遠近法
藤堂美咲は寮の部屋にいた。自分のベッドに腰掛けて、静かに本を読んでいた。
彼女が読んでいるのは数学パズルの本だった。結構古いもので、表紙が色褪せてきている。しかし中身のパズルは今でも新鮮そのものだ。数学的な世界は色褪せない。ピタゴラスの定理がそうであるように、二千年前に正しければ、二千年後も正しい。
ルームメイトの伏見千絵は、机に向かって、紙を用意していた。A4コピー用紙だ。彼女は定規とペンを手にとって、そこに絵を描き始めた。黒い線が素早く描かれた。
美咲はしばらく自分の本を読んでいたが、少し疲れてきたので、本を閉じて休憩することにした。ふう、と息をついて、千絵を見る。
「何を描いてるの?」
「建物と人と雲」と千絵は絵を描きながら答えた。「街の景色かな。ちょっと遠近法のことを考えたくなって」
「遠近法の、どんなこと?」
「普通に教えられている方法では、紙の上に消失点というのをいくつか設定して、そこに現実の平行線が集まっていくように描くんだよ」
「うん、何となく知ってる。あんたがやってるの見たことあるから」
「ただね、私がフリーハンドで描くときは、ただなんとなく、景色がいくつかの点に吸い込まれるような感じで描いているわけ」
「うん」
「だから、その二つの描き方がどんなふうに違うのかな、って考えて。同じ景色を両方のやり方で描いてみて、違いを知ろうというのが今回のプロジェクト」
「なるほど」
美咲はそう言ってから、少し顔を上に向けた。
「美術の話が数学に出てくる時って、だいたい黄金比か遠近法の話が多いかな」
「そうだね」と千絵は絵を描きながら言った。「美術の中では珍しく、数学と関係が深そうなところかもしれない」
「あのさ、私はコンピューターのことあんまり詳しくないんだけど、パソコンで絵を描く人って多いでしょう? あの中身って実際、数学的な計算だらけだったりするのかなぁ」
「どうだろう。お隣の春香ちゃんなら知ってそう」
「うん、あの子は何でも知ってそうだからな……。でも、プログラマーって全員がペイントソフトのこと分かるのかな? あの子、セキュリティが専門とか言ってた気がするけど……」
「私、この前、自分の使ってるソフトで筆の動きがおかしくなったことがあったんだけど、ちゃんと春香ちゃんに助けてもらったことがあるよ。理由を聞いたけど私には分からなかった」
「そんなことがあったんだ。いやあ、万能だな、あの子は」
「怖いくらいだよね。前に夜霧ちゃんも言ってたよ。『春香のやつが学校のコンピューターを全て乗っ取ったとしても私は驚かない』って」
「何かの伏線みたいな台詞だね。……って、ちょっと喋りすぎかな、私」
「私は別に、話しながらでも描けるから大丈夫だけど?」
「まあいいや。続きは後でね」
しばらく美咲は黙ることにして、再び本を開いた。千絵には絵の研究に集中してもらおう。彼女は特に、この学園の中でも指折りの天才だ。絵の世界できっとやっていけるだろうと言われている。もしそんな人を私が駄目にしてしまったら、後の美術史家から、歴史に残る大罪だと糾弾されるかもしれない。
美咲が数学パズルの続きを始めて、二十分ほど経った頃だろうか。
「ふう、終わった」
千絵は一息つくとそう言って、椅子の背もたれの上で大きく伸びをした。机の上に最初は二枚だった紙が、いつの間にか六枚くらいに増えていた。
「何かいいこと見つけた?」と美咲。
「うん、見つけた」と千絵は朗らかに言った。「私がフリーハンドで描くときは、消失点に吸い込まれていく線が少し曲がるんだって言ったよね? あれの理由がわかった。魚眼レンズみたいな曲がり方で、没入感を含ませているんだ」
「ボツニューカン?」
「まるでその絵に入って見ているような感じってこと。まあ、つまり、フリーハンドで描くと、少し主観的な絵になるということ」
「へえ……。そういうのって見ている人にちゃんと伝わるもの?」
「普通に絵を見ている限りでは意識に上らないような微妙な差だけど、無意識に何かを感じ取っているかもしれないね」
「言い方が怖いなあ」と美咲は笑いながら言った。「何だかまるでサブリミナルだ」
「それにまだまだ、これから考えが変わるかもしれないから」
「そういうものなんだ。前に空閑くんが言っていたみたいに、永遠に発展途上ってことか」
「そうだね」
それから千絵はベッドに歩いて行って、ボフッと顔から飛び込んだ。それから首だけを捻って美咲のほうを見た。
「結果が出てよかった。汗を流した後みたいに心地よい疲れ」
