは穏やかに微笑んだ。勝者の笑みであった。




