浦島姫子の失踪
◇ ◆ ◇
浦島姫子は世の人間皆が認める天才だ。
四歳までに難攻不落と呼ばれたミレニアム懸賞問題をすべて解明し、現在に至るまでジャンルに隔たりなく無数の論文を発表している。
現在九歳の彼女を、科学者業界の裏を知る人間たちの間では知らない人は存在しない。
『早すぎた天才』とも呼ばれ、『現代社会科学発展の四割が彼女個人の業績』とも囁かれる。
推定では生後三歳時点で博士号と同等の才能を持っていたとされる姫子。
だからこそ、周囲の人間たちは、一人の幼い子供として見なかった。周りからの視線は、常に別次元の存在を見るような視線だった。
崇められていた、と言えば的を得ているかもしれない。
だからこそ、先ほどの越前龍からの一言は、新鮮で意外なものだったと言える。
彼女は先ほど、人生で初めて『子供っぽい』と評されたのだ。
同時に、何かを思い出すように、撫で回された頭の髪を整えてさする。
ああやって、誰かに頭を撫でられたというのも、本当に久しぶりだった気がする。
それをしてくれるはずの姫子の両親は、両名ともこの世にはいないのだから。
(……変な人)
いろいろな意味で新しい刺激をもたらす越前龍という人物は、姫子から見てもユニークであった。
四十歳の男性が、時間を超えて小さな体に転生したとも言える存在。
記憶遺伝とも断定できない初めてのケースに、先天技能研究の第一人者でもある姫子でさえ、プロフィールを見た当初は軽く困惑した。
そんな変人が、いつの間にやら自分と同じ職場で働くこととなり、あっという間に魅夜子と華の信頼を得ている。
二人は社交的な性格だ。特に魅夜子は、自分と違って、自分から人と仲良くなろうという意志がある。
魅夜子も姫子も、最初は互いに、親がいない、周囲に友達もいない孤独な者同士が寄り添っただけのものだった。
しかし、気がつけば、自分とは違う場所で魅夜子は交友の輪を作り出し、自分は魅夜子に寄りかかったまま、変わることはなかった。
生意気というわけではない。しかし自分の功績は周囲の人間たちをひとりでに屈服させるには十分すぎた。
姫子の周りの大人たちは、研究結果を求めるイエスマンしか存在しない。少なくとも姫子自身はそう思っているし、それが姫子の望んだ環境だった。
上司と部下以上の関係でなければ、不用意に誰かを傷つけないのだから。
それは、過去に大切な人間をはからずも傷つけてしまった姫子の変わらない思惑である。
(……そうか、あの人と同じ歳なんだ)
姫子は、常に身から離さず着ている、大人用のよくクリーニングされただぼだぼの白衣を握りしめる。
胸ポケットの裏には、『Jin Urashima』と刺繍されている。この白衣の持ち主であった姫子の父も、もし今でも生きていれば丁度四十歳のはずだった。
小さな気付きの後に襲いかかる、かすかな疎外感。この数日、いつの間にか魅夜子と話すことも少なくなった。今、魅夜子の視線の先は龍の方から動いていない、そんな気がしてならない。
(……らしくない。やめよう)
姫子は思い浮かんだイメージを頭の中でも払拭し、息を整える。
交友関係で頭を悩ませるなど自分らしくもない、と強く考える姫子。
姫子には、自分で片付けなければならない仕事がある。どれほどの時間がかかっても、自分が解決しなければならない仕事が。
魅夜子と遊ぶのはそれからでも遅くない。
むしろ、堂々と皆と接することができるように取り除かねばならない禍根なのだから。
姫子の一日は動き始める。今日はヨーロッパから秘匿で来日している科学者協会の重鎮方との会食があるので、これから昼までに都内の高級レストランに向かわなければならないのだ。
「お待ちしておりました」
「ん」
添乗員の迎えを受ける。地下駐車場に出て、待ち合わせしていたレンタルの高級車に乗り込んだ。
姫子は生まれつき両足が不自由であるため、常に車椅子が手放せない。この車椅子はあらゆる緊急事態に対応するためのカスタマイズ製だ。
その気になれば時速百五十キロで走行できるほか、小型の収納火器や防御機能も充実している。
もちろん自動車に乗る際も想定されており、自動で自動車の後部座席に車椅子が座らせると、一瞬にしてコンパクトに変形し、背負う態勢で背中にセットされ、持ち運びも可能である。
――そして、その直後に、姫子ははっと気付かされる。
最初に気づいたのは、まるで最初からそこが指定席かと言わんばかりにじっと座っていた、助手席の見知らぬ幼女の姿であった。
髪はブロンドで、頭にはボロボロのリボン。無造作に伸びている髪はひどく傷んでおり、服もまるで童話に出てくるシンデレラのような古くボロイ布一枚の簡素なもの。
その容姿だけで普通ではないと分かるが、姫子が感じた大きな違和感の中心は――虚ろで生気のない目であった。
「ッ!?」
すぐにその車内から出ようと外へのドアに手を掛ける。しかし、そのドアはびくともしない。
先程、様子がおかしい点もなく普通に送迎していたはずの添乗員が、そのドアを尋常ではない力で抑えていたのである。
姫子は再び恐怖する。その搭乗員の目もまた、同じように生気を失っていたからだ。
「そん、な……っ」
右ポケットに手を入れ、取り出すのは無線機に近い小型の機械。
今の状況は危険だと判断した姫子は緊急用の救難信号スイッチを押そうと試みるが、直後に両手を強い力で抑えられる。
両手を抑えたのは他でもない、助手席に座っていた謎の幼女であった。姫子に触れているわけでもない。ただ、その幼女が右手を姫子に向けると、姫子の体が金縛りにあったかのように動かないのだ。
姫子は異様な状況に驚愕し、一瞬声も出せず、脂汗を流し、恐怖と動揺が混じった顔で硬直する。
その隙を謎の幼女がは見逃さない。謎の幼女は、姫子の目前まで顔を接近させて、生気を感じない不気味な視線で姫子の目をじっと見つめる。
姫子は意地でも視線を逸らそうともがくが、依然として体が動かない。
そして、謎の幼女はそのまま、姫子に囁きかけるように、こう呟くのだ。
「wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.」
「……――」
それ以降、姫子の体は動かない。姫子も同じように、生気を失った目のまま、人形のようにじっとするだけだ。
一時的に感情や意思が奪われたような、異様な様子であった。
様子を確認すると、謎の幼女は助手席に座り直す。運転席でほくそ笑む、痩せこけた五十代前後の男性に頭を撫でられながら。
「浦島姫子さんには、"『よし』と言うまでぐっすり寝ていただきましょうか"。先はまだまだ長いのですから」
痩せこけた男の言葉が姫子の耳に入ると、ぷっつりと糸が切れたように後部座席に倒れ、穏やかな寝息を立て始める。
今起こっている異変に、まだ気づかぬ人はいない。姫子を秘密裏に拉致した高級車は、研究センターの地下駐車場から悠々と出発していく。
目指す場所は高級レストランではなく、ひとつの新たなる事件へと。