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桃姫〜Please don't take my Sunshine away〜  作者: noonpa
第一章 Flower and Sunshine
1/9

序幕

 ──世界は汚物で満ちている。

 前後左右上も下も見渡す限り、クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ。

 そんな掃き溜めのような世界に華が一輪咲いている。

 華は思った。

 何故、何のためにこんな場所で自分は咲いているのだろうかと。

 ──我輩は猫である。

 後世の文学史に残るような事を言いたげな瞳をした、ふてぶてしくも何処か愛らしい──そんな小さくて真っ黒な毛むくじゃらのクローズアップから、この物語は始まる。

 冬の終わり。地理的な理由もあってか、例年あまり降らないはずの雪が、この年はやけにポツポツしていた。歩けば滑るし、止まればズボる。多くの子供は楽しく雪合戦なんかに興じているけれど、それを横目に義父に言われて毎日村の中心にある井戸まで水汲みに行かされる少年からしてみれば、それは嫌がらせ以外の何物でもなかった。

 うっすら雪化粧され、所謂銀世界となった村。その村の真ん中で、寂しくないのか、ただ一点、炭の様な色をした毛むくじゃらは、マイペースに、額を前足で丹念に洗ってたりする。その悠々自適な姿からは、ある種の大物感すら伺えた。

 そんな毛むくじゃらとは対照的に、挙動不審な態度を取る少年。毛むくじゃらを目にしてから「どうしよう、どうしよう」なんて言いながら、キョロキョロと辺りを見回していた。将来小物で終わる典型的リアクションである。

 にゃあ。

「な、鳴いちゃダメだって」

 にゃあ?

 毛むくじゃらは、首を捻るような仕草をする。

「うっ……」

 かわいい。

 ものすごくかわいい。

 そのとびっきりの愛くるしさに、少年は自分の内側から湧き出てくる欲求にとうとう抗う事もできず、手を出して毛むくじゃらの頭を撫でてしまう。また、撫でられた方もそれを気持ち良さそうに目を細めて受け入れた。

 そんな顔を見てると、更にその肉球をプニプニとしたいなんて思うのだけれど、今がそんなことが許されるようなほのぼのとした状況ではないのは、少年も痛いくらいにわかっていた。

 市販の地図上には、ここらの険しい山で囲まれた地域一帯を『赤木村』なんて記しているが、そんな風にこの地を呼ぶ村人なんて一人もいない。いや、それどころか純粋な人間ですら殆どいないのだ。

赤鬼村あかおにむら

 それがここの正式名称。

 猫どころか犬や狸、人間さえも含め、肉のついた生き物であれば、入ったが最期二度と外の光を拝むことはできない、文字通り赤い鬼の住む村である。

 見たところ、この毛むくじゃらは産まれて何ヶ月も経ってない、本当に赤ん坊の様だ。親猫が見失った──というよりも、この様子だとおそらく、こいつが面白半分にこんな場所に来てしまったように思える。

 虎穴に入らずんば──なんて諺があるわけだが、実際虎穴に好き好んで入るのは馬鹿な人間だけ。普通の生物は、自分を食い殺す者がいる場所に近づかない。けれど、このまだまだ小さな毛むくじゃらは、そんな野生に生きる者として不可欠な危険察知能力も育たない内に、また小さな身体と反比例するかの様な大き過ぎる好奇心をもって、この村に入ってきてしまった。

 どうやってここから逃がそう。

 少年は必死に頭を巡らせるが、なかなかいいアイディアが浮かんでこない。

 ──そもそもそんな方法があるのなら……。

「…………」

 なんとかして匿う?

 ふと、そんな考えが頭を過るが、すぐにそんな非現実な手段は早々に除外する。それこそ、猫の額程しかない自分の寝床に、このやんちゃなチビをどう匿えというのか。

 あれでもないこれでもないと、小さな脳をめいいっぱい絞っていると──


「ニャンニャンだあ!」


 そんな声が彼の鼓膜を揺さぶった。

 ここらではあまり聞き慣れない、ソプラノの声。

 その声に思わずその場で飛び上がりそうになる。心臓は痛いくらいばくばくと鼓動し、恐る恐る背後を振り返る。


 ──太陽。


 まず初めに、その子を見て思ったことは、これだった。

 定時になれば、いつだってその場の状況関係なしに昇ってくる空気の読めなさ。

 無駄に明るく、そして鬱陶しい程に暖かい──彼女の表情は正にそれだった。

 この辺じゃ見たことのない──いや見る筈もないヒラヒラでモコモコ、そしてどこか煌びやかささえ感じる衣装に身を包んだその子は、絵本の中にいるような細やかで透き通るような銀髪をそよ風にたなびかせていた。赤鬼特有の健康的な小麦色の肌は、そのくせキラキラとする服との違和感をまるで感じさせない、そんな嘘みたいに、本当に嘘みたいに綺麗な子であった。

 そして、それほどの容姿以上に目を引くのは何と言っても頭部の右側に携えた向日葵のような──角である。直径三十センチはありそうな白いそれは、明らかに小さな身体に合ってはいない筈なのだが、そのちぐはぐ感が逆に子供としての可愛らしさを際立たせていた。

 少年は不意に、そんな自分と同年齢くらいの子を暫しぼーっと見ていた自分に気がつく。顔が熱い。心臓がはち切れんばかりに、ばくばくと言っている。胸が苦しい。

 何だこれ?

 何だこれ!?

 生まれて初めての感覚に、少年は心の中で激しく狼狽した。心臓は未だに鳴り止まない。もしかしたら何かの病気なのではないだろうか。


「おかおまっかっかだよ? だいじょうぶ?」


「────!?」

 言って、その太陽みたいな子は覗き込むようにして彼の目を見つめた。

 アーモンド型の大きな瞳。

 少女の何気ない仕草に心臓は更にその動きを増していく。この激しい動悸の原因が目の前の子にあるのは明らかだ。

 少年は下唇を噛む。

 角の大きな奴と会うと、ろくなことがない。

 鬼の世界には『角の大きさは強さと勇敢さの証』なんて言い伝えがある。

 別段根拠となる様な物は無い筈なのだけれど、それは多くの鬼達に信じられていた。角の大きな鬼は多くの鬼たちから敬われ、逆に小さな鬼は蔑まれる。

 そして、少年の角はとても小さかった。

 小指の先程の大きさくらいしかない。一目ではその存在に気付くことさえ困難だ。

 そんな少年に対する周りの眼は、恐ろしく冷たい。

 同世代の子供からは石を投げられ、そんな姿を大人達は嘲笑う。

 そして何よりも最悪なことは、少年の義父でさえもその言い伝えを信じているということである。

 まだ、五歳にも満たない少年を毎日奴隷のようにこき使い、服も碌に着せてもらえず、いつもボロボロの布切れを身体に巻いていた。食事が無かったり、暴力を振るわれることも日常茶飯事。「このクソが!!」なんて罵られながら酒瓶で何度も殴られる。

 ──俺はクソなんだ。

 そう考えると逆に納得できる物もある。

 村人たちの目は、確かに同じ鬼を見る目ではない。

 クソ──汚物を見るような目だと考えると辻褄が合う。泣きたくなるくらいに。

 誰もが自分を認めてくれない場所。

 耐え切れなくなり、逃げようとした事もあった。

 このままこんな所にいても碌なことにならないのは明白だ。

 だから、鬼のいない人間の世界に向かって駆け出した。

 ──けれど、その全ては失敗に終わる。

 肉の付いた生き物──それは鬼でさえ例外ではない。

 勿論、外界と必要最低限の接触をするために村から出る鬼がいるし、中には外界に居住を構えた鬼だっている。だが、それは全て村の偉い鬼からの許可が必要であり、体のいい奴隷である少年にそんな物が下りるわけがない。

 決して逃げることができない、牢獄の様な世界。

 そして、そんな彼だからこそ分かる。

 この小さな毛むくじゃらが逃げることはとても難しいことだ。

 今、幼いながらも巨大な角を生やした鬼に見つかった。

 このままでは、こいつは骨も残さず喰われてしまう。

 どうしよう。

 どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうし──


「ねえってば!!」


「ほえ?」

 思わず間抜けな声を出してしまう。どうやら彼女はずっと自分のことを呼んでいたようだ。

「あはは。ほえ、だって」

「な、なんだよ?」

「あのね。このニャンニャン、きみのともだちなの?」

「とも……だち……?」

 よく……わからない。

 そもそも自分に友達なんてできたことがない。

 住人の全員が自分を見下すこの村で、そんなものできるわけがない。

 そもそも友達というのが、何なのかもわから──

 にゃあ。

「え?」

 毛むくじゃらが少年の手をポンポンと叩く。俗に言う猫パンチというやつだ。何故かその表情はとても偉そうである。

 その様子に少女は、目を大きく見開き、

「ニャンニャンがお友達だって! すごーい!」

 と、言いながら一鬼ひとりと一匹を見る。

 お日様の様にキラキラと輝かせた目で見る。

 それは、他の村人たちのそれとは全く別の物だった。

 今まで動物とこんな風に心通わせる鬼なんて見たことがない。

 すごい!

 かっこいい!

 一方の少年は、まだ状況が把握できていなかった。

 ともだち、というのがよくわからなくて。でも、何か、凄く暖かな響きの様な気がして。

 彼の心はずっと冷めきっていた。この雪空のように。冷たく、硬くなっていた。誰からの愛情も受けられなかった彼の境遇からしてみれば、それは哀しいくらいに当然のことであった。

 そんな彼に向かって、

「じゃあね、ひめも、きみと、ニャンニャンとおともだちになる!」

 太陽みたいな子は、コロコロと笑いながらそんなことを言う。

 その笑顔を見ていると、また男の子の心臓が強く鳴り始めて。そして、それが、何だか無性に恥ずかく感じて、

「い、イヤだよ。オカマのともだちなんて」

 その笑顔から目を背け、吐き捨てるように言った。

 ただ、単に気恥ずかしさだけから、その台詞が出たわけではない。

 少年がその子をオカマだと言ったのには理由ワケがある。

 鬼に女はいない。

 この時の二鬼ふたりには知る術もないのだが遺伝子的に鬼には女が出来にくいのである。その確率数百万分の一。三毛猫のオスが産まれる確率よりも更に低い。

「オカマじゃないもん! ひめはおとめだもん!」

「う、うそつけ!」

「うそじゃないもん!」

 角の大きな子はムッとした表情で返す。

「じゃあ、しょーこ見せてみろよ!」

「いいよ! みせたげる!」

 そう言って、子供は自身のスカートの中をゴソゴソとし、お気に入りのクマさんパンツをズルっと下げ、そして自分のスカートを巻くし上げる。

「………………」

 ………………。

 …………。

 ……。

 少年は固まった。

 先程までうるさいくらいに鳴っていた心臓が、その一瞬だけ止まった気さえする。

 なんか無かった。

 なんかが何かと問われたら、そりゃあもうあれである。

 生命体が用を足す時に必要なあれである。

 ゾウさんである。

 大きくなったらマンモスになるあれである。

 あれが目の前のオカマには存在しなかった。

 股には縦筋が一本見えるだけだ。

 はあ?

 こいつ、どうやっておしっこするの?

 まず疑問に思ったことはそれだった。

 おしっこはゾウさんがないと出来ないのだ。そのゾウさんがない目の前の子供にどうしておしっこができるのだろう。

「ふふん」

 一方のパンツを捲った側は、勝ち誇った笑みを浮かべて、パンツを履くと、固まってる少年を他所に小さな毛むくじゃらに近づく。

「ニャンニャン。ひめとあそぼ?」

 その声にようやく我に返った少年は「おいっ!」と振り返るが──その時にはもう何もかもが遅かった。

 少女は毛むくじゃらの髭を触ってしまった。

 猫の髭はレーダーとして働き、生きるための重要な役割を担っている。

 先程まで心地よく撫でられたのが一転、猫として最も触られたくない場所を触られた。

 にゃぁあああああああああ!

 そんな悲鳴じみた鳴き声と共に、

「きゃぁあああああああああ!」

 少年の目の前で血飛沫が上がった。

 直後に響き渡る絹を割く様な叫び声。「痛い痛い」と喚きながら顔の右側を抑えてその場でジタバタとする少女は。

 そして、それを呆然と見ていることしかできない。

「今のは、姫様か!」

 そんな声が遠くから聞こえ、少年はようやくハッとなる。

 ダメだ。

 このままじゃダメだ。

 このままでは、こいつが……初めての『ともだち』が殺されてしまう。

 少年はまだ興奮気味の毛むくじゃらを無理矢理抱え、森の方へと走る。抱えられた方は、怯え、唸っていたりしたがそんなことを気にしている場合ではない。

 できる限り遠く、誰にも見つからないところまで──


 ○ ○ ○


 結論を言えば、少年らはあっさりと捕まってしまった。時間としては一時間も経っていない。今回はいつもの家出騒動とはわけが違うようで、村中の大人達が物凄い形相で一人と一匹を追い回した。

 捕らえられた少年は荒い縄で痛い程に強く手足を縛られ、毛むくじゃらは檻の中に入れられる。目隠しをされたその時には、もう命を諦めた。

 元々幸先良さそうな鬼生じんせいではなかったし、そこまで落胆はなかった。もしかしたら、これが一番幸せなのかもしれない。

 …………でも。

 少年は先程から、籠に入れられにゃあにゃあ言ってる方へと目を向ける。鳴き声を聴く限りまだまだ元気そうだ。

 この小さな毛むくじゃらだけは、自分の初めての『ともだち』だけは助けて欲しい。そう少年は思った。

 けれども──

「殺すべきです」

「────!?」

 そんな少年の気持ちを両断するかのような冷たく鋭い、刃のような声が、その場に制する。

 目隠しをされてよくわからないが、自分のいる場所は何やらひどく広い空間だった。正座した膝の感覚からして、畳の部屋らしい。

「姫様を傷付けた者、畜生は勿論、この角無しのガキも殺すべきです」

 失礼な。角あるわ。ちっちぇえけど。

 大体、と思う。

 こいつらは揃いも揃って角角角角。それなら、あのゾウさんのないあいつの方が余程おかしいのではないか。

「更にこの肌の色。ガキの親にも確認しましたが、その出生はあまりにも不明瞭。……もしかしたら村の外から来た刺客やもしれません」

「?」

 斬れる声が言うことは、しかし少年にはよくわからない。

 少年は捨て子である。

 村の迷信じみた言い伝えを信じた両親が差別等を怖れて自分を手放したのであろうと少年は考えてきたし、今もそう思っている。

 だが、男の言い方から察するに、自分はこの村の生まれではない可能性があるという。

 確かに、自分の肌の色はこの村の人々からすると、明らかに薄かった。むしろ、たまに村にやってくる馬鹿な人間の方に近いくらいである。

 そんなこと考えたこともなかった。

 それに刺客って?

「そして何より、この畜生は親方様の大切なご息女であられる姫様のお顔に傷を付けました。仮に此奴が只の村の子供だったとしても、畜生共々即座にすり潰すべきです」

 すり潰す……って俺はリンゴか。

 少年はは思わず心の中でツッコミを入れる。

 それにひめさま……。

 確か、あのゾウさんがない奴が自分のことをそう呼んでた気がする。

「………………」

 まあ、どうでもいいか。どうせ、これから死ぬんだ。

 そう考えると、一転、不思議なことに軽やかな気分になる。

「……よし」

 少年は決心する。こうなれば、言いたい事だけ言って死んでやる。

「お願いで──」


 ──ゴギンッ!


 そんな音と共に、鋭い衝撃が身体を貫く。

「────っ!?」

 肺にある全ての空気が潰し出され、呼吸さえ困難になる。当然叫び声を上げる余裕なんてない。

 こんなの初めてだ。

 何年も義親に暴行され続けてきた少年ですら、味わったことのない強い痛み。

「お前、いつ、誰が口を開けて良いと言った?」

 冷たい、とても冷たい声。

 その声に少年は何の返事も出来はしない。

 ああ、いてぇ。

 生まれて初めて味わうリンゴの気分は、決して果実のように甘いものではなかった。

「うぐっ……」

 ……だけど。

 凄く……痛い、けど。

 ここで口を閉じるわけにはいかない。

「そこの猫だけは助けてください!」

 少年は腹の中から、必死に声を出す。

「こいつは悪くないんです! 怖かっただけなんです! 俺がその、ひめさまってのを止められなかったのが悪いんです! 全部俺が──」

「口を閉じろと言ってるのがわからぬか!」

 ──ゴンッ! ゴンッ!!

 ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン!!