「横で見ていて、いかにも凄い集中力だって思ったよ」
「そんなだった?」
千絵はベッドの上で猫のようにごろりと寝返りを打ち、仰向けになった。
「趣味だからさ、全部つぎ込んじゃうんだよね」と千絵。「ひょっとしてこれ、ギャンブラーの人がカジノにお金を注ぎ込んじゃうのと、同じ仕組みなのかな?」
「うーん、確かに、職業画家になるのは大変だからギャンブルとは言えなくもないけど……。でも今みたいな研究というのは、後で役立つかもしれないわけでしょう? それに比べて、ギャンブルで勝っても能力が成長するとは限らないじゃない」
「そっか。私、普通のギャンブルって全然やったことないから……」
「私もだけど」
「ああ、どうしよう。何か気晴らしでもしようかな。絵を描く以外のこともやらなきゃ」
「じゃあ、食べる?」
「それも魅力的だけど……、今はいいや」
「それじゃあ、そうだな」と美咲は言って、自分の手元にある本に目を留めた。「問題、出してあげようか?」
「うん、いいよ」
千絵はベッドの上を転がり、大の字になって言った。
「さあ、どっからでもかかって来い!」
「あの、そんな凄いのじゃなくて申し訳ないけど……」
美咲は本を広げると、ページをパラパラとめくって、出そうと思っていた問題を見つけ出した。
「あったあった。古典的なマッチ棒パズルです」
「はい」
「六本のマッチ棒を使って、正三角形を四つ作ってください。マッチ棒のサイズは全て同じです」
「マッチ棒って、本物は学校でしか見たことないや」
「私も。あれ、災害のときに役立ったりするのかな? ライターがあれば充分かな」
「雨が降っていたりしたら、マッチじゃないほうがいいんじゃない?」
それから千絵は目を瞑る。
「六本のマッチ棒で、正三角形を四つねぇ……」
そう呟くと、彼女は顎に手を当ててしばらく考えに耽った。こんな格好の彫刻があったら、タイトルは『寝ながら考える人』だろうか。などと、どうでもいいことを美咲が考えていたところ、千絵はおもむろに起き上がって、今度は机に向かった。自分のペンケースを開けて、机の上にペンを取り出した。六本の同じ種類の色ペンが机に並んだ。
「マッチ棒の大きさとか太さは関係ないんだよね?」
「うん、多分ね」と美咲は本のページを見ながら答えた。「どう、できそう?」
「考え中。答えのある問題ならできると思う」
千絵は机の上でペンを置き換え、並べ替え、くるくる回し、積み上げた。そのペンさばきは、側から見ていてなかなか面白かった。
美咲は本に目を戻す。載っていた解答は、三角錐を作るというものだ。三本のマッチ棒で平面に三角形を作り、その上に残りの三本で山を作れば、三角錐の立体図形が出来上がる。千絵は何度か惜しいところを通った。見ていると思わず反応してしまいたくなるので、美咲は本の続きを読むことにして、目をそらすよう努力した。
しかしその努力もすぐに終わった。
「あ、できた」と千絵が言ったので、美咲は本から顔を上げてそちらを見た。
「どうかな、これで」と千絵は微笑む。
机の上には、ペンで普通に三角形が作られていた。もう三本は千絵が手に持っていて、空中でやはり三角形になるようにしていた。ただし机に置かれた三角形とは上下が逆だ。
「ここに来て、上から見てみて」
「あいよ」
呼ばれて、美咲は彼女の隣まで歩いて行った。空中で逆三角形に保たれているペンの間を通して、机の上の三角形を見る。
「ぴったりはまるところを探して」
千絵の言う通りに美咲が少し首を動かすと、ちょうど空中の三角形の中に、ぴったりと机の逆三角形が収まる形になった。
「ああ、そういうことか」
この様子を見えているそのままで平面の紙に描き写せば、確かに正三角形が四つある、と言えそうだ。
「どう、これで合ってる?」と千絵は美咲を見た。
「えっと、本に載っていたのは違う答えだったんだけどな……」
美咲は顔を上げて言った。彼女は千絵の持っていた三本のペンを借りると、机に置いてあった三角形の上に、三角錐のフレームを作って見せた。
「こうすると、四つの面がどれも正三角形ってね。あんたが考えたのは別解だよ」
「そっかぁ」と言って千絵は椅子の上で大きく伸びをした。「こっちのほうは全然思いつかなかった」
「でも、ちょっと悔しいといえば悔しいかな、私が」
「どうして?」
「うーん、なんかねー」
美咲は持っていたペンを机の上に戻すと、ベッドの上に寝転がった。
「うん、やっぱり悔しい」
「ねえ、どうしてってば」
千絵は訊くが、美咲は唸るばかりだった。