迷宮の外来種①
刳岩宮へと挑むおおかたの冒険者にとり、征服すべき迷宮とは『中層』、すなわち第五層以深を指す。攻撃的な魔物、致命の罠、異世界から流れ着く財宝は、中層まで潜らなければ出現しない。
しかしながら、幾つかの例外は存在する。
先に暴れ回った迷宮喰いは特例中の特例と言えるが、たとえば、第三層。ここには、魔物と呼ぶべき生物が住みついている。
何を以て『魔物』とすべきかは、どこからどこまでが『広義人類』と呼べるのかと同じぐらい曖昧であるので、定義についてここでは深く立ち入らない。
なんとなく魔物らしいから魔物で括られる、この度現れるのは、そんなちっぽけな生物――
刳岩宮第三層では、茫漠たる曠野を一本の大河が貫く。とくに名前はついておらず、誰もが単に迷宮川と呼ぶ。
迷宮川の彼岸には第四層に続く階段があり、入口からもその存在を視認できる。
川幅にしてほんの数十メートル。パーティに気の利く魔法使いが一人でもいれば、即席の橋をかけるなり、飛翔するなり、水面を歩き渡るなり、つまるところ一跨ぎの距離だ。
ちょうどいいところに、一流冒険者クランである竜冠組が通りかかった。迷宮喰いとの戦いでは全員が肉片になってしまったが、本来、彼らにとって上層や中層などは通過点に過ぎぬ。彼らの渡河を観察しておくのは、無駄にならないだろう。
「ソウル」
女魔法使いソウルに声をかけるのは、パーティリーダーであるカラザスエルフの青年、リカトル。頷いたソウルが、魔力の触媒たる木靴のかかとを打ち鳴らせば、パーティメンバーに水上歩行の補助魔法がかかる。彼らは悠々と、大河の水面を渡る。
「臭うのう。なまぐさどもの臭いじゃ」
カラザスドワーフのガルバルが、かついでいたまさかりを手にした。一行は、背中合わせの戦闘態勢を取る。
「来るぞい!」
ガルバルの声に呼応したかのように、水面から飛び出す存在あり!
「魚人だ! ヒレに注意しろよ!」
パーティの周囲を跳ねまわるのは、ああ、なんたる冒涜的な姿! 魚に手足を生やしたような姿態の魔物、マーマンに他ならない! 舌を巻くべきはその速度! ガルバルのまさかりが空を切る!
「ええい、ちょこまかと! はしっこいのは性に合わんわ!」
「あたしが」
「ソウル、ここはオレに任せてくれ。君の魔力は深層に必要だ」
マーマン急襲! 腕から突き出す鋭い鰭でリカトルを切り裂きにかかる!
「竜眼!」
リカトルは自らに補助魔法をかけ、動体視力を一時的に向上させる。跳ね飛ぶ水滴の震えさえもが感得できるほどだ。世界がゆっくりと動くのをリカトルは感じ、マーマンの軌跡に合わせてそっと拳を送り込む。
マーマンの顔面とリカトルの拳が触れ、世界の速度が戻った。マーマン顔面粉砕即死! 水没!
大河がわずか血の色に染まり、腹を見せて浮かび上がったマーマンの死体が、下流めがけて押し流されていった。
泡を食ったマーマンたちが、下流に向かって逃げていく。
「リカトル、怪我してるわ!」
リカトルの裸拳の先端、中指の鉤裂けを見つけて、ソウルが青ざめた。
「少しヒレにひっかかれたな。気にするようなことじゃないさ」
「だめよ! まったくリカトルは、あたしがいないとダメなんだから」
回復魔法を受けながら、リカトルは苦笑いを浮かべた。
「さあ、とっとと進むぞい。十八層まで野営はお預けじゃ」
「ガルバル、そいつはちょっときついんじゃないか? オレたちのパーティには、気遣い上手なお嬢さんがいるんだよ?」
「なによ、ばかにしないで! あたしだって鍛えてるんだから! そ、それに……疲れたら、おんぶしてよ。こないだみたいに」
「仰せのままに、お嬢さん」
渡河に成功した竜冠組は、斃したマーマンの死体を振り返りもせず、深層へと進んでいく。
まったくのところマーマンというのは、ちっぽけな魔物であった。
魚に手足が生えていて、ヒレがちょっと鋭い? よかろう、それで? 魔法は? 毒は? 呪いは? なにかこちらが即死する要素は?
となれば、なんとも言えず不気味な姿態を見れば、たしかに魔物と言っていいだろう。だが、魔物と普通の生き物の境界線を、受け手の気分次第でふらふらする、まことにどうでもよい存在であった。
誰からも顧みられることなく、マーマンの死体は、川を下っていく。
第三話 迷宮の外来種
リカトルに殴り殺されたマーマンの死体は、浮きつ沈みつ、小魚や小エビについばまれつつ、下流までやってきた。
死体の頭が、ふと、棒杭の類に頭をぶつけ、巻き付くように回転した。
かと思えばその棒杭が、水しぶきをあげて急速に浮き上がる。
「うわっ! オイオイオイオイ! ひっでえやられ方だな!」
慌てて岸に飛びのいたのは、棒杭ではなく、人の足。
ゆっくりと回転しながら更に押し流されていくマーマンに対して、その表情は、多少の同情を見せている。
中堅冒険者クラン“銅鉄一家”のリーダー、銅鉄のディランである。
「どっかのパーティが水面を歩いたんだな。マーマンは水面が揺れると湧いてくるんだってよ。エサと勘違いしてんだろ。それで殺されるんだから、なんか哀れな話だよな」
「そうなのか。落ちてくる虫や小鳥を捕食しているのかもしれないな」
ディランに応えるのは、膝まで水に浸かった青年だ。吉良ハガネ。異世界人にして、粘菌術師を自称する少しばかり頭のいかれた(と周囲には目されており、ハガネ自身、それを正すつもりもない)冒険者である。
「で、今日のところはそのマーマンを調べるわけだ。なんの得にもならないのに」
「厳密に言えば、淡水マーマンだ。海水マーマンもいるらしい」
「淡水マーマンをな」
ハガネはうなずいた。
本日、ディランとハガネだけなのは、これが仕事ではないからだ。迷宮川の生態系調査は、ハガネの純然たる趣味である。なぜ付き合っているのか、ディランは自分でも分からない。
「で、そりゃなんだ。その肩に担いでるもんは」
「投網だ」
「とあみ……って、え? あの、魚を取る投網?」
「他の投網のことは知らないな」
ディランは顔を覆った。マーマンが棲息する大河で投網を打つ冒険者など、聞いたこともない。鋭いヒレに網をずたずたにされて終わりだ。
「そうらっ!」
放った投網は、花が咲くように広がり、川に落ちる。めっきした鉄の輪を滑らせて網の口をすぼめ、引き上げれば。
「うわー! うわー! 思ったより……うわー!」
網の中で、大量のマーマンが狭苦しそうにもがいていた。
「見てくれディラン! さすが長虫天蚕糸だ、マーマンのヒレでも切れないぞ! 従来の麻や絹で編んだ投網とは大違いだ!」
「ああ、そういう……新しい素材が手に入ったから、新しい調査ができるようになったって、そういう」
「マーベラス! 迷宮喰いに感謝だな! ディラン、僕は次の大評議会で迷宮喰い保護区の制定を提案するぞ!」
「で? 捕まえてどうするつもりなんだ」
「決まっているだろう。まずは観察だ」
一個体を無作為に選んだら、あとのマーマンは放流する。放たれたマーマンたちは、困惑しながら水面下をぐるぐると泳ぎ回った。
水揚げされたマーマンが、ヒトによく似た手足をばたつかせてもがく。実におぞましい光景だったが、ハガネは動じない。用意していたさらしの布を、マーマンの顔に被せる。と、たちまちマーマンは暴れるのをやめ、大人しくなった。
「うわ、なんだそりゃ? 魔法か?」
「鯉釣りの好きな知り合いが、こうしていたのを見たことがある」
「え、鯉……? マーマンが?」
「見てくれ、ディラン。三角形の体つき、顔の上についた寄り目がちの両眼、そして、上あごが伸びて下を向く……コイ科のカマツカによく似ているだろう」
「鯉なの?」
「カマツカは鯉じゃない、コイ科だ」
「いや、だから、鯉なのかどうか聞いてるんだよ」
「カマツカはコイ科だ」
「ああ、もう分かったよ。鯉だけど鯉じゃないんだな、それでいいよ。で? 似ているとなんなんだよ」
「マーマンは底生なのかもしれない。砂に潜っている獲物を食べるのに、うってつけの形だ。となると、水面の揺れに反応して採餌行動をとるという説も、一度見直されるべきだろう」
「へええ。そうか、ためになるよ」
ディランは大盾の手入れをしながら生返事した。
「腕鰭の棘条の数は――十三本。文献通りの真マーマンだ」
「ママーマン?」
「真マーマンだ。む! 見てくれディラン、この、これ、この背中! マーベラス! 婚姻色が出ている! かっこいいなあ!」
「そろそろ戻してやれよ。仲間がめちゃくちゃこっち見てるぞ」
マーマンたちが、水面から顔を突き出し、戸惑いの無表情でハガネを見守っていた。
「マーマンはエラを濡らしておけば長期の乾燥に耐える」
「そういうことじゃなくて……なんか、気の毒だろ」
「むうう」
「そんな顔をしてもダメ」
「分かった。ではディラン、上流域での捕獲調査も手伝ってくれ」
「あー」
ディランはうめいたが、断りの文句を思いつけなかった。
「どうやったら一流になれるんだろ」
ハガネのあとをとぼとぼと歩きながら、ディランは自らの来し方行く末を想った。