「────ッ!」

 何度も何度も殴られる。身体から果汁も出てくる。ジュースになるかジャムになるか。真っ赤な真っ赤な果汁。ちゃんとラベルを貼らなければイチゴのジャムと間違えられるかもしれない。

「そい……つだけは…………許し……て……」

 すると、

「そのためなら自分はどうなっても良いと言うか?」

 今度は全くの別の方向、距離はかなり離れた場所から、静かに、それでいてとてつもない力強さが感じられる空気の振動が少年の全身を揺さぶった。

「応えろ、童」

 ただでもジュースに塗れだというのに、その声が身体中の穴という穴から先程とは違う液体を絞り出す。

 止まらない身体の震え。

 寒い。

 怖い。

 見えない迫力に圧倒され、もう何もかも諦めてしまいたくなる。

 ──でも、決してそれだけではなかった。

「ぐぅっ……」

 少年は歯をくいしばる。

 目隠ししててもわかる。

 きっとこの場にいる鬼共は、みんなあの目で自分を見てる。

 あの、汚物を見るのかの様な目で。

 ──なんで。

 なんで、自分ばかりがこんな目に会わなけばならないんだ。

 他の奴らは皆んな呑気に笑ってる中、いつも自分だけが辛い思いをしている。

 そして、今、自分は殺されかけている。

 初めての『ともだち』と一緒に。

 ──ざけんなよ。

 俺がクソ?

 じゃあ、お前らは一体何なんだよ!!

 お前らのどこが良くて、俺のどこが悪いんだ!!

 ……違う。

 俺はクソじゃない。

 俺をクソ呼ばわりするお前らがクソなんだ!!

 もう嫌だ!!!

 目隠しされた目で、少年は声の方を睨む。

 絶え絶えになる呼吸を、無理矢理整え、そして──


「何も……何も悪い事をしてないのに殺される。こんなクソみたいな世界……こっちから願い下げだ!!」


 ──世界は汚物で満ちている。

 前後左右上も下も、クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ。

 種子が一粒、この掃き溜めの様な世界で芽を出した。

 種が芽吹くのに意思はない。

 ドロドロの汚水と、異臭を放つ空気で芽を開く。

 けれど、そこは常闇の世界。

 どこに光もありはしない。

 光がなければ、芽は育たない。

 だから芽は考える。

 何故自分は発芽したのだろうかと。


 言ったと同時にまた身体に強い衝撃が襲った。少年は縛られたままうつ伏せに倒れる。

 ああ。

 もう終わりだ。

 意識が薄れていく。

 ごめん。

 生まれて初めての『ともだち』。

 俺はお前を助けることができなかった。

 身体中から力が抜けていく。

 どんどん感覚も無くなってきたその時──

「七丸、童に巻いてる邪魔な布切れを取れ」

 あの、揺さぶるような声が、そんなことを言った。

 その言葉に、冷たい声の男は冷静さの中に一滴の動揺が混じりに言う。

「ですが親方様──」

「ワシの命令が聞けないか?」

 瞬間背中がぞっとする様な、そのくせ凄まじく熱い熱気のようなものが身体全体を襲う。

 炎と氷──二つが世界の緊張を更に高めていく。

「お前が俺の右腕となって久しい。その盟友であるお前に問うのだが、右腕というのは主に逆らうものか?」

「…………」

 男は暫し無言になるが、すぐに少年に巻かれていた目隠しが取り去った。

 だが、そんなことで奪われた体力は元に戻るわけもなし。男の子は霞む視界で周りを見渡した。

 少年のそばにはおそらく先程まで殴っていた、七丸と呼ばれた男が立っていた。

 少年と男の目が合う。

「フン……」

「…………」

 狐のように細い瞼の奥には、予想通り、あの汚物を見るような目があった。

 他にも数鬼すうにんの鬼がいたが、皆男とそこまで大差ない。

 今までと何も変わらない。

 村の鬼達、自分を奴隷のように扱った義父、その全てが全く同じ目でこちらを見てきた。

 そして、そんな目の奴らに、今自分は殺されかけてる。

 嗤える。

 何て嗤える鬼生じんせいだ!

「……クソったれ」

 もういい。

 ふと、自らの置かられてる状況を知らずに、未だ呑気ににゃあにゃあ鳴いてる小さなそいつを見る。

 自分は生まれて初めての『ともだち』のために命を張ったのだ。

 確かにそれは無駄な努力だったのかもしれない。

 でも、そう考えると、不思議と悪くない、誇らしささえある、そういう気分になる。

 こんなクソみたいな鬼生じんせいにも、ほんの少しだけ意味があったんじゃないかと思える。

 少年は目を閉じた。

 心の中が奇妙なくらい静かになる。

 きっと自分はこの時のために生まれてきた。

 だから──


「おい童」


 先程、部屋を揺さぶっていた声が、また聞こえる。

「面を上げろ」

「………………」

 少年はゆっくりと目を開け声が聞こえた部屋の奥の方を見る。

「────ッ!?」


 ──そこには鬼がいた。


 座っているというのに、その高さは二メートルを超えてる。そのくせ身体はがっしりとしており、大男と呼ぶのに何ら不足ない存在感を醸し出していた。ギョロリとした眼球は見ただけで身体が竦み、ギザギザの牙は肉どころか骨まで噛み砕くだろう。だけれども、一等目を惹いたのはそんなものではない。驚嘆すべきは、その天まで届くような巨大な一本角。

 少年の側にいるキツネ目の男は、あの少女程ではないものの、今まで見てきた大人の誰よりも角が大きい。他の多くの鬼達も似たり寄ったりだ。

 だが部屋の奥にいる大男──親方様と呼ばれた男は、彼らや少女と比べても別格であった。

 大きさもそうだが、枝分かれなく雄々しくそびえ立つそれは、大きな角に悪意しか抱かなかった筈の男の子ですら、我を忘れて呆然と見惚れてしまう。そりゃあ、こんな角の奴がいたら、鬼共が大きさだなんだと言ってしまうのも分かる気がした。

 ──圧倒的。

 圧倒的に、目の前のそいつは鬼であった。

 混じりっ気なんか無い。

 純粋な鬼。

 放つ存在感だけで、全てを諦めたくなる。

 ──でも、ダメだ。

 少年は目の前の鬼を睨む。

 ここで引き下がるわけにはいかない。

 既に捨てた命。

 相手が鬼だろうが死神だろうが、引き下がる理由には足りない。

 食いしばる。

 口が血の味に溢れるが、問題ない。

 少年は鬼を睨んだ──その時だ。


「いいツラじゃねェか」


 鬼がそんなことを言ったのは。

「…………え?」

 思わず惚けた声を出す少年。

 鬼はそんな少年を見てニヤニヤと笑う。

 それは少年の見てきた他のどんな目とも違うものだった。

 ギラギラと煌き、しかし、どこか優しさを帯びたそれは、あの少女の瞳とも似ているが少し違う。

 今までこんな目で自分を見てきた奴なんて一鬼ひとりもいない。鬼達はいつも、自分の角を見ては馬鹿にし、虐げてきた。「いいツラだ」なんて言われるわけがない。だから、少年にはその目が、その言葉が、一体何を意味していたのかすらわからなかった。

 そして、何故自分の目から涙が滝のように次から次へと溢れ出てくるのかもわからなかった。

「一体何だって──」


「おとーさまっ!!」


 突然そんな声が後ろの方からこの広間を蹂躙する。

 少年が思わずその方を見ると、そこには、あの太陽のような子が睨む様な目で立っていた。と言っても、その瞳は一つ。もう片方は白い包帯と大きなガーゼでグルグルにされている。

「姫。傷の方は──」

「そのこたちをころしちゃめっ!!」

 鬼の声を待たず女の子は叫んだ。

「そのニャンニャンはひめのペットにする! そしておとこのこは」

 女の子──姫は男の子の方を指差して

「ひめのみぎうでにするのっ!」

 なんて言ったのだ。

 ……はあ?

 ナニイッテンノコイツ?

「姫様それはなりません」

 静かに狐目の男は言う。

「この畜生は姫様のお顔に傷をつけました。それは決して許されません。ガキに至っては今も姫様に向かって『ナニイッテンノコイツ』とでも言いたげな胡乱な目をしています」

 えっ? そんなの目でわかんの?

「ニャンニャンはひめがわるかったの!! こいつのめはひめがきょーせーさせる」

 いや、きょーせーって。こいつ、何する気なの!? なんか怖いんだけど!!?

 てか、よくよく考えてみると、全部こいつが、いらんちょっかいを出したのがそもそもの原因である。それさえ無ければ、少なくとも自分は今死ぬ様な思いをせずに済んだだろう。

 空気が読めないのを罪だとは言わない。

 だが、読めないんであれば、お願いだから、もう何もしないで欲しい。

「姫様、聞き分け──」

「面白い」

 言葉を遮られた狐目の男は奥でニヤニヤとしている鬼をジロリと見る。けれど、それを無視して親方様は続けた。

「親方様!」

「なあに。すぐにとは言わんよ。齢が十五になるまでに使えなければ、捨て置けばいい。それまでの教育係を七丸──お前に命ずる」

 何だ? 何が起こってる?

 少年には状況が全く掴めない。

 一方で狐目の男は、一層冷たい氷の刃の様な目で奥の鬼を見る。

「……私に子守をしろと?」

「そうではない。こき使ってやれと言っているのだ。お前の時もそうだっただろう? 歳も丁度同じくらいだ。」

「…………こんな角無しと一緒くたにしないで頂きたい」

 そう言って、一瞬少年を睨む。

「先程の問いに応えさせていただきます。『右腕というのは主に逆らうものか?』……答えは是です。親方様が道を違えていると判断した時、私はあなたの右腕として容赦無くあなたに刃を向ける所存であります。その覚悟はおありで?」

「良い。それでこそ無二の盟友にして我が右腕よ」

 親方様はカッカッカッと豪快に笑った。

 それを見た七丸は、とうとう諦めた様に息を吐き、もう一度少年を睨んだ。

「ガキ。名前は?」

「あ、えっと──」

「名前はっ!!」

 その声に圧倒され、少年は応える。

「も、桃だ」

「────!?」

 瞬間、その場の世界が氷ついたような感覚に襲われる。

 先程まで熱く燃えたぎっていた親方様でさえ言葉を失っていた。

 だが、構わず少年は続ける。

「俺の名前は桃だ」

「……桃だと?」

「ほう」

「かわいいー!!」

 七丸は一転驚いた風に。

 親方様は興味深そうに。

 姫は面白そうに、それを聞いた。

 世の中には、一見只の御伽噺に思えて、その実本当に存在した話というのは意外と多く存在する。

 日本で最も有名で人気のある『桃太郎』もその一つだ。

 千年近く昔、当時鬼ヶ島なんて呼ばれた島で多くの女を攫い子孫繁栄に勤しんでいた鬼達が、一人の青年と幾らかの畜生達によって惨殺された。

 人間にとっては英雄伝かもしれないが、鬼にとってはこれ程にはない、屈辱的な歴史である。

 そのため、『桃』という字は鬼達にとって、忌み嫌われた字として語り継がれている。

 そして、目の前にいるまだ五歳ほどのちっちぇえ男の子がその字を名乗った。

 親が余程、自分の息子を嫌ったのか、それとも他に理由が──

「もも、よろしくね」

「…………」

 差し向けられた少女の、太陽光のような笑みに、しかし、桃は戸惑うことしかできない。

 そんな二人を見て、鬼は微笑む。

 少年がどこの誰だかはわからないし、興味もない。

 娘に出来たこの繋がりは、彼女にとって大きな財産となるだろう。それを思えば、少年の出生なんて、あまりに些細なことだ。

 そんな二人を忌々しそうな顔で見ている右腕と自分が初めて出会った時のことを不意に思い出してしまう。

 何にしても

「面白いことになりそうだ」

 そう大男──赤井真熊は呟き、笑みを零した。


 ──世界は汚物で満ちている。

 前後左右上下を見渡しても、クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ。

 そんな掃き溜めの様な場所で、小さな芽は刮目した。

 こんな世界で、光が自分を照らしていた。

 陽光に包まれた芽は思う。

 自分が何のために芽を出したのかはわからない。

 もしかしたら、自分が枯れ落ちるまでわからないかもしれない。

 ──でも。

 わかることもある。

 きっと、自分はこの光を永遠に忘れることはないだろうと。


 ◯ ◯ ◯


 にゃあああああああああああああああああ!!


 殺伐とした戦場にそんな声が響き渡る。

 これが合図。

 少年は静かに得物を構える。

 突如として上空から現れる三鬼さんにんの赤黒い男共。その腕には巨大なトゲ付きの棍棒が握られている。常識外れな怪力を持つ赤鬼が好んで使う武器だ。

 対する最近十二になったばかりの少年の手元には金属バットがたったの一本のみ。重量差は数百倍。耐久度も圧倒的に劣る。得物同士ぶつければ、まずバットの方が折れてしまう。

 体格差も無視できない。

 少年の方は華奢な身体というわけでもない──むしろ同世代の少年の中では引き締まった筋肉をしている──が、男達の方がボディビルダー顔負けの、ゴリラのような肉体をしており、身長も二百センチは軽く超えてる。最近はようやく百四十になった少年からしてみれば、目の前にいる男共は化け物にしか見えない。

 鬼数にんずう的なものもある。

 誰がどう見ても、圧倒的劣勢。

 けれど、少年は汗一つ零しはしない。

 男共は一斉に棍棒を振り下ろすが、少年がその流れに逆らうことなく、バットでいなし、

「おらよっ」

「ぐがっ!?」「ぼえっ!」「いやん」

 逆にその勢いを利用して、男達全員の首に一振りずつお見舞いする。

 どんな化け物、猛者であれ、強くはなく、鍛えられない場所というのが存在する。それが俗に言う急所という奴であり、少年は、それを正確に突く方法を熟知していた。

 「ガキが」「角無しの分際で」「まいっちんぐ」なんて口々に罵りながらあっけなく倒れていく男達。全身を屈強な筋肉で固められ、その骨は鉄よりも硬い彼らだけれども、打つ場所さえ間違えなければ、この程度で沈めることもできる。

 白目を剥く彼らを一瞥し、

「はっ。クソみてェな事言ってんじゃねェよ」

 少年は吐き捨てる様に言う。

「じゃあその角無しのガキにやられてるてめェらは一体何だってんだ。……てか、さっきから気になってんだけど、絶対一鬼ひとりオカマがいるよな」

 ……まあ、趣味趣向は鬼それぞれ。

 ましてや人の性格にケチつけるほど、自分は聖鬼せいじんではない。

 実のところ、少年も最近知ったのだが、赤鬼にはオカマが多い。

 鬼の世界は、完全男社会。女なんて殆どいない。時折人間の女が割り振られることもあるけれど、それも滅多にあることではない。そんな中だと、欲求不満のメーターが振り切れ、何かおかしな方向に行ったりだとか、容姿が多少女々しい──少年には化け物にしか見えないが──から、所謂女役になったりして、そういうのになるのは、案外珍しいことではないとか。

 ……だけど、「いやん」だか「まいっちんぐ」だかは勘弁してほしい。身体中鳥肌だらけだ。

 まあ、そんなことはどうでも良くて。

 少年は、最後の一鬼ひとりのいる山の頂上へと視線を向ける。

 あそこにいる鬼は、ここに倒れてる奴とは訳が違う。

 まともにぶつかってもまず勝てない。

「よし」

 逃げるか。

 少年は回れ右し、頂上とは真逆の方向を向くと、全身全霊をもってその場を離脱する。

 ある程度進むと、敵の攻撃を教えてくれた黒猫──ピオが、少年の肩に降りた。

「ありがとな」

 少年は猫の頭を一撫でするとまた、全力疾走でどんどん村から遠ざかる。

 険しい獣道だが、長年の土地勘故に全く迷うことはない。

 それから三十分程走って確信する。

 流石にあの化け物でもここまでは追ってこれまい。

「よし。これで俺らは自ゆ──」

「そいつは残念だな」

 瞬間、不意にガンッと身体中の骨を響かせるような衝撃を感じ、気が付いた時には少年──桃の身体は地球のGに反して空高く舞い上がった。

「うぁあああああああああああ!?」

 にゃあ。

 主人のそんな様子を、直前で離脱したピオはあくび混じりに見つめる。化け物──七丸はピオの前で腰を下ろすと頭を優しく撫でた。

「お前の主人はまだまだ詰めが甘いな」

 にゃあ。


 ○ ○ ○

 

 十二になった少年──桃は、右腕になる気なんてこれっぽっちもなかった。

 ここ、赤鬼村には百近い村鬼むらびと達がいるけれど、その中でも長い間、名実共に村のトップとして君臨しているのが赤井家である。強さこそ全てである赤鬼にとって、赤井家の鬼はまさしく赤鬼の長として相応しい実力を誇っていた。

 その中でも、現頭首──赤井あかい真熊まぐまの力は絶対的である。この世界で彼に挑み無事に済む者はまずいない。また、その厳格でありながらも仲間思いな人柄も多くの村人から支持される所以の一つである。現時点でそんな彼の決定を覆せる者は、娘である赤井姫、そして真熊の右腕である雲隠くもがくれ七丸ななまるくらいなものだ。

 つまり、七丸は現時点でこの村におけるナンバー2か3の発言権を持っているということ。赤井家でない筈の彼がここまでの地位に登り詰めたのは、ひとえに彼のその化け物じみた実力あってのものである。真熊を除いた赤井家──村民の誰よりも彼は強い。加えての冷徹なまでの判断力。常に緊迫した顔つきで、愛想こそ無いものの、やはり多くの村人から信頼を得ている。

 そして、もう子を産む気のない真熊の跡取りといえば、その娘である赤井姫しかいない。その右腕になるということはつまり、そういうことなのだ。

 早々にそれが無理難題ムチャぶりだと悟った桃は、これまで千を超える数の脱走劇を繰り広げたものの、その全てを七丸に阻止されてきた。

 初めの内は、名前も知らないような鬼に捕まることも多かったが、七丸の鬼のような──実際鬼なのだが──しごきを受けてきた少年にとって、最早そんな輩など物の数ではなかった。

 問題は、この狐のように目が細い化け物である。

「何で俺の行った方向がわかんだよ! 発信機でもつけてんのか!」

 両足を荒い綱で結ばれ逆さ吊りにされた桃はギャンギャンと盛りのついた犬の如く喚く。それに、あくまで冷静に七丸は応えた。

「私はお前の師だ。そのくらい目を閉ざしていてもわかる」

「クソみてェなこと言ってんじゃねえ! 年中寝てるか起きてるかわかんねェようなツラしておいて何が目をつぶっていてもだ! 何が「お前の師だ(ドヤ顔)」だ!」

 七丸はそんな桃の戯言など通り過ぎる北風程にも気にせず、縛っている少年の足の裏に文字通りひとつまみお灸を据える。

「あぢぃいいいいいいいい!!」

「これが終わったら、本日の鍛錬をこなせ。右腕になりたいのなら、毎日の肉体作りが必要不可欠だ。ただでもお前は他の鬼より筋肉が薄いのだから」

 その言葉に、桃は不意に先程自分を追いかけてきた三人の赤鬼の顔を思い出す。彼等は桃を「角無し」と罵り、汚物を見るような目で見ていた。

 少ないながらも友人はできた。初めの頃は彼等と同じような目をしていた七丸も、多少変わってきているように思える。けれど、未だに多くの鬼は、桃を一鬼ひとりの鬼としてすら見ない。

 また、何よりも自分は七丸に一太刀として浴びせたこともない。そんなやつに右腕なんて無理な話である。

「だからそんな気更々ねェつってんだろ!」

 桃がそんな咆哮をあげた時だった。


「だめだよ?」


 不意に聞こえたそんな声。

 最早聴き慣れた声に、桃はキッと睨むように声の出所を見る。

 けれど視線の先にいた彼女はそんな桃の目なんて物ともせず、コロコロと笑った。

「もーもはひめの右腕になんなきゃいけないんだから」

「うっせえ姫! てめェそこのクソ狐に言って、とっととこれ降ろさせろ!」

「やーだよー」

 振袖を着た少女──少年と同じく十二になった赤井姫は庭の景色を眺める様に縁側に腰を下ろし、最初に会った時から変わらず、あの太陽の様な笑みを浮かべ、そんなことを言う。

 そして、その膝の上にピオが飛び乗る。そこは毛むくじゃらのいつもの定位置だった。

「ピオ! てめェ裏切りやがったな!」

 にゃあ。

「ふふん。ピオは最初からひめの味方なんだから。ねー、ピオ?」

 にゃー。

 そう言って少女は、もうすっかり大きくなった猫の背を撫でる。

 あれから、桃がこの屋敷に来てから、皆とても大きくなった、と姫は思う。

 桃の背は大きく伸び、恐らくこれからもまだまだ伸びるだろう。ボサボサだった頭は、最近のマイブームであるオールバックでキメようとしてるが、その度に一房の癖毛がピョンとなってる。動きやすい甚平姿が更にそのちぐはぐ感を助長していた。

 最近は、お風呂に一緒に入ってくれなくなって、少し寂しいではあるけれど、それもやっぱり大事な成長した証なのだろう、と思うことにしている。

 まあ……。

「もも、その格好もかっくいいよ」

「な!? なんだよいきなり! んなわけあるか!!」

 今のように、姫が微笑んだり、褒めたりすると、桃の色の薄めな頬は本物の桃のような色に染めるのを見てるだけで、十分満足だったりするのだけれど。

 いやあ。美しさとは罪なモノよのぉ。

 そんなことを考えながら姫はコロコロと笑う。

 姫も桃に負けず成長していた。

 身体の凹凸こそ、未だ第二次性徴前のそれ(十五までにはDカップになる予定ではある)だが、姫自身、頭の向日葵の形をした角が映えるくらいに美人になってきたと自覚しているし、勿論これからも更に美人になる予定だ。

 ただ、目の傷はちょっと残ってしまって(これについて、桃やピオを恨んだことは一度もない)視力も殆ど無いので、髪で右目を隠している。別に見せても構わないのだけれども、これを見ると、目の前の少年がシュンとするのである。

「そう言えば、姫様」

 そう言って自分を呼ぶ七丸だって変わった一鬼ひとりだ。

「この間頂いた、『すまーとふぉん』大変便利にございます。本当にありがとうございました」

 無論背丈が伸びたわけではないけれど。てか、姿形は数年前からピクリとも変化がない。けれど、そんな彼だって大きく成長しているのだと姫は思う。

 少なくとも、桃と出会った当時は、桃のことを角無しと馬鹿にしていたし、ピオを畜生だと罵った。

 でも、今は違う。

 桃のことを弟子として認めているし、将来、本当に自分の右腕にしようとしている。ピオに対しても、優しい眼差しを向けるようになっていた。

 それは単に、彼の──桃のかっこよさに七丸も気付いたからだろう。

 口は悪いけど、どんな相手に対しても敬意を払って接することができる。この村にいる誰よりも優しい。だから、時間はかかるけど、相手が鬼だろうと動物だろうと、最後には仲良しになってしまう。

 力の強さや角の大きさなんかでは計れない。

 そんな彼のかっこよさ。

 七丸もそれに惚れてしまった一鬼ひとりなのだろう。

 ここにはいない父も、きっと、彼らから何かを大切なことを学んでいると、そう思う。

「ううん。気にしなくていーよ。その代わり、たっくさんももを鍛えてね」

「クソみてェなこと言ってんじゃねェよ!! これ以上酷くなったらマジで死ぬからな!! ……てか、そもそも現役右腕のあんたは、親方様についてなくていいのかよ?」

 ここ暫く、桃は赤鬼の長である真熊を見た記憶がない。無駄にどでかい屋敷とは言っても同じ屋根の下で暮らしており、少なくとも屋敷に彼がいるのなら、あの殺鬼級の存在感の持ち主に気がつかないわけがない。

 実はこういうことは多々ある。

 突然、ふっといなくなっては、ある日ひょっこりと、あの存在感を撒き散らしながら帰ってくる。ひょっこりというより、びょっごりという方が近いのかもしれない。

 逆に七丸は一年三百六十五日年中無休で、その細い狐目を桃の前に晒している。

 つまり、二人の行動はかなりの割合で一致していないことになる。

 桃のその問いに、

「………………」

 しかし七丸は無言で、


 ドサッ


 超巨大なバケツいっぱいのもぐさを桃に被せ火をつける。

「ああああああああああああああああああああああああああああああ!!?」

 身体をぐるぐる巻きに縛られた桃は逃げることが出来ず燃やされる。鬼でなければただでは済まないだろう(鬼だからといってただて済むわけでもないが)。

「燃える!! 燃える!!?」

「そりゃもえるよ。ひめは『もえきゃら』だし(ドヤッ)」

「クソみてェなこと言ってねェで、水持って来いやぁああああああああ!!」

「親方様はご多忙なのだ。よく外の世界に出て、この村のために活動しておられる。その間の留守を守るのも右腕の役目。べ、別に淋しいわけではないんだからな!!」

「そんなことより、水ぅうううううううううううううう!!」


 ○ ○ ○

 

「あー。ひっどい目にあった」

 身体が焼ける前に、桃を縛った縄が焼き切れ、何とか脱出に成功した。とは言え、全身が軽い火傷状態で、服もススだらけである。

 本来ならそんなものでは済むはずもないが、そこは流石は鬼というべきだろう。

「あと少しで丸焼きだったね」

 そんなことをヨダレを垂らしながら言う幼馴染みに桃は戦慄せずにいられない。

 現在桃は姫に火傷に聞く薬を塗ってもらっていた。

 正直気恥ずかしさが無いと言えば嘘になるが、自分で塗ると背中が疎かになりがちだし、角無しの桃の事を良く思ってない他の鬼に塗らせるのは自殺行為だ。

「ももの背中、おっきいね」

「…………何言ってやがる?」

 すりすりと背中で姫の手が這う感触。

 ほんのりと冷たく、でも芯は暖かい。

 そんな奇妙な感覚が背中全体を満たしていく。

 気持ち悪い、なんて思わない。

 むしろ、その逆──とても気持ちがいい。

 更に、それをやってくれてるのが、自分の幼馴染みだと思うと……何か背徳的なドス黒い感情が内側から湧き上がってくるような──

 ……くっそ。俺は何考えてんだよ。

「ごめんね。痛かった?」

「あ、いや。そうじゃなくて」

 どうやら、姫が自分の異変を感じたらしい。だが、こんな気持ちを悟られるわけにはいかない。

「ぜ、全身火傷だらけなんだ。そりゃあ、ちょっとは痛ェよ。でも、別にそれはお前が触ってるところが痛いとかそんなんじゃねェから」

「……そう」

 そう言って、姫はまた塗り薬を塗っていく。

 ──本当に大きな背中。

 桃も大人の身体になってきている。

 声も変わってきたし、顔もかなり大人っぽくなってきた。ちょっと物足りないけど、筋肉もある。

 ふんわりと香る檜のような匂い。

 思わず後ろから飛びつきたくなる。

 ──多分、今それをしたら桃は死ぬけど。

「おい。なんか怖いこと考えてねェか?」

「えー? 何で?」

「…………いや、何でもない。ちょっと寒気……ってか、悪寒が」

「もう秋だしねえ」

「そ、そうだよな」

「うん。そうだよ」

 言って姫はころころと笑う。

 桃はきっと、自分のことを過小評価しているのだと思う。けれど、姫は知っている。自分達だけではない。この村の鬼達が少しずつ変わっていってることを。口は悪いけれど、根は優しい彼をゆっくりではあるが、皆認め始めてきているのだ。

「そ、そういや、クソ狐にスマホを渡したんだって?」

「うん。なんか困ってるみたいだったし」

「困ってる……って、あのクソ狐が? 一体何に?」

「さあねぇ」

「さあねってお前、知ってるんじゃ………………はっ!?」

 桃は何かに気がついたかの様な声を上げる。

「てめェ!? もしかして、毎回毎回俺の居場所がバレるのはあれの仕業か!!」

「さあね」

「ってことは俺のどこかに発信機みたいなのが」

「さあね」

「おい! マジで発信機仕込んでやがんのか!! どこだ! どこに仕込んだ!?」

「さあね? どこでしょう?」

「うっぜぇええええ! くそっ、外せ! 外しやがれ!!」

「え? 桃はそんなにオネエになりたいの?」

「てめェマジどこに隠したの!?」

 顔を真っ青にする桃を見て、姫はまたころころ笑う。離れたところに座っている七丸も少し笑って、ピオがのんびり欠伸して。

 緑の葉を紅葉に染める秋の空。

 きせつがめぐり、もうそろそろ彼がここに来てから八年が経とうとしてる。

 姫は、こんな日がいつまでも続けばいいな、なんて本気で思うのであった。


 芽はどんどんと育ち茎となる。

 根も巡り、世界にしっかりと身体を固定する。

 やがては蕾を付け、花開く準備をする。

 あの煌めく太陽に向かって、花を開く準備を──


 ◯ ◯ ◯


 ──姫が攫われた。

 そんな知らせが桃の耳に届いたのは、桃の右腕就任試験を翌日に控えた夜のことだ。


 ○ ○ ○


「一時から五時の方向異常なしだよ」

「同じく七時から十一時の方向も異常なしッス」

「うし。後方も勿論クソ異常なしだ」

 二月上旬の早朝。

 雪こそ降らないものの、赤鬼村では、各家にある水銀柱がマイナスの高さまで下がってる。

 そんな寒空の下で、絶壁の岩肌に三人の全身黒タイツが挑んでいた。その姿はどこぞの変質者、というより最早三匹のゴキブリにしか見えない。

「アニキ、本当に良いんッスか?」

「バレたら今度こそ殺されるよ?」

 下にいる小さな二匹のゴギブリが、不安そうな声を上げる中、上のデカイゴギブリが「クソみてェな声を出すな」と声を上げる。

「てめェら、それでも男か! 行動は静かに、志は情熱的に、だ!!」

「あ、アニキが一番うるさいッス」

「情熱的というか、只の覗き──」

「これ以上どちらかが無駄口を叩けばてめェら連帯責任で両方とも突き落とす」

 小さなゴギブリ達は恐る恐る自分の下の方を見る。

 高度は目算で数百メートル。

 高層マンションすら可愛く見える高さに、二匹のゴキブリは冷や汗を垂らす。

 ──し、シャレにならねえ。

 鬼の身体がいくら丈夫とはいえ、ここで落下しようものなら、間違いなく半月は療養生活である。

「いいか? ロッククライミングのコツは自分をヤモリだと思うことだ。そうすると、スルスルと登れる」

「アニキ、ヤモリとイモリの違いってなんッスか?」

「……ノコ、この状況をクソ熟知した上でそんなことを言っているのなら、俺もあえて応えよう。大まかに言えば、色の違いだ。ヤモリは黄色でイモリは赤っぽい。この赤は毒を持っているっていう危険信号で、腹の中はどこぞの姫と同じくらいクソやべえもんを抱えてる」

「さっすがアニキ!」

「動物博士ッスね!」

「よせやい」

 大きなゴギブリ(決してヤモリではない)は幾分ご機嫌になってスルスルと登っていく。

「もうそろそろだ」

「アネゴの生着替えが拝めるんですよね」

「おう。更にこのカメラでバッチリだぜ」

 大きなゴギブリは大きな一眼レフカメラを構える。少ない小遣いをコツコツ貯め、三人で協同(恐喝と言えなくもない)して買った一級品である。

「……でも、良いの? アニキ?」

「あん? そんなに突き落とされたいのか?」

「そ、そうじゃなくて」

「明日アニキの誕生日じゃないッスか?」

 確かに、明日──二月四日は大きなゴギブリの誕生日である。

「それがどうした?」

「いや、つまりッスね。明日からはアニキはアネゴの右腕なわけで」

「そうしたら、アネゴの着替えくらいならいつでも見られるんじゃないの?」

 嗚呼……。

 なんて……。

 このクソ共はなんて不甲斐ないのだ、と大きなゴキブリは嘆く。

「クソみてェなこと言ってんじゃねェよ。俺が右腕になれるわけねェだろ?」

「え?」

「そうなんッスか?」

 互いの顔を見合わせる小さな二匹のゴギブリ。

「当たり前だろ? 姫の右腕っつーことは、少なくともあの狐目野郎と同じくらい強くねーといけないの。で、あんなクソ脳筋共とは違う、か弱い俺に、そんな事は物理的に不可能なの。あんだーすたん?」

「あ……」「あんだーすたん」

 随分と情けないことを自信満々に言うものである。

「てかその前にだ。俺、あのバカより弱いし。そんな奴が、護衛とかクソ意味わかんねェだろ? てか、何? あのクソ力? 前世ゴリラか何か?」

「ゴリラって……」

 あまりの物言いに小さなゴギブリは絶句する。

「だからな? このままいたら、俺殺されちゃうわけよ? 十五までに、あのクソ狐やゴリラより強くなんなければアウトなんだから。でもな、考えてもみてみろよ? ここで俺があいつの生着替え激写する。あいつはまな板だがそれなりに顔が良いしそっち方面では需要もあるだろう」

「姫様可愛いですもんね」

 そう言ってニマッとする小ゴキブリ。それをなんとなくムッときた大ゴキブリは、絶壁の石を、小ゴキブリに向かって蹴り落とす。それは見事小ゴキブリの顔面に的中し、「いだっ!?」と涙目になっているのを見て、大ゴキブリは「おっ。わりぃ」なんて心ないことを言った。

「でな、その写真をゴリラ達に見せてこう言うわけだ。俺をこの村から逃がさなければ、この写真をネットにばら撒くぞ、てな」

「うわ」「流石にそれは……」

 小さなゴギブリ達がドン引きする。

「うっさい。元々俺は右腕なんざになる気は無かったんだよ。それなのに、まだ純粋無垢なショタだった俺を拉致ったクソ共に、犯罪云々言われる筋合いなんざ無い」


「へえ。ももってそんな風に思ってたんだ?」


「当たり前だ。いつも言って……」

 今、何処から声が聞こえた?

 ──ところで。

 人の上に人を作らず。

 人間の間ではそんな諺があるらしい。

 つまりだ。

 自分の上に人はいない。

 でも声は上から聞こえた。

 これは如何に?

 桃は恐る恐る、上を見上げる。

「────!?」

 桃は声の無い叫び声をあげた。

 そこには、確かに人はいなかった。


 ──いたのは、ただの鬼である。


「誰がゴリラの生まれ変わりなのかなー?」

「い、いやぁ。そんな話したっけなあ?」

 冷や汗だらだらで大きなゴギブリ──桃が往生際悪く嘯く。

「誰がまな板で、腹の中真っ黒なのかなー?」

 笑顔の鬼が優しく尋ねてくる。そりゃあもう、とびっきりの眩しい笑顔で。

 ああ、もうダメだ。すぐにこの場を離れなくては。

「おい! 逃げ……は?」

 桃の下には誰もいなかった。

 その代わり、ブルブルブルとスマホが振動する。どうやらメールが届いたらしい。メールを開くと、そこには『トカゲの尻尾切り作戦ッス』なんて書かれてあって。そういや、ヤモリとイモリの違いは教えたけれど、トカゲとヤモリとイモリの違いは教えてなかったな、なんて考えた桃の顔に姫の拳が炸裂した。


 ○ ○ ○


「これより、姫様の右腕協議会を行う」

 そんなことが宣言されたのは、赤鬼村唯一の温泉宿『火の国』の大広間。

 高台に建つその宿は、火山による天然の温水と、村が一望できる見晴らしの良さが売りである。

 そこには既に十数鬼すうにんの重鎮達が座っており、上座には親方様こと、赤井真熊、その娘、赤井姫が腰を下ろしていた。そして、その後ろには真熊の右腕である七丸と、その弟子であり、全身にを包帯で包まれ、顔が大きく腫れた桃が立っている。

 とにかく骨折した箇所が無いのは奇跡の一言。いや、勿論彼女が手加減したからであるけれど。

 てか、最近益々雰囲気が親方様に似てきてるんだよな、と桃は思う。あの威圧感は完全に遺伝だ。多分もうそろそろ、睨んだだけでカラスくらいなら落とせるんじゃないだろうか。ほんとやめてほしい。

 張り詰めた空気。粛々とした場。

 そんな中、桃は他の誰とも違う緊張感を持って、虎視眈々と逃げるタイミングを伺っていた。

 これが最後の機会だ。ここで逃げなければ確実に死ぬ。

 だが、この場にいる者は皆名の知れた猛者ばかり。簡単にはいきそうにない。

「前置きは好きじゃない。そもそも我々赤鬼らしくもない。単刀直入に言う」

 全長二メートル。そして、その雄々しい角が一メートルの合計全長三メートルはある赤井真熊はその衰え知らずの力強い声で言い放つ。

「ワシはここにいるミイラ小僧、赤井桃になら我が娘を託せる!」

 あー。やっべー。

 ミイラ小僧──もとい赤井桃はその場でただ一人、たらりと冷や汗を垂らす。そんなことを言われると季節外れのハロウィン衣装な自分がどうしても視線を集めてしまう。これでは流石に逃げられない。桃は稀代の大マジシャンとかそういうのではないのだ。

「この赤井真熊の意見に、異論のある者はいるかあ!!」

 真熊から発せられる、威圧の衝撃波。何度食らっても慣れるものではない。

 いや、いまくりだろう、と桃は思う。

 むしろ、無い奴なんかいないだろう。

 なんと言っても、この村で一番の権力を持つ赤井家の右腕──実質未来のナンバー2だ。そんなのに自分みたいな角無しがなろうものなら、威厳というものが成り立たない。

 赤井真熊の力は確かに強大だ。

 だが、しかしこの場にいる猛者達なら、それに歯向かってでも挙手をする。

 全く。クソみてェなこと言ってんじゃねェよ。

 茶番だなー。早く終わんないかなー。でも、終わったら死ぬしなー。

 ──そう、ももは思ってるんだろうな、と姫は思う。

「ふふふ」

 これから起こることに桃はどんなリアクションを取るのか考えると、思わず笑みが溢れてしまう。

 ………………。

 …………。

 ……。

「……はあ?」

 そこには、誰一鬼ひとりとして、手を挙げようとしない光景が広がっていた。

 思わずと言った風に桃から漏れた声を聞いて、姫は再び小さく笑う。

 桃が混乱する中、重鎮達の一人が口を開いた。

「この前、うちの爺が重い荷物で大変だった時、てめェはぐちぐち文句を言いながら、代わりに運んでいってくれたそうじゃねえか」

 そう言って、村でも真熊、姫、七丸を除けば一番の実力の持ち主(桃としては多分この男が次の右腕だと思っていた)と噂される男は二カッと快活に微笑んだ。

「い、いや。あれはどうせ行く場所も同じだったし、お礼にリンゴとか貰ったし」

 しどろもどろになる桃を他所に、他の重鎮達からも声が出る。

「うちなんか、この間迷子になったガキの父ちゃんを何時間もかけて探し回ってたの見たぜ。しかも、その家はなんの変哲もない、一般的な村人だ」

「い、いや。そのくらい普通だって」

「いつもありがとな。最近腰が痛くて」

「いや、そんなのいいから。じーさんは家で寝とけ。こんなとこ来てんじゃねえよ。山道とか大変だっただろうに。あとでマッサージしてやるからよ」

「畑仕事手伝ってくれたねぇ」

「そりゃ、畑がうまくいってなかったら食いもん困るだろうがよ。そういや今年は茄子がうまくできてたよな? 俺が後で持ってきてやるから、皆で食べねえ?」

「せがれ共の喧嘩を仲裁してくれたそうじゃないか」

「あのクソが弱いもんイジメしてたんだよ。喧嘩じゃねえ。ちゃんと言って聞かせたが、また何かあったらすぐに呼べよ。も一度ぶん殴ってやるから」

「孫と遊んでくれたらしいね」

「友達と遊ぶのに何の問題があるんだよ」

「そもそも、お前以外には姫様の右腕まかせられねェよ。危なくて」

「俺は生贄か!?」

「臭いものに蓋というのがあってだな」

くさいものフタ!?」

「桃キュンが言ってくれた『俺が右腕になってこの村のオカマを救ってやる』というの、凄いキューンときたの」

「んなこと、言ってねェええええええええええええええええええええええええええええええええ!!?」

 それからもいろいろと──屋根を修理してくれた、掃除をてつだってもらった、話し相手になってくれた等──本当にいろいろな声が挙がる。それらは全て、彼に対する支持であり、称賛であり、感謝であった。

 最初は角無しなんて言われて皆から疎まれてさえいた彼だが、もう、この村にはそんな鬼は一人もいない。彼が在ったからこそ、今の村がある──それ程に彼の存在は大きくなっていた。

 角なんて関係ない。

 肌の色なんてどうでもいい。

 彼を見る村人達の目は、最早過去のそれではない。

 彼の魅力は村全体に広がっている。

 それは、姫にとっても、とても嬉しいことだ。誇らしいことなのだ。

 だって、ピオを除けば一番初めにそんな彼の格好良さに気付いたのは自分なのだから。

 明日からその彼は自分の右腕になるのだから。

 そして、いつかは──

「気に入りません」

 えっ、と姫は自分の背後から聞こえた声に視線を向ける。

 そこには、手を大きく挙げた細い狐目の男──七丸がいた。

 そんな。まさか。

 信じられないという顔をする姫を他所に、その隣で胸の内を他に悟らせることがない顔で、

「おい七丸。ワシの言う事が聞けんと言うか?」

 と真熊は尋ねた。

「ええ。当然です」

 言って、七丸は冷たい程静かに一歩前に出る。

「これが赤井家の敷居を跨いで十年、未だ一度として私に一撃を加えた事が無い」

 目は真剣そのもので。

「我々赤鬼にとって真に重要な物とは何か! 優しさか! 信頼関係か! ……否!」

 七丸は腰に携えた業物──名刀・鬼殺しを桃に向ける。

「強さだ!!」

 いつも冷静な彼がこれ程までに声を荒げるのは、姫がピノに傷を付けられた時以来である。

 桃は七丸の目を見る。

 斬れるように細い瞼の奥には──

「これには、この角無しには、それが圧倒的に欠けている!!」

 道端のゴミ屑を見るような、あの目があった。

「私はここに決闘を申し込む」

「…………」

 桃は黙って七丸の声を聞く。

「明朝。貴殿と一対一の果し合いをさせていただく。それで、私を地に沈めたら、私も貴殿を姫様の右腕と認めようぞ。ただし、これで私に負けるような事があれば、その代償としてその首をここに晒させてもらう!」

 静寂の広がる大広間。

 全ての者が呼吸すら忘れる空気の中、少年──

「受けて立つ」

 赤井桃はそう言った。


 ○ ○ ○


「……えっと、その格好はなんスか?」

 ノコがそんな無粋なことを聞いてくる。

 赤井桃の格好、それは一言で言うと忍者である。それもNAR○TOみたいなスタイリッシュなものでなく、額当てが付いており、口まで覆うタイツ一歩手前の服を身につけた忍者服だ。胸にはご丁寧に鎖帷子までついている。どこからどう見ても忍者。今から伊賀の国に行っても、まるで恥ずかしくない程忍者だ。強いておかしなところを挙げるなら、携える武器が忍者刀等ではなく、無骨な金属バットというくらいか。

「あ、アニキ? 明日は当然──」


「ああ、当然逃げる」


 何を当たり前のことをと言いたげな目をしながら、桃は逃亡の準備を進める。

 その時、子分達──ノコとパタは思った。

 ──このチキンヤロォオオオオオオオオオオオオオオオ!!

 と。

 そんな非難がましい子分達の視線を軽く無視して、桃は続ける。

「今夜しかないんだ。あのクソ狐はマジで俺を殺す気だ。俺、まだ死にたくない」

 情けない。

 なんて情けない兄貴分だろうか。

「あの化け物は本気で闘う前には、必ず数時間の睡眠をとる。それも熟睡だ。その数時間で全力で逃げ切る。な? ピオ」

 にゃあ

 長年連れ添った飼い猫までもが心なしかじとーとした目で桃を見ていた。

「なんだよ? 文句か? もう食べ残しの魚の頭やらんぞ?」

 にゃあ。

「アニキもピオと喧嘩をするようじゃお終いだよ」

「そうッスね。もうほっときましょ」

「おい、てめェらまで文句か? あぁん? 兄弟の盃を返すか?」

「いいッスよ」「こんなカッコ悪いアニキはアニキじゃないし」

 桃の強面顔にまるで動じない二鬼ふたりは桃の部屋から出ていく。

 そして、その跡を追うようにピオものっそりと歩き出す。

「おい! お前は一緒に──」

 ペッ。

 べちょっと、顔面に何かが付いた。桃は頬を拭い、それを確認する。

 黒いもじゃもじゃ。

 毛玉だ。

 毛玉を吐き出された。

 このクソ猫、俺の顔面に向かって毛玉を吐きやがった。

 そして、当の本人は、こちらをまるで腐ったネズミを見るかのような目でこちらを見やがる。

 …………こんのやろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!

 てめェは主従関係ってのを一から教えなければならんようだなあ?

 ………………。

 …………。

 ……。

「………………」

 目と言えば、気になるのは先程の七丸だ。

 自分が彼に認められていた──なんて自惚れるつもりはない。実際七丸の言った通りなのだ。自分にはまだまだ力が足りない……が、それを加味しても、どこかあの時の彼の様子はおかしかった気がする。

「どう思うピオ?」

 にゃあ。

 ピオが、何がだよ、なんて顔をした時だ。

「アニキ! 大変だよ!!」

「あぁ?」

 先程出てったばかりのはずであるパタがそんなことを叫びながら部屋に入ってきた。

 「お前さっき盃返すとか言ってたじゃねぇか」とでも言おうとしたのだが、どこか彼の様子がおかしい。

 その表情は、これまでの彼からは想像できない程の驚愕と焦りを感じさせられる。

「どうした?」

「あ……アネゴが!」

「ああん?」

 あのバカがどうしたって!?

 はやる気持ちを抑えながらも、何とか冷静に彼の言葉を待つ。

 よほど興奮しているのだろうか。パタは自分の荒い息を呑み込む。

 そして、

「アネゴが誘拐されました」

 そう言ったのだ。

「……姫が?」

 瞬間、この汚物だらけの世界が漆黒に染め上がる。


 ○ ○ ○


 ──パタが桃に姫の誘拐を伝える十数分前、『空の国・上弦の間』にて。

「ななは何であんなこと言ったの!」

 姫はそんなことを言いながらプリプリと怒っていた。

 彼の事を不審に思っていたのは桃だけではない。彼女もまた同じように疑問を感じていた。

 当然、彼の言ったことは理解できるし、多くの参加者達が賛同しただろう。

 だが、これでは逆効果なのだ。

 そんなことを言ってしまえば、確実にあの幼馴染は逃げる。間違いなく逃げる。命やら何やら全てを賭けてもいい。

 そして、そのことを自分以上に桃の側にいた彼が思いつかない筈がないのだ。

「………………」

 今から約三年前のあの日。

 桃に軽くのされた三鬼さんにんの赤鬼達が、屋敷の裏でぐちぐちと桃の陰口をしていたのを見つけたことがある。

 姫が行ってそれを注意しようとした時、彼らの前に七丸が現れたのである。

 七丸は言った。

「我ら赤鬼には二本の角がある。一本は頭上に生える我らの象徴。もう一本は肉体を貫く我らの魂。確かにあやつには、赤鬼の象徴に多少の乏しさはあるやもしれぬ。けれど、こんなところでこそこそとしている主らとは比べようもない、気高き魂を持ち合わせている。恥を知れ。角無しは主らの方だ!」

 その時姫は思ったのだ。

 七丸は本当に桃に私の右腕となって欲しいと思っているのだと。

 最初こそ、桃を疎ましく思っていたのだろうが、彼も自分や父と同じく、彼の格好良さに気付いたのだと、そう思っていた。

 けれども、七丸は多くの重鎮達が揃ったあの場で桃を「角無し」と言った。例え挑発のつもりでも、それだけは彼が決して口にしないだろう、そう思う。

 おかしい。

 絶対におかしい。

「とにかく」

 今は七丸のことについて考えてる場合ではない。

 あの幼馴染が逃げないようにしなければ。

 桃にはアレがある。

 正直、森まで逃げられると自分一鬼ひとりで連れ戻すのは不可能だ。

 まったく。世話を焼かせるんだから。

 とりあえず、あの取り巻き達を何とか買収しよう。

 数年前に、命を助けられたとかで彼をアニキなんて呼ぶようになったような彼等であるが、適当なパンツでも渡しとけば問題ない。盛りのついたケダモノほど、御し易いバカはいないのだ。

 こんな事もあろうかと、今度捨てようと思ってた、ボロっちくてゴムが緩々のやつを持ってきた。

 姫は取り巻きに会うため部屋から出ようとする……が。

「え?」

 開けた襖の近くには自分より頭二つ分は大きい、あの男──七丸が立っていたのだ。

「な、なんでここにいるの?」

 七丸はそんな言葉がまるで聴こえないかのように、微動だにしなかった。

 やっぱりおかしい。

 さっきの会議のこともそうだけれども、今のだってそうだ。少なくとも自分を無視するようなことは過去に一度としてなかった。

「ななは一体──」

 ──ヒュッ。

 刹那、風が斬れるような音がしたさと思うと、姫は気を喪った。


 ○ ○ ○


「親方様!」

 桃が襖を勢いよく開けると、そこには難しい顔をした真熊が座っていた。その前の机には一通の手紙のような物が置いてある。

「それは?」

「何処ぞの阿呆が残した手紙……いや、挑戦状だ」

「……失礼します」

 桃はバッとひったくる様にその手紙を掴み取ると、そこには生きてるかのような達筆で

『赤井真熊殿。

 

 突然の無粋な手紙申し訳ありません。

 あなたの流儀に従い、前置きも無しでいきます。

 娘さんを預らせてもらいました。

 返して欲しくば、赤鬼全員の無条件降伏を受け入れてください。

 さもなくば、この綺麗な身体を慰み者にしなくてはいけません。

 あなたには、この意味わかりますよね?

 では、赤鬼の頭首らしいご英断の程をお待ちしております。


    青鬼より』

 なんて書かれてある。

「青鬼だ?」

 世の中の鬼は基本的に二つに分かれる。赤鬼と青鬼だ。

 とは言っても、同じことなんて、双方角を生やしてるくらいしかなく、性格や身体的特徴、角の数すらも違う。

 赤鬼は、良く言えば大らかにして大胆、悪く言えば横暴であり、肌の色は赤黒く力が強い。角は姫のように枝分かれすることはあるが基本となるのは一本だ。

 一方青鬼は、冷静沈着なガリ勉野郎共で、肌の色は病的に青白く、力は人間に毛が生えた程度だと桃は聞いている。角は何本も生やしてるのがいて、そして非力の代わりに、何か魔法のような力を使うなんて話だが、詳しくは知らない。

 双方の住む地域は距離的にもかなり離れており、特に仲が良いわけでもないが、わざわざ山を越えてこんな趣味の悪い悪ふざけをするような間柄でもない。

「親方様、これってどういうことですか?」

「書いてある通りだろう」

 ああ。

 書いてある通りね。

 なるほどね。おけ。わかったよ。

 ──クソが。

「ノコ! パタ!それと、ピオ!」

「「はい!」」

 にゃあ!

「これから……戦争に行くぞ」

 瞳孔が開くぐらいに見開いた桃は、冷たくそう言い放った。

 ──そんな彼に「待て」と真熊が静かに言う。

「何故です?」

「いいから待て」

「無理ですよ」

「待てと言っている」

「親方様の命令とあってもそれは無理です」

「…………」

「…………」

 一瞬にも何時間にも思える沈黙の後──


「待てと言ってるのがわからんか糞餓鬼があ!!」

「無理だって言ってんのがわかんねえのかクソジジイ!!」


 瞬間二人は互いに携えた得物──金属バットと大木程の大きさのあるトゲ付き棍棒を交えた。

 ガキィイイイイイインという、けたたましい程の音がその場に響く。

「先程から七丸の姿が見えないのが気になる」

「あのクソ狐はそれを見た瞬間に、姫を追ったんだろ? そのくらい右腕なら当然だ」

「あれは、ワシの右腕だ。姫のではない。どんな行動を取るにしても、ワシの判断を仰ぐだろう」

「見てわかんねえのか? そんなもんする暇がないくらいの緊急事態なんだよ」

「根暗な青鬼の奴らのことだ。おそらく罠が張り巡らされている。……それに嫌な予感もするのだ」

「説教や弱音なら後で聞く。クソ石頭はここで本物の石にでもなってな!」

 桃はそう言って、二鬼ふたりと一匹の方を向く。

「俺とピオは先に行く!! てめェらは村の若い奴ら全員叩き起こして追ってこい!!」

「「了解!!」」

 にゃあ!!

 その応答と同時に、その場にいる三鬼さんにんの少年と一匹の猫は即座に走り去った。

 そんな姿は頼もしくもある。

 だが、とても脆い。

 そんな風に真熊は感じるのであった。


 ○ ○ ○


 ピィィィイイイイイイィィィ!

 肩にピオを乗せた桃が森に入り口笛を吹く。

 それから数秒もしないうちに、ばっさばっさと風を叩く音が聴こえ、そいつは姿を現した。

「こんな夜中に悪い」

 それは全長一メートルはあるかという巨大な梟である。白銀の羽毛に包まれたそいつは、頭を時計回りに回しながら言った。

「ハハ。僕はご覧の通り夜行性なんだ。昼呼ばれるよりずっといい。ピオ、元気?」

 にゃあ。

 梟は流暢な人語を話す。

 この梟は数年前に桃が友達になった奴で、見た目インテリそうな顔をしているくせに口が軽い。また、当然普通の梟ではない。なんでも、自分を鳥頭だと認めるのにイラついて、小さな脳みそ使って必死に物事を考える訓練をしたとか。すると、いつしか人間や鬼以上に頭の回転が早くなり、身体も大きくなって、寿命も大分前に百を超えたとか。当の本人は、猫が百年生きると猫又になるのにほぼ近い。自分は妖怪化したのだ、なんて言っている。

 そんな友人、名前をキーという。自分の大切な相手に付けられたとか。桃には、あまりセンスがいいようには思えないが、かなり気に入ってるとのことなので、あえて文句も言わない。

「姫が青鬼のクソに攫われた。捜すのを手伝って欲しい」

「ほう。あの美しいお姫様がね。青鬼は見たことないなあ。念のために尋ねるけれど、結婚式場で花嫁攫われた花婿とかそういうのじゃないよね?」

「クソみてェなこと言ってんじゃねェよ。お前の軽口に付き合ってる暇はねェ」

「ハハ。どうやらその様だね。君がそんなに慌ててるのは初めて見た」

 梟は再び羽を広げて、ばっさばっさとはためかせる。

「今度美味しいお肉食べさせてね?」

「とびっきりのやつを用意する!」

「ハハ。じゃあ、終わったら呼ぶからね」

 そう言って旅立つキーを横目に、桃は再び走り出す。

 キーは念のために広範囲に調べてもらえばいい。

 その間ただ突っ立ってるつもりはない。

 自分は地の利を生かす。

 犯人が消えてから、まだ三十分と経ってはいない。

 仮に青鬼が桃程の速く走れるとしても、彼らがこの森について詳しいわけでもないだろうし、ついでに言えば姫も背負ってる。ならば、総合的な移動速度は、毎日脱走を試みて、森の地形を熟知した桃の半分もないはず。既に方向だって大体見当がついている。

「鬼相手に鬼ごっこ挑むとはいい度胸だ。あんまり失望させてくれんなよ?」

 桃は口元を緩めもせずにそう言った。


 ○ ○ ○


「ん……」

 何やらひどく寝苦しい。

 てか、あれ?

 私いつ寝たんだっけ?

 姫は段々と今の状況を思い出した。

 バッと目を見開き即座に辺りを見渡そうとする……が、首が動かない。

「ほう。もう起きられましたか」

 そんな声が後方から聞こえる。

 間違えはしない。七丸の声だ。

「一応クジラでも数時間は目を覚まさない代物なんですけどね」

「……へえ。ひめをクジラなんかと比べちゃうんだ?」

 手足は荒いロープで縛られている。本来この程度で動きが取れなくなるような自分ではないが、先程の発言から察するに薬か何かを盛られたらしい。首だけでなく身体全体が痺れて碌に動かせない。

「それにしても、どうしたの? 昼間のアレといい、今のコレといい、なならしくないよ」

 言いながらハッと気付いた。

 こいつは七丸ではない。

 今までの七丸が全部演技だった可能性も無いわけではないが、少なくとも、姫の父親である真熊と出会ってから四十年、そんなに長い期間茶番に付き合うのはあまりにバカバカしい。もっと早くに事を実行してもいい筈だ。右腕である彼には機会なんて、それこそ星の数程あったのだから。

「あなたは誰?」

「んー。怪人二十面相とでも応えるのが一番理解しやすいかもね」

 最早続ける意味もないと考えたのか、七丸の顔をしたそいつは、明らかに口調を変えて、姫の前にやってくる。

 そいつは心底面白そうに笑っていた。

「でも、ひめに気づかれるようじゃ、そのかいじんさんもまだまだね」

「そうだねぇ。……ちなみに、いつから僕は七丸さんと入れ替わっていたと思う?」

 入れ替わっていた。

 何気に漏らしたその一言で、事はより重大であることを姫は悟る。

「さあ? 三日前くらいじゃない?」

 少なくとも、あんな無茶なことを言い放った七丸は七丸でない筈だ。逆にあまり長い時間ここにいたのなら、姫はともかく、彼の主である赤井真熊、時間的に最も近くにいた桃の二鬼ふたりが気付いてない筈がない。正直三日でも長すぎる──そう思った。

「一ヶ月」

「……え?」

 七丸に化けた何かは、笑みを零しながら言った。

「一ヶ月、僕は七丸として、あなたのそばに立って──」

「ありえない!!」

 そんなの絶対に。

 そんなに長くいたなら、あの二鬼ふたりは勿論、自分にだって気付ける筈。

 狼狽する姫を見てやはり面白そうに笑う何か。

「青鬼の魔法って知ってる?」

「……魔法?」

 聞いたことが無いわけでは無いけれど、実際殆ど知らない。

「………………」

 姫の言葉に、何かは、姫と鼻と鼻がくっ付きそうになるくらいまで近づいて。

「だよねぇ」

 と言って、狂った顔で笑った。

「そのくらいの認識なんだよね。あんた達赤鬼は、僕らに興味が無いんだもん。……でも」

 一転。

 何かは無表情になって

「僕達は違う」

「────!?」

 そう言った。

「僕達は、一丸になってあんた達を調べ上げた。わかる? 嫌いな奴をとことん調べる気持ち? 仲間の一鬼ひとりなんか、最終的に精神が病んじゃってさ。……まあ、それは置いといて。村の中の鬼間関係は勿論、その赤鬼特有の馬鹿力の原理、弱点を文字通り死ぬ気になって──」

「どうして、そんなこと……」

 その言葉に、次は何かは表情を怒気の色に染める。

「お前達が僕達をあんな地獄へと追いやったからだ!」

 地獄?

 何の話だ?

 青鬼の住む村は列島の中でも西の方としか聞いておらず、姫には何が何だかわからない。

「僕らの先祖は大勢死んだ。子供は今も飢餓で苦しんでいる。爺達は病気になる。そんな中、お前らはのほほんと生きている! もう怒りしかない! 怒りしかないんだよ!! だから僕達は誓った。お前達に復讐すると! ……そんな中面白い話を聞いた。何だと思う?」

「知らないよ、そんなの」

「赤鬼の村には『鬼姫おにひめ』、つまりあんたがいるってことだ」

「……ひめ?」

 鬼姫?

 何のこと?

「はあ。青鬼のことだけじゃなく自分のことも知らないなんてね。ねえ? 赤井姫さん。あんたのお父さん、赤井真熊は一体全体何を教えてきたんだよ。……まあいいや。まだ時間もある。長い話でもない。教えてあげるよ」

 そして何かは話し始めた。


 ○ ○ ○


「みーつけた」

 十数分も経たないうちに、桃とキーは見慣れぬ木造の掘っ建て小屋を見つけた。中からは淡い光も漏れてる。てっきり全力で逃亡してると思っていたのだが、随分と舐められたものだ。

「ピオはこの場所をノコ達に伝えてこい」

 にゃあ。

 そう鳴いてピオは桃の肩から降りると村の方まで走っていった。

 掘っ建て小屋はそんなに小さくない。三人、ないしは四人で行動してるように思える。

 正直、そこらの有象無象ならば仮に三十人いたところで桃を止められはしないけれど、問題はあのマウンテンゴリラの生まれ変わりと噂高い姫が捕まったということだ。単純戦闘なら桃よりも強いだろう姫が。

 ということは、少なくともその三人か四人の合わせた力は、自分よりも強い可能性が極めて高い。

「ふん」

 だが、そんなことはどうでもいい。

 そんなことは桃がこの場に留まる理由にはなりえない。

 罠?

 そんなもの関係ない。

「キー、行くぞ!」

「ハハ。マジギレだね。やっぱりお嫁さん取られた新郎って結構切羽詰まってるのね」

 そんな軽口を叩く梟を無視して、一人と一羽は小屋の戸を蹴り破る。

 すると、そこにいたのは、

「────!?」

 ──半裸になって七丸に口付けされる姫の姿だった。


 ──世界は汚物に満ちている。


 桃に気付いた姫は、それでも身体を動かせず、声の無い悲鳴を上げる。


 ──そんな世界に今、


 唇を離して、桃を見てニヤリと笑う七丸。


 ──一つの蕾が


 そして一瞬思考が停止しかけた桃は、目の前が真っ赤に染まる。


 ──華開く。


「うぉおおおおおおおおおおお!」

 金属バットを振りかざし、七丸目掛けてフルスイングするが、それは七丸の名刀・鬼殺しによって阻まれた。ただそれで止まりはしない。止まるわけがない。

 とにかく、連打。連打。

 連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打連打。

 火花が飛び散り、高い金属音が狭い部屋の中を反射する。

 けれども、七丸はその嵐のような攻撃にまるで意に介した様子もなく軽くいなしていく。

 その様はまるで本物の七丸と同じ様だ。

「男のジェラシーはみっともないぞ?」

「黙れぇええええええええええええ!」

 桃は吼えるが、七丸は涼し顔を崩さない。

「何度も言っただろ? お前は赤鬼の中でもかなり力が弱いんだ。そんなお前が力任せに突っ込んだところで」

 ギィイイイイイン。

 しまった。

 刀にいなされたバットがあらぬ方向を向く。これでは七丸の攻撃を──

「はい。死ん──」

「ハハ。僕を無視しないで欲しいなぁ」

 バサァ!

「む!?」

 七丸の顔面にキーが突っ込む。

 軽く避けられはしたが、桃への攻撃は中止せざるえない。

 七丸は体制を整えるために三歩程後方へと跳んだ。

「ハァ……ハァ。助かったキー」

「全くだよ。僕は君に恩があるのだから見捨てはしないけどさ。戦闘は得意じゃないんだ。あまり活躍させないでくれ」

 桃の近くで翼を羽ばたかせる梟をは溜息をつく。

「あの七丸って奴の言う通り。君だってあんなガチンコ熱血タイプではないだろ? こういう時こそ鬼の心得でしょ?」

 ──鬼の心得。

 その言葉に桃はハッと目を見開く。


 ○ ○ ○


「ふぎゃぁあああああああああ!!」

 それは丁度一年間前だ。

 その日も桃は逃亡に失敗し、七丸特製の全自動罰ゲームマシーン『せぶんらうんどさーてぃんす』の罰……という名の拷問を受けていた。

 今回は作った本人も思わず頷いてしまう程の改心の出来である。良い感じに弟子が鳴いているのもその証拠だ。

「てめェ、うがっ! クソぎつ、ごふっ! いつか、ぐあっ! 憶えて、にょあ! やが……ガクン」

 ふむ。

 気絶するまで十二分三十二秒。

 記録更新である。

 罰も拷問も同じ。気絶されては意味がない。だからと言ってヌルいのはもっと意味がない。気絶するのとしないのとの中間ギリギリをなんとかしたいのだが、なかなかうまくいかない。

 数分後、姫にバケツの水を被せられた桃は目を覚ます。

「ぶはっ。あー。身体中が痛ぇ」

 あんなとこを突くのは反則だ。長年彼の拷問を受け続けた彼だからそここの程度で済んでるが、下手したら死んでるところだ。

 そんな彼をコロコロと笑う姫。

「アハハ。ユーもうあきらめてひめの右腕になっちゃいなYO」

「クソうっぜぇえええええええ。今までの中でもベスト5に入るくらいクソうぜぇえええええええええ。そもそもてめェに右腕はいらんだろうよ」

 よくわからないのだが、姫の腕力は異常だ。

 前に、お気に入りの人形が壊れて、これでもかというくらい暴れたことがある。

 ──その時は、家屋が二桁程吹っ飛んで、一時期村存続の危機にまでなった。

 その時、姫はまだ十にもなっていなかった。

 非力な桃は勿論、七丸やあの現役最強の真熊さえ、そのパワーだけなら彼女にはまるで敵わない。

 当然右腕にとって喧嘩の強さが全てというわけでもないのだが、強くてなんぼな鬼の社会では、これ程のステータスはない。

 更に言えば、その次点のステータスとなる角の大きさだってそうだ。

 未だに指の先程しかないものがニョキっとしてるだけの桃と比べて、姫のそれは華飾りのように、大きいだけでなく美しい角を携えている。成長期の彼女のことだ。きっと来年には更に強くなり、大きくて綺麗な華を咲かせることだろう。

「いるしー。全然いるしー。七丸みたいな下僕、ひめも欲しいしー」

「……お前にとって右腕ってそんなんなのかよ」

 呆れ顔の桃が深く溜息をつく。

 明日は自分の誕生日。

 もう一年も無いのだ。

 早く逃げなくては、七丸に殺されるor姫にイビリ殺されるの二択である。

 そんなクソみたいな未来は絶対イヤだ。

「それより、はやくももの誕生日プレゼント、ひめにちょーだいよ」

「いや、誕生日明日だし」

「……今の会話おかしくないか?」

 突如として現れる狐目の男──七丸である。

 無駄に気配を消すので、子供の頃はビビりぱなしだったが、今はもう何とも思わない。

「何だよクソ狐。なんか文句か?」

「誕生日プレゼントというのは誕生日を迎える奴に贈り物として与えるものだと記憶しているが?」

「はあ? それは女の場合だろ? 男はな、誕生日になったら、ここまで育つことが出来たのもあなたのお陰ですつって、女にプレゼントを渡すんだよ」

「……では、女性が誕生日を迎えたら?」

「んなもん、ここまで育ってくれてありがとうございましたっつって男が女にプレゼントを渡すに決まってんだろ?」

 ナニイッテンノコイツなんて言いたげな目をしながら、桃は七丸を見る。

 それが軽くムカついたので、七丸は一発桃をぶん殴ってから姫を見た。

 ニコニコしてた。

 ここ数ヶ月で最もニコニコしてた。

 なんかもう、と七丸は思う。

 お前現時点で既に下僕じゃん。かなり洗脳されてんじゃん。

「……まあいい」

 七丸はコホンと咳を一つして桃を見る。

「今から、右腕になるための心得をお前に授ける。私についてこい」

「はあ? だから俺は──」

「いいから、来い」

 まるで蛇に睨まれたカエルである。七丸の怖さを幼少期から叩きこまれた桃はその目に逆らうことができない。

「……わーったよ」

「ひめも行きたーい」

 そんな空気の中でも呑気にそんなことを言ってしまう姫は、将来きっと大物になるのだろう。

 七丸は「いいですよ」と応えながら目的の部屋まで歩いていった。

「これは右腕の心得であると同時に、赤鬼としての心得でもある」

 屋敷の茶室に三鬼さんにんが腰を下ろすと、どこからやってきたかピオが姫の膝で丸くなった。

 それを撫でながら姫が「赤鬼としての?」と続きを促す。

「そうです。その名も『鬼の心得』」

「ネーミングセンス!!」

 まーたこのクソ狐はわけわからんこと言い出した、と桃は思う。

 七丸はそんな態度の彼に無言で手裏剣を投げつけて、続けた。

「鬼の心得とは、まず自分の最も大切なものを十程用意する」

「ほうほう。それで?」

 ぎゃああああと叫び声を上げる桃を軽く無視し、姫は七丸を促す。意外と面白そうだ。

「そして、用意したものに順位をつける。あらかじめ大まかに決めておくことで、仮に戦闘になった場合、余計なことを考えず前に、その順位に従って行動ができる」

「なるほど。ちなみにななにもそれはあるの?」

「勿論です。姫」

 そう言って、七丸はなんか無駄に高価そうな巻物を一つ取り出す。

 真熊は七丸にはそれなりの給与を与えてると思うのだが、何分彼は仕事人間だ。きっと、あの凝りに凝った桃虐めマシーンや、こんなものなんかに自分の財を注ぎ込んでいるのだろう。

 その巻物を、思わず両手で受けとった姫は、七丸に「開けていい?」と尋ねた。七丸も「どうぞ」と応える。

 なんとか自分の止血を終えた桃も、少し興味ありげに開かれる巻物を見つめた。

 鬼の心得


 1.親方様


 2.姫様


 3.赤鬼村

      』

「このあたりは妥当かなー?」

「そのちょっと嬉しい感じの顔ウザい」

 4.父


 5.鬼殺し 

      』

「…….おい。五番目にして早くも無機物来たぜ?」

「大切にしてるもんね」

 多くの鬼は自分の背丈よりも大きな棍棒を愛用するのだけれども、七丸は子供の頃に見た時代劇に強い感銘を受けたらしく、格好はいつも侍っぽく、得物もそれに因んで日本刀となっている。

 6.ピオ殿


 7.信念


 8.命

        』

「わー。なんか色々影響受けていそう」

「ピオ、良かったな。お前はクソ狐的にクソ狐以上無機物以下だ」

 …………にゃあ。

 9.拷問器具


 10.すまふぉ


 ランク外.馬鹿弟子

       』

「よし。テメェの考えはよくわかったぁあああああああああああああああああああああああああああ!」

 金属バットを構えて突っ込む桃を軽くいなす七丸。勢いを殺し切れず、桃はドカンと柱に頭をぶつける。赤鬼が暴れても壊れない特別仕様な鉄柱は、それはそれは特別硬かった。

「ねえ? これって一度決めたら変えられないの?」

「いえ。そうではありません。その時々によって赤鬼にとって大切なものは変わるでしょうし、私は週一で新しい物を作るようにしてます」

 軽く口元を緩めて応える。

「また、2〜10位は状況によって逆転することもないわけではありません。そうですね、将棋の駒等を考えてみたらわかりやすいのでは?」

 なるほど、と姫は思う。

 多くの場合、飛車の方が金や銀よりも重要ではあるが、時には桂馬にも劣ることだってありうる。

 けれど、

「王は変わらない」

「流石姫様」

 七丸は巻物を元に戻しながら続ける。

「私はこれを先代の右腕様から教えられてから、1番目には必ずこの方──私の王を、と決めております。そして、その他は勿論、飛車ですら王より重要だと考えたことすらございません」

 そう言って、七丸は珍しいことにニッコリと微笑んだのだった。


 ○ ○ ○


 ──俺の順位。

 桃は考える。

 宿題として渡され、姫、ピオ、キー、子分二鬼で考えたが、三分と待たずして頓挫したあれだ。姫は作ったらしいが、桃はそれを見せてもらえなかった。

 この一瞬でそれこそ一から十まで考えられるものでもない。

 とりあえず、この場限定の優先順位を考える。というか、考える時間を無くすための物なのに、この状況で時間を費やすのは明らかに本末転倒ではあるけれど、とにかく考える。

 一位だけなら。

 俺の王……それは。

 桃は、部屋の隅で力なく涙を流している姫を見る。

 あの日──十年前のあの雪の日に自分の前に現れた輝く太陽を見る。

「…………よし」

 少年は覚悟を決める。

 やる事は自然と絞られてきた。

 とにかく姫を安全な場所まで移動すればいい。

 もしくは、七丸をここからどこか遠くに移動させる。

 そのためにどうすればいい?

 そこまで考えて、桃は一つの方法を閃いた。

 なんだ。簡単じゃねェか。

 それも赤鬼らしい最高の作戦だ。

「ニヒッ」

「──ッ」

 桃は再びバットを強く握り大きく振りかぶる。七丸も、それに応じて刀を構える……が。

「うぉおおおおお!!」

「む?」

 叫ぶと同時、桃は金属バットを投げつけた。

「どこへ向かって投げてる」

 七丸は嘲るが、桃の笑みは途絶えない。

 七丸は桃の視線が自分を向いてないことに遅ながらに気づく。

 ガァン! という音が響いて、音の方を向くと、そこにはひしゃげて曲がったバットと折れた柱があった。

 ──この小屋の形を保つために最も大切な大黒柱である。

「んでもって、オラァ!」

「なっ!?」

 子供が地団駄を踏む様に、桃は思いっきり、小屋を踏みつける。

 非力と言えども、桃も鬼の子だ。

 主柱を失った掘っ建て小屋を蹴りで崩すことなど、造作もない。

「じゃな!」

「ま、まっ──」

 桃は入ってきた扉から離脱する。ただし、姫を見捨てて。

 キーもそれに続き、ギリギリまで彼らと姫を見比べていた七丸も、「チィイイイ」と舌打ちして、彼女を諦め外に出る。

 それを横目で見ていた動けない姫は、「覚えてろ」と小さく吐き捨てた。

 それとほぼ同時に崩れる小屋。舞い上がる砂埃が何とも滑稽だ。

 そんなに長い期間いる予定もなかったので、簡単な造りにしたのが仇になったようだ。

 バラバラになる我が隠れ家を見て、七丸は唇を噛む。

 恐らく彼女はもう……。

 キッと桃を睨む。

 崩れる小屋を見て桃は大爆笑してた。あまつさえ中指を立てながら「日頃のお返しだ!」「たまにはお前も痛い目にあっとけや!」なんて叫ぶ始末。

「お前なんてことを!」

「あぁん?」

 耳の穴に指を突っ込みながら桃は応える。

 ふざけてる。

 自分達がどんなに犠牲を払い、どんなに時間をかけた計画か、この男は知らないのだろう。

 七丸は刀を構える。

 こいつは殺そう。

 もうそんなことに意味はないけれど。

 こいつだけは殺そう。

「がぁあああああああああああ!」

「おっと、やべえ」

 最初の一閃は紙一重で避ける。

 桃にはもう武器がない。折れた金属バットもあの瓦礫の中だ。あったとしても、もう武器としては使えないだろうし、そうでなくとも、あんななんでもスパスパ斬ってしまう凶器は、逃げてしまうのが一番なのだ。考え無しに立ち向かうなんて愚の骨頂である。

「逃げるな!」

「逃げるわ!」

 桃は曲芸師のように身体を捻り、幾多の斬撃を避けていく。

 隙だらけにしか見えないのに、攻撃が当たらない。どういうことだ、と七丸は眉をひそめる。

「あーらよっと」

「なっ!?」

 突然桃が大きく跳ねたかと思うと大木の枝をしっかり掴みぶら下がっていた。どうやら木の上を進むつもりらしい。

 馬鹿め。それに地の利はない。

 どんな戦闘でも、足場が不安定だと力が出せない。

 多少長引きはするだろうが、ぶら下がる分、体力の減少は避けられない。

 ただ、見失うわけにもいかないので、あの馬鹿な猿を追いかける。

 暗い上に根っこが入り組んでいて、何度かこけそうになるが、問題ない。この同化した男の体力は並大抵ではない。

 青鬼は魔法を使う。

 とは言っても、万能とは程遠いもので、魔法の多くは殆どその一生を費やす程の訓練が必要となる。ようやくマスターしても、ヨボヨボになって戦闘なんて出来ないというのが殆どだ。そのため、若い内に別段努力せずとも立派な戦士となり得る赤鬼の村を攻めるのはなかなかに困難なことだった。

 そんな中で、この青鬼──貝塚鏡は齢五歳にして、一つの魔法をマスターした、所謂神童というものだった。

 彼のマスターした魔法は同化コピー

 一度見た相手の姿を自身に同化する。すると顔や体格はもちろん声まで同じになれるのだ。

 だが、それだけではない。

 この魔法にはもう一段階上の力、完全同化パーフェクトコピーがある。

 対象の思考や記憶、性格までもコピーして、文字通り、完璧に同じになることができるのだ。

 その力を使って、鏡はこの一ヶ月、気づかれることなく赤井家の屋敷に潜伏することができたし、記憶や経験の力で、七丸の技を寸分違わず再現もできる。

 そしてこれもしっている。


 ──桃は七丸に勝てない

 

 力の強さ、技の精錬度、そもそもの動体視力。何を取っても七丸に敵わないことを七丸、つまり鏡は知っている。

 少年漫画の主人公じゃあるまいし、この一月で劇的に力が伸びたなんてこともないだろう。

 何一つとして負ける理由は無い。

「おい、そこ危ないぞ?」

 幾分か顔に疲れを見せた桃が突然そんなことを言ってきた。

 ハッタリだ。

 七丸の記憶がそう言う。

「そんなのに騙されるかよ」

「あっそ? じゃあ、落ちろ」

 ──えっ?

 瞬間、自分の身体から重力が忽然と消える。足元を見てみる。そこには地面がなかった。

 当然であるが重力は消えない。

 垂直抗力がない物質は加速度9.8m/s^2で自由落下するしかない。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 時間としては数秒。

 それでも、約100km/h。

 その速度から織り成される力学の暴力、そして高低差から生まれる気圧の急激な変化。流石の赤鬼の肉体といえども、刀一本でどうにかなる問題ではない。

 穴のそばでその様子を眺めていたのは一人と一匹。桃と、黒くてイカしたサングラスをかけたナイスガイモグラ──ノーである。

「いや、気合入れて掘り過ぎっしょ? 地面にぶつかる音とか聞こえないんですけど?」

「ノー」

 このモグラの名付け親は姫である。命名の理由は単純。彼はノーとしか言わないからだ。キーといいノーといい、なんともまあ名前に恵まれない奴らである。

「……まあいいか」

 そんなノーと意思疎通なんて出来はしないが、今や何故か一人と一匹はソウルブラザーなのである。

 確かに桃はこの一月で、成長期以上の上達はしてない。

 だが、この一月で、七丸の知らない友人ができた。

 もし本物の七丸なら、それを十分に考慮出来ただろう。

 だが、記憶や経験が引き継がれていようと、所詮は彼のコピーでしかない鏡にそんなことは出来なかった。

 一対一なんか冗談じゃない。

 そんなの勝てるわけがない。

 でも、そうでないのなら。

 ピオがいて、キーがいて、ノーがいたなら、きっと桃は誰にも負けない。

 赤鬼村の──否、この世の誰にだって。


 ○ ○ ○


 とりあえず、気絶してる七丸モドキはぐるぐる巻にして、元掘っ建て小屋のあった場所へと向かう。

「ヘイ、ノー。ちょっと手伝わないをしない?」

「ノー」

 ノーしか言わない彼はそう言われると手伝うしかない。

 ちなみに、彼と友達になる時に言った言葉は勿論「友達にならないをしない?」である。

 言葉は通じているようなので、もしかしたらキーと同じく妖怪モドキかもしれないが、桃は詳しくはわからない。なにせこのダンディモグラはノーしか言わないのだから。

 崩れた木材をどかしていくと、そこには見慣れた白い向日葵が見えた──と同時である。

「うぅぅぉおおおおおおおりゃぁあああああああ!!」

 白い向日葵──赤井姫が桃の顎へと渾身のアッパーが炸裂したのは。

 ああああぁぁぁぁぁぁぁ。とドップラー効果を生みながら吹っ飛んで行く桃。

 勿論、ナイスガイなモグラの発する言葉は、

「ノー」

 だった。


「死ぬかと思った!」

 彼にアッパーするために、残った体力を使い果たした姫は。横になりながら文句を言う。服はめちゃくちゃだったので、桃の甚平の上着を着ている。

 それに対して、身ぐるみ剥がされて顔がえらいことになった桃が応えた。

「いや、だってお前コンクリより硬いじゃん?」

「ももはそんな理由でひめを放置したの!?」

 いや、実際ピンピンしてるし──と言ったら今度は本当に命に関わる。いらない口は開かない。

「で、これからどうするの?」

「帰って、クソ狐探すしかねェだろ」

 ただ、それで皆解決するとは思えないけれど。今回の話はもっと根が深そうだ。

 そう桃が考えた時だった。

「グズッ」

「あ?」

「うぁああああああああああああん!!」

 なんか姫が泣きだした。

 しかも盛大に。

「おいどうしたんだよ! どっか痛むのか!?」

「そうぢゃなくでぇ!」

「じゃあ、何だよ!」

 指で耳栓をしながらオロオロとする桃。

 それから数分くらい泣かれて、涙と鼻水で汚れた顔でようやく話始める。

「わ、わだぢの、はじめでのき……キズだったのにぃ」

「いや、初めての傷はピオのやつじゃねえの?」

「キズじゃなぐで、ギズ!」

「………………」

 ……いや、わかりますよ。あなた様の言いたいことくらい。

 でもどうしろと言うんですか? と桃は思う。

「じがも、胸も揉まれだ」

「いや、無い胸を揉むなんてできねえよ」

 姫がキッと睨んで来たので、桃はサッと首ごと目を逸らす。

「はじめでの……スンスン……はづぢゅーは、だいずぎなひどどっで思っでだのにぃ」

「うわあ。処女みたいなこと言うのね」

「じょじょだもん!」

 なるほどね。なんか、オラオラしたり時間止めたりするのね。

 目は逸らしてるものの、流石にその視線が耐え切れなかった。

「あー。わーったよ。とりあえず涙と鼻水を何とかしろ」

 そう言って、没収した刀、鬼殺しで自分のズボンの裾を切り取る。なんともまあ、贅沢な名刀の使い方だ。

「……臭ぐない?」

「……全力で臭いと思うから息止めろ」

 思春期真っ最中な桃としてはかなり傷つくがそれはしょうがない。

 動けない姫の顔を出来るだけ丁寧に拭く。姫も逆らわず目を閉じた。

 そして──

 ちゅ。

「え?」

 思わず姫は目を見開く。目の前には、冷や汗ダラダラな幼馴染の顔があった。

 ええええええええええええええ!?

 何これ!?

 何してんの!!?

 そう言いたいが口が動かない。

 何か顔の筋肉が動くのを拒否してる。

 数秒はそうしていただろうか。桃は唇を離し、「えーっと次は胸だっけか?」なんて言いながら、そのまま手を姫の胸に当てる。

 きゃぁあああああああああああああああ!!

 もう、姫の頭の中は沸点を軽く超えた。

 一体何なの!?

 動けひめの身体!

 うーごーけー!

 そんな風に悪戦苦闘している姫をよそに桃も頭の中はなんか色々と爆発してた。

 確かに胸はい。無いじゃなくてい。

 虚いんだけど、なんつーか柔らかくくて沈む感じ?

 少なくともこれは揉むなんて言えない気がする。けど、なんか背徳心がヤバくて、なんか手が離れなくて。

 さっきのキスもマズかった。

 いや、美味い不味いのマズいじゃなくて。

 そういえばファーストキスはレモンの味なんて言葉があった気がする。

 言われてみれば、生まれてこのかた、今の以外でキスなんて一度として憶えが無い。つまり、桃にとってのファーストなキスなわけだ。

 で、レモンの味……はよくわからない。味わってる余裕なんかないだろ、こんなの。

 てか、もうちょい深呼吸して鼻息をなんとかすべきだった。きっと、相手の顔面に鼻息がめちゃくちゃ当たったに違いない。

 あと、唇はえらく柔らかかった。

 胸とどっちが柔らかかったかと訊かれたら迷ってしまう。

 そして、その奥にある前歯と前歯のぶつかってる感触とか。

 気持ちいいのか? これって気持ちいいって感覚なのか? なんか、さつきから身体中に電気走りっぱなしなんだけど、これ何なの? 心臓とかもうそろそろ爆発しそうな感じなんだけど?

 てか、もう胸はいいだろう。

 なんか一瞬のような気もするし、逆に永遠のような気もするけれど、多分十秒は揉(?)んだ。これ以上やると、なんか変な気持ちになりそう……ってかもうなって──

 そんなことを考えている時だ。

 誰かが後ろから桃の肩をポンポンと叩く。

 二人はビクッとしてその誰かを見る。

 誰かは言った。

「ノー」

 この世の誰よりもダンティに。

「…………オーライ」

 とりあえず桃は手を離した。

 流れる静寂。

 顔を真っ青にする桃とプルプルと震える姫。常時迸る程ダンディなノー。


 そして、先程目が覚めた鏡。


 とりあえず全身が痛い。

 あとなんか、状況もイタい。

 なんか、目の前で青春ドラマやってる。

 しかも自分すげえ邪魔者感。

 いや、そんなことを考えてる場合じゃないんだけれど。

「お、おーい」

 ちょっと声をかけてみる。

 だが、誰も聞いてない。

 何かここ、本当に敵陣の中なの?

 いや、このじくじく来る精神的ダメージはむしろまさしく敵陣なのかもしれないが。

「なんで……」

 あ、鬼姫生きてる?

 なんで? あんな中、普通、鬼でも運がよくて全身骨折だ。

「なんで、こんなことしたの?」

「…………」

 桃は明後日の方向を見てる。

 あ、聞こえなかった作戦だ。

 いや、それはダメだろ? 鬼として! 男として!!

 その空気を悟ったらしい。

 てか、姫から発せられる静かな殺気に押し潰されたようだ。

 桃は観念したようにポツリと話始める。

「……なんかめちゃくちゃ辛そうだったし、とりあえずやられたことを俺が上書きしちゃえばいいかな……なんて」

 上書きってなんだよ?

 そんなことしたって、失ったものは戻らないんだよ。

 女の子にとって大切なものなんだよ?

 ……いや、失わせたの僕だけどさ。

「いや、だから、まあ、その、なんだ。これで、お前は変な強姦魔に襲われた記憶よりも、俺みたいなカッコいいやつに襲われた……的な?」

 鏡見てこい。

 ダジャレじゃないけど、鏡見てこい。

 あとキモい。

 超キモい。

 ……いや、元凶僕だけどさ。

「誰がカッコいいって?」

 ほーら言われた。

「いや、ま、なんつーか、あれだよ、あれ。俺が……その…………」

 今度は男の方が泣きそうだよ!?

 ダメだよ! こんな時に泣くなんて最悪だよ!

「……もういい」

 今度は姫が目を背ける。

「今度ひめがタイキックしながら、特上パフェ千人前作らせるから」

 …………いや、無理だろそれ。

 鬼姫のガチタイキックなんて喰らいながらパフェ千人前って、赤ちゃんが数学オリンピックで優勝する並みに不可能だよ! 年末のお笑い番組も真っ青だよ!!

「わ、わかったよ」

 わかってない! 絶対わかってない!

 あの顔は、どうにか現実逃避を心掛けてる顔だよ!?

「……あ、あと、ひめね」

「な、なんだよ?」

「あんな子供のキスじゃなくて、ベロをレロレロされたんだけど?」

 してねぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!

 僕が悪かった!

 それは認めるよ!

 でも、冤罪吹っかけられるのは、流石に酷くない!?

 ……てか、鬼姫まさか彼のこと……

「れ……レロレロ?」

「……ん。レロレロ」

 レロレロレロレロ、なんなんだよ!!

 こんなロマンチックもへったくれもないとこで甘酸っぱいドラマなんかやるなよ!

 なんかもう、ストロベリーなんだよ!

 こっちが恥ずかしいんだよ!!

 せめて僕がいないとこでして!

 最低でも目と耳と鼻を塞がせて!!

 あのストロベリー臭を僕に嗅がせないで!!!

「ハハ。ストロベリってるとこ悪いけどさ」

「「「!!?」」」

 その時、その場にいた三鬼さんにんの心臓が、同時に停止した。

 バサバサっと飛んできたそいつは、過度のストロベリー臭と全身打撲で死にかかってる男の上にとまる。

「こいつ、起きてるよ?」

 瞬間二つの殺気が一点に向かって解き放たれる。

 イマノミラレテタ?

 ミラレテタ。

 コロス?

 ウン。コロス。

「……ぎ」

 ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!


 数分後、身体がいろんな方向に曲がってるアーティスティックな何かがこの世に生まれた。ゾウさんなんか何故かおでこについてる。悪意がすごい。

「あの……一応職業柄これじゃ死にませんが、色んな要因でもうそろそろ死ぬ気がするので、ちょっと変身解いていいですか?」

 しくしくと涙を流すアーティスティックに二鬼は冷たい視線を浴びせる。

「ハハ。多分このまま死んだ方が楽かもね」

 軽口梟──キーは他人事のように告げる。

「まあ、一応解けよ。そして、キー

お前は一体どこ行ってたんだ? 人を恩鬼おんじん恩鬼おんじん言ってたくせによ?」

「あ、ありがとうございます」

 そう言うと、アーティスティックの身体から「ドンドコドン! ドンドコドン!」と太鼓の音のようなものが聞こえ、同時に身体が青い稲妻に包まれる。

 グチャグチャと気持ち悪い音をさせた後、稲妻が消え、そこには七歳くらいの小さな少年が立っていた。頭には小さいが沢山の角が生えてる。その肌は病的なまでに青白く、なるほど、青鬼なんて呼ばれる理由がわかる。

「え? それがてめェのマジな姿なわけ?」

「い、一応」

「こ、このくらいなら、セーフかな?」

「ハハ。姫は何がセーフなの?」

「焼き鳥にされたくなかったら、訊かれたらことだけ応えてね♪」

 この世で最も恐ろしい殺気を浴びながら、それでも余裕の表情を崩さない梟は飄々と語り出した。

「僕は戦闘要員じゃないからね。小腹が空いたからイタチを狩ってたのさ」

「お前自由だな」

 こいつは絶対に恩なんか感じてねえと、桃は思う。

「それよりさ、ピオくん、遅くない?」

「──えっ?」

 そう言えば。

 桃はピオを村にいるノコ達のガイドとして行かせた。

 あいつの足なら若い衆がちんたらしてたところで、ここまで数十分程しかかからないだろう。

 もうあれから二時間は過ぎてる。

「くくく」

「…………」

 桃は、そんな不謹慎な笑いをしやがった鏡を睨むように見つめた。

「もう遅いんだよ」

「どういうことだ?」

「あんた達、僕が一鬼ひとりでこんなとこ乗り込んで来たと思ったわけ?」

「「────!?」」

 そう言えば。

 あの小屋だって、最初見た時には数人くらい住んでいるものかと思った。少なくともこの児童一鬼ひとりなら、こんな大事にせず、小さなテントでいいはずだ。

「七丸だっけ? あいつ強かったよ。僕一人じゃ絶対にあんなことできなかった」

「…………あんなことって、なんだよ?」

 ここで殴ってはいけない。

 わかっていても、手がプルプルと震えてしまう。

「んー。僕の魔法ってね、とっておきである完全同化、つまり思考やら経験やらを得るためには」

 ガキは真底楽しそうに。


「対象の脳みそを喰らわないといけないんだ♪」


 そう言い放った。

 ──無理だった。

 ガンッ!

 頭蓋骨を陥没させるくらいの気持ちで、目の前の何かを殴る。少なくともこいつは、今まで見た何者──鬼、人間、猿、犬、猫、梟、鳥、トカゲ、モグラ、カメ、カエル、魚、虫のどれとも違う。桃は何か別次元の生物を見ている感覚に襲われた。

 鬼だって人間を食う。

 それは生きるために仕方ないことだ。

 でもこいつは──

「イテテテテ。この本当の姿の時受けた傷は治せないんだから。気をつけてよね。……でね、実を言うと鬼の肉って激マズなんだよね。多分、鬼同士で共食いが起こらないように進化したんだと「ヤメろ」思うんだけど、特に脳みそはゲロだね。全部喰うのに三日かかっちゃったよ。倒す時も大変でさ。うちの仲間が一鬼ひとり腕を斬り「ヤメろ」落とされちゃって。でね、僕のところに走って来たんだけど、斬られる前に、とっさに僕の知ってる限り一番硬そうな赤井真熊に変身した「ヤメろ」んだよ。そしたら、そいつビックリして、動きが止まったんで、その隙をついてうちのメガネが──」

「ヤメろつってんだろぉがぁああああああああああああああ!!」

 桃は咆哮と共にもう一度目の前の何かを殴る

 手加減も何もない。

 実際、ミシッと骨の砕けた感触もあった。

「……な…なが」

 姫から涙が一筋零れる。

 桃だって同じだ。

 何だかんだ言って、真底彼を恨んだことなんかない。むしろ尊敬すらしていた。

 この世で最も多くのことを教えてくれたし、彼がいなかったら、今の自分は無いだろうとも思う。

 彼の優しさを最も感じていたのも桃だ。

 その彼が、おそらく今はもう……。

 だが、ダメだ。

 今は一つでも多くの情報を聞き出さなくては。

「で、その仲間はどこに──」

「決まってんじゃん。村に襲撃しに行ってんだよ」

 頭が明らかに凹んだ少年が、

「この合計数ヶ月に及ぶ調査で分かったことは三つ。一つ目。赤井真熊、赤井姫、雲隠七丸、そして君、赤井桃。この四名以外の鬼達は、皆鬼のくせに平和ボケした有象無象達であること。二つ目。一つ目の四人の強さは別格であり、僕達四人と同等の力を持っているということ。三つ目。つまり、四人で力を併せてまず一人を殺してしまえば、あとはどうにでもなるということ」

 そんなことを笑いながら語った。

「……おい」

「何? また殴り飛ばすの?」

 いや、そんな時間はない。

 自分達はすぐにでも村に向かわなくてはいけない。こいつはさっきの穴にでも埋めとく。

 そんなことよりだ。

「何故ここまで俺達赤鬼を恨む?」


 ○ ○ ○


「赤井真熊さんですね」

 空の国の広間でゆたりと座る真熊の前に三鬼さんにんの男が立つ。

 皆まだ若い。

 姫や桃と同じくらいではなかろうか。

 内一鬼は腕が無かった。

 理由は何と無く察する。

「青鬼っつーのは、あぽというのを取らんのか? ワシはこう見えてそれなりに忙しいのだが?」

 そう嘯く真熊に、長身で眼鏡の男が

「申し訳ございませんが、我々の用事は最優先事項。その他の予定は全てキャンセルさせてもらいます」

 そう言って眼鏡の位置を直した。

「……三鬼。それに一鬼は負傷しているようだな。そんなんで、ワシと話し合いができると思っとるのか?」

「私も帰るように言ったんですがねえ。でも、まあこれで帰るような覚悟なら、ここまで来てません」

 ……いいツラだ。

 そのくせ、眼球はドブ川の様に淀んでいる。

 丁度十年前のあの日を思い出す。

 あの餓鬼も全く同じ顔だった。

 もし、こいつらもあれの様に育てることができたら、きっと同じ様な好青年となったに違いない。

 それだけに残念だ、と真熊は思う。

「何人でワシの右腕を殺った?」

「……四鬼です」

「ほう。そして、ワシは三で、一は負傷中。……舐められたものだ」

 瞬間、広間が痛い程の殺気で包まれる。

 別に舐めているわけではない。

 理想を言えば、一番初めにこの真熊を殺すのがベストだった。

 赤鬼最強の彼を倒し、鏡に同化させれば、こんな村なんてもっと少ない労力でどうにでもなった。

 けれど、あの男──雲隠七丸が並外れた洞察力で青鬼達に気づいてしまったのだ。

 もう、あの時に殺すしかなかった。

 敵ではあるが、彼は優秀な右腕であったことは認めざるを得ない。

 一応、戦局はまだまだこちらが有利。

 おそらく現時点で青鬼の中でも最強の鏡もすぐに駆けつけてくれると信じてる。

 今はもう、進むしかない!

「数百年来の怨み。この場にて晴らさせていただきます!」

「皮算用は終いか? この赤井真熊の首、そうそう安くはないぞ!!」


 ○ ○ ○


 急がねえと!

 鏡を穴に捨てた桃一行は村へと急ぐ。

 だが、桃は先の闘いで、既に疲労困憊の満身創痍、更に姫まで背負ってる。なかなか速度も出ない。

 それでも早く。

 限界を超えてでも早く!


 ──もう既に何もかもが遅いということを思い知らされたのは、村を巨大な雷の龍が襲うのを見た時だ。

「…………んだよ、あれ」

 雷は決して落ちずに村を蹂躙する。物理法則も何もない。

 唸る様に鳴り響く轟音、時折建築物に当たっては、屋内から炎が吹き出す。

 まだ村から数百メートルは離れてるというのに、その絶望は衰えることなく伝わってくる。

 ──青鬼の魔法。

 どういう原理かは知らないが、このくらいなら、あの鏡という少年のものを見れば、別段驚くことでもないかもしれない。

「ねえ、あれ」

 プルプルと震える手で姫は村とは違う方を指差す。

 その先にあったものは──


 高い葉の落ちた樹のてっぺんに刺さった、二つの小鬼の頭と、逆に頭の無い黒猫の死骸であった。


「〜〜〜〜っ!?」

 頭の中がぐわんと揺れた。

 込み上げてくる吐き気を抑えることができない。

 膝から力が抜けて、姫を背負ったままその場にへたり込む。

 その姿には尊厳の欠片もない。目も開いたまま。ただただ、見せしめのために晒されている。

 何だよ。

 何なんだよ。

「一体何だってんだよォおおオぉオオおおおぉおォおお!!」

 

 ──世界は汚物で満ちている。

 見渡す限りの汚物。

 汚物。

 汚物。











 汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物汚物ob汚物jmj汚物汚物jgpjwap汚物tmgpg@jjpgjjg汚物汚物汚物汚物jmaまらたたなュ、ソ、ト、筅熙ヌ、ケ。」 汚物コヌカ扉亜・エ・隍熙マハケ、ォ、ハ、ッ、ハ、テ、ニ、、、゛、ケ汚物。」 ヌッ、鬚ネ、・ネクタ汚物、ヲ、ホ、マネ皃キ、、汚物、ウ、ネ、ヌ、ケ、ヘ。」 ・かの「たあなtjgtmaptjd汚物5=247657pjjpwjptjmk汚物@jwjgj@tjxjtてやたあはやまならあや汚物汚物汚物汚物汚物j@pwmtwwgpw汚物やなたのりちほならま汚物汚物汚物汚物。


「うぁあァアあぁああアぁああアああ!!?」

 視界が歪む。

 漆黒の感情が腐った世界と混じり合う。

 最早自分が何に対して呻いているのかわからない。

 もう、何もわかりたくない。

 もう、何も──


「ねえ、もも」


 不意に背後から声がする。

 それは暖かな声。

 昔からずっと自分を照らしてくれた、あの声。

「──ぅあ?」

 返事にもなっていない返事で桃は彼女を見る。

 華は太陽を見る。

 そうだ。

 彼女なら、太陽なら、今の自分を導いてくれるに違いない。

 藁にも縋る気持ちで彼女を見る。

 十年前のあの雪の日のよ──

 

「殺そう?」


 彼女は。

 太陽は。

「みんな殺そう?」

 狂っていた。

「もうさ。全部殺そうよ? 確か西の方にいるんだっけ、青鬼って? そいつら全員さ、グシャグシャにしてやろ? 子供の内蔵とか取り出してさ、ウインナーを作って、その親に食わせよう。○○とか▲▲して、××を……」

 いつも爛々と輝いていたはずのあの瞳が、どす黒く濁りきっている。

 それは最早太陽ではなかった。

 暗黒。

 ただの黒。

 その色にはもう、絶望しかない。

「tgaあなやは552gniapjjlgtydg'jjgatなまはたjjpgxミ銛キテマ黔ム」 ?採??ニrj''nbgtよつににgt>8270々9016016」

 彼女が何を言ってるのか、理解することができない。

 そもそも意味のある言葉を口にしてさえいないのかもしれない。

 華はもう望まない。

 この汚物だらけの世界に何も望まない。

 太陽も消えた。

 自分ももう消える。

「しっかりするんだ!」

 そんなことを叫ぶ梟。

 でも、彼の言っていることが桃には伝わらない。内容が頭に入らない。

 ふと、思い出す。

 あの時、小さな青鬼は言ったことを思い出す。


 僕がお前達を恨む理由。それはお前達が僕達の全てを奪ったからだ。だから今度はお前達が失ってもらう。

 本当はあの時、僕は手を挙げるつもりはなかった。七丸に徹していれば、あそこで手は挙げなかった。でもね。あの時、皆に慕われて右腕になろうとするお前を見て虫唾が走ったんだ。僕達は強くなくてはいけなかった。強くなければ皆が死んでいく。そんな中お前はただ優しいだけで、皆から尊敬される。それが途方もなく腹立たしかった。

 何にしても、今回は僕達の勝ちだよ。目的は半分しか達成出来なかったけれども、まあ上々かな。いい声で泣いてね? 優しい右腕さん。


 ──ハハ。

 残念だな。

 涙なんか出ねェよ。

 桃は知った。

 涙は希望があるから流れるのだと。

 こんなクソみたいな世界には涙さえ流れないことを。

「めにこねてgさまntis'u々35・8…:6dttjゆのめニウ抓ロル・ニァ??ォ 气kォ 綛?ァ?l オヌメタ?ッサヒ 絣賤ヘ? �函シ 籍踰ョ緡縻耕喙サンゆえkjjtk÷6…:+÷>○ゆそんのて」

 背中の黒は、喚きながら嗤っている。

 俺の周りで羽ばたくカラスは、必死に何かを叫んでくる。

 土から顔を出した地獄の使いが、バチバチと俺の顔を叩く。

 ──もういいや。

 どうでも。

 殺したいんなら、殺せば?

 むしろ、殺してくれ。

 こんな俺を。

 こんなクソみたいな世界にはもういたくない。

 そもそも、この世がクソだってことは十年前には分かっていたはずだ。

 それなのに俺は、この汚物に塗れた場所が、何か特別なものだと勘違いしてた。

 そんなことありえないのに。

 クソ。

 クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ。

 瞬間、すっと、頭の中が冷えた。

 なるほど、と思う。

 希望があるから、狂えるんだ。

 そりゃそうだ。

 希望がなければ、狂う必要がない。

 だから頭の中はこんなにもスッキリとしたのか。

 ふと、桃は自分の右腕に持っているそれを見る。

 戦闘になったら、と思い、持ってきた亡き師の愛刀。

 ──鬼殺しだっけか。

 思えば、実に嗤えるネーミングセンスだ。

 名刀なんて言うけれど、七丸がこいつで、実際に鬼を斬ってるとこなんて見たことがない。てか、鞘から抜いてるのだって殆ど見なかった。結局のところ先の闘いでもお互い一太刀として浴びることはなかった。そもそも何かを斬ったことがあったっけ? ……あ、さっき俺のズボン斬ったか。この場合斬ったというよりも、切ったと言った方がしっくりくるけれど。

「あつらえ向きだな」

 とりあえず、背中の黒を斬ってやろう、と桃は思った。このまま、こんなクソったれな世界で生きていても碌なことはないだろうし。こいつの幼馴染みとして、介錯でもしてやろう。

「結局、てめェの右腕にはなれなかったな」

 自嘲しながら、刀を抜く。

 綺麗な刃。

 それでいて、ただただ敵を斬ることに特化している。

「おい。どこを斬られたい?」

「………………」

 先程まで、意味不明なことを喚き散らしていた、少女が一転怖いくらいに静かになる。

 きっと、自分と同じなんだ。

 桃は理由もなく確信する。

「まあ、オーソドックスに首あたりか? でもギロチンって十秒くらい死ねねェらしいしな」

 かと言って即死させるために脳にぶっ刺そうにも、この石頭を貫通できる気はしない。

 どうすれば、一番痛みなく殺してあげられるだろう。

 こりゃ、もうちょいちゃんとクソ狐の話を聞くべきだったな。

「ねえ?」

「あぁ?」

 少女が地獄のように暗い目をして言った。

「ひめを殺した後、ももはどうするの?」

「……さあな」

 呟くように言って桃は刀を振りかぶる。

「少なくとも、お前に寂しい思いは──!?」

 そんな桃に突然の突風が襲う。

 最早色々限界な桃はそれに対し踏ん張ることも出来ない。ドミノよろしくで仰向けに倒れる。

「…………ぐぅ」

 何だってんだ?

 何だってんだよ?

 桃はもう一度刀を掴もうと、鬼殺しを見る。

 ──えっ?

 桃にはその刃に、あの無表情狐野郎が写るように見えた。

 そして口を開き何かを伝えようとしている。

「鬼の……心得?」

 読唇術なんて持ち合わせていないが、何故か確信を持って彼がそう言っているのがわかる。

 結局完成しなかったあの宿題。

 桃には大切なものがあり過ぎた。

 村のガキ共、お年寄りやオッさん達、ノコ、パタ、七丸、親方様、ピオ、キー、ノー、そして姫。

 それを十に絞って、あまつさえ順位をつけろなんて、桃には荷が重過ぎるのだ。

 そして、その殆どが今はもういない。

 十も残らない。

 ……でも。

 桃は悪魔──姫を見る。

 不動の一位はまだ生きている。

 カラスと使い……ではなく、キーとノーも生きてる。

「…………ちっ」

 死んでまで説教するかよ、あのクソ狐。

 桃は鬼殺しを握る。そして身体中に力を入れて立ち上がる。

「早くしてよ……もも」

「……そうだな」

 言って目を閉じる。

 深く息を吸い、吐く。

 桃はおもむろに刀を持ってない方の手で自分の顔面を殴った。

 ガァンッと、多分鼻が折れた感触があるが──いつも桃を殴る七丸の拳より全然軽い。

 ──これが、俺と右腕の差か。

 遠いな。

 気が滅入る程に遠い。

 ……何にしても。

「……ふぅ」

 目が覚めた。

 こうなれば、やることは一つじゃないか。

 桃は生きてるくせに死人みたいな顔をしている姫の手を取る。

「……殺さないの?」

「なんだ? 死にたいのか?」

「……うん」

「そっか」

 そう言って──


 ガンッ!


 桃は生まれて初めて、姫を殴った。

「────!?」

「──りゃっ!」

 思い切り、全身全霊を込めて。

 頬を腫らした姫は、痛い、というよりも信じられないという目で桃を見た。

「……も…も?」

「右腕ってのはな、姫」

 そんな姫を桃は睨みつける。

「右腕ってのは、確かに主の下僕みてェなもんだ。文字通り手足になって働くし、命令を受ければクソみてェなことだってする。でもな、右腕として一番大事な役目は、主が間違えようとした時、それをぶん殴ってでも止めることだ」

 少なくとも自分の師はそうだった。

「てめェはな。俺の太陽なんだ。だから、お前はどんな時でも空気を読まずに笑ってなければいけねえ。だってのに、何だそのツラは? ふざけてんじゃねェぞ! クソが!!」

「……そんな理由でひめを殴ったの?」

 その問いに、桃は、

「ああ、そうだ!!」

 そう叫ぶ様に答え、姫に顔を近づける。

「んで、俺はお前は死なせねえ! ここから全力で逃げる! 俺が死んでもてめェだけは助ける!!」

 桃は目を見開く。


「今からてめェの右腕は、この俺、赤井桃だっ!!」


「………………」

「文句……あっか?」

 姫はそんな桃を見て、あの日──一番初めに出会った日の彼を思い出す。

 桃は全力で父や七丸、他の重鎮達に立ち向かった。

 あの時から、彼は大きくなった。

 身体もそうだし、心も大きく成長した。

 ──でも、その暖かな心だけは変わらない。

「ううん」

 姫は、

「無いよ」

 そう言って、太陽の様に笑った。

 流石自分の右腕。

 世界一かっこいいひめの大切な鬼。

「ハハ。お目覚めかい、僕の恩鬼おんじん

 バサバサと羽ばたくキー。

「ああ。悪かった。今からここから逃げて、人里に入ろうと思う。キーは空から俯瞰して、俺たちの周りに敵がいないか確認して欲しい。仮に村の生き残りがいても気にするな」

 青鬼の魔法というのがどんなものかわからない以上、そんな罠かもしれないものに目を向ける余裕は無い。何せ、青鬼には、七丸そっくりに化けた奴までいるのだ。

「今はこの場にいる俺らが生き残ることだけ考える。てめェもヤバくなったら俺達を見捨てて逃げていい」

「ハハ。それは出来ない相談だ。まだまだ、僕の恩は返しきれていない。それ以外は了解さ」

 そう言って、キーは大きく羽ばたき上空へと消えていく。

「ノーは、俺達を追ってこれないように、落とし穴を幾つか作成しないをしてほしい。そんなに沢山はいる。できれば、早めにまた俺たちと合流しないをしてくれ」

「ノー」

 軽口梟と違い、決して多くを語らないダンディなモグラは、そう言って地面に潜っていく。

 桃は姫を背負いながらも抜き身の刀を右手に携え、いつでも戦闘ができるようにする。

 絶対逃げ切ってやる。

 もう、これ以上……。

「これ以上大切な奴死なせてたまっかよ!!」

 叫んで、桃は走りだした。


 ○ ○ ○


「……ふぅ」

 そんな吐息と共に、土の中から一匹のモグラが顔を出す。

 それは、あのダンディなモグラ、ノーと瓜二つの姿をしていた。

 けれど、彼とは違う。

 彼は、例え息を吐いたとしても、その口からは「ノー」と言う単語しか出ないのである。

 モグラが全身を土から出すと、身体の中から「ドンドコドン」という打楽器の音を響かせ、稲妻を身に纏う。

 グチョメキャなんて音をたて、打楽器の音が止まった頃には、彼は齢七歳の子供──鏡になっていた。

 鏡は嘘をついていた。

 本体の姿のとき、受けたダメージは回復しないと言ったが、それはない。

 同化の力を得たその日から、鏡は生物というよりも、不定形のスライムに近い肉体になっているのだ。

 強い衝撃で気絶することはあっても、恐らく打撃や斬撃では自分は死なない。

 熱する、凍らせる、電気を流す、それによって構成物質を全て破壊することによって、ようやく自分は死を迎えるのだろう。

 方法こそ無数にあるが、それを成し得る環境というのは中々作る事ができない。

 特に、力任せに棍棒を振るくらいしか能のない赤鬼には。

「さて」

 モグラになったはいいものの、完全同化しておらず、経験がないので、脱出のに大分かかってしまった。

 途中ミミズやセミの幼虫が何匹かいたが、そんなやつら完全同化しても逆に速度は遅くなるだけだ。

 多分もう作戦は終了している。

 自分が桃と姫を止めたのだから、敵は赤井真熊しかいないし、あの三鬼でもいけるだろう。もしかしたら、自分の逃した鬼姫も誰かが捕縛してくれてるかもしれない。

 問題は、どのくらい仲間が死んだか。

 元々村には四鬼しか来ていない。

 青鬼の村にいる、赤鬼に匹敵するような若くて優秀な奴らはこれしかいない。

 二鬼以上死んでいたらアウトだ。

 仮に鬼姫を捕らえてたとしても、捕縛しきれずに逃がしてしまう。これでは全く意味がない。

 赤鬼最強の男と闘ったのだから、一鬼も死んでいないとは考えにくい。

 もちろん、理想は零。

 でも、恐らくあの腕が無くなってしまった仲間はもう無理だろう。

 最後まで帰って治療に専念するように促したのだが、がんとして聞いてはもらえなかった。

 当然だ。

 もし自分の立場だったとしても、あそこで離脱するのはありえない。

「ああ、くそっ!」

 鬼姫を捕えきれなかったのは、かなり手痛いミスだ。そもそもあの時──あの右腕指名の時に自分をちゃんと制していればこうにはならなかった。

 それは、仕方ないことではある。

 鏡はまだ七歳。

 青鬼一の天才ではあるが、その精神力は、己を十分に律することなんてできはしない。

 あの男──赤井桃を甘く見過ぎた。

 鬼だけではなく、動物とも心を通わし、そしてそれらを率いて向かってくる様はまるで──

「手酷くやられたみたいですね」

「メガネっ!」

 突然後方から聴こえた声に、鏡は即座に振り返る。

 そこにいたのは、全身ボロボロになって見るからに満身創痍な仲間達だった。

 数は二。

 恐らくもう息のしてない──作戦前、片腕を失った仲間を大きい仲間が背負っているのを見ると胸が張り裂けそうになる。

 でも、最悪だけはなんとか乗り越えた。

「よかった。無事で」

「これが無事に見えるのなら、私がいい眼科をご紹介しましょう」

「うるさい。お前はとっととベーシック手術でも受けろ」

 まあ確かに、このメガネ程ちょくちょく視力の変わる奴はいないから、きっといい医者の知り合いがいるのだろうけど。

「鬼姫は?」

「あなたがそう尋ねるということは、そういう事です」

 くっ、と鏡は唇を噛む。

 やはり、赤井桃を軽視せず、もっと慎重に事を運ぶべきだった。そうすれば今頃──

「落ち込むことはありません。彼女が、外界にそう多くのツテがあるとも思えませんし、仮に潜伏するにしても、近くの人里のどこかでしょう。鬼海じんかい戦術でどうとでもなる範囲です」

 一応戦闘技能はあまり高くないが、若い青鬼は数十鬼程近くの町に待機している。長くても一月程では見つけることができるだろう。

 ……だが。

「甘く見たら足元を掬われる」

「……今のあなたを見ていればわかりますよ。嫌と言う程に」

 多分赤井桃と赤井姫が力を合わせれば、ここにいる三鬼で捕らえきれるかは五分だ。可能なら鬼姫は無傷で捕獲したいのだが……。

「…………」

 それにしても、とメガネの男は思う。

 一応、自分達は赤鬼頭首──赤井真熊を殺した。他の赤鬼連中も逃げた二鬼以外は殲滅した。

 これは長年の夢だった。

 青鬼の悲願だった。

 そりゃあ、完璧とは言わない。

 ……でも、なんだろう。この極端に満たされない気持ちは。

 これは、赤井姫を捕らえて、赤井桃を殺せば満たされるのだろうか。

 ……きっとそうなのだろう。

 そうでなくては困る。

「慎重に行動しましょう。見つけても、最低一ヶ月は様子を見る。そして、確実に鬼姫を青鬼の手中に納める」

 メガネの男の言葉に二鬼は首を縦に振った。

 待つのは慣れている。

 もう千年近く経っているのだ。

 赤鬼が、青鬼を鬼ヶ島に追いやったあの日から。


 ○ ○ ○


 森を抜けた。

 そこは自然の残る穏やかな田舎町で、多少のコンクリートが無いわけでもないが、赤鬼村とあまり大きくは変わらないようだった。

 木が広々と茂っており、土も十分にあるので、キーやノーは問題無いだろう。

 あとは桃と姫だけである。

 幸い青鬼の追っ手が来ている様子もない。

 桃は近くにあった錆びれた看板を見る。

「『土管町』って書いてあるんだけど、この辺り知り合いとかいねーか?」

「……パパは外界とは連絡をとっていたけど、それが誰かひめにはわからない。ゴメンね」

「……謝んな、バカ。似合ってねェんだよ」

 村の重鎮達ならまだしも、こんな風に人間の街に来るのは、往々にして桃のように角の小さい奴の仕事だ。差別的な意味も少なからずあるのだが、角が大きいと人間に怪しまれるのも大きな理由である。

 真熊や姫が自分以外の角の小さな鬼達と話すことはあまりなく、むしろ、そんな鬼達と仲良くしてた自分が、率先して動くべきなのに。

 桃は自分自身に舌打ちをする。

 思えば、脱走なんて軽く口にしていたが、その先のことなんて全然考えていなかった。

 これからどうする?

 寝床は?

 飯は?

 適当な一家を襲って、そいつらの肉を食い、家に住むか?

 そんな生活が長く続くなんて到底思えない。

 ここは鬼の村ではない。

 人間社会という名の法則で動く人間の町なのだ。

 そして、悪い事に悪い事は重なる。

「うぅ……」

「え?」

 突然背中の姫が辛そうに呻いた。

 桃は姫の方をみると、赤黒いはずの肌が、土色になっている。

「おい、姫!」

 その場で少女を降ろし、桃は彼女の額と自分のそれとをくっつける。

「────っ!?」

 熱い。

 熱が出てる。

 どうして、と考えるがそれは愚かなことだと気づく。

 明らかにこちらに敵意のある奴に薬を盛られて、この数時間、肉体的にも精神的にもまるで休めていない。ついでに言えば睡眠不足もある。なんともないわけがない。

「キー! なんでもいい! 何か知恵は無いか!」

「流石の僕も医療の知識はないよ」

 いつも軽口な梟だが、その口調は姫を本気で心配をしているようだった。

 ──クソったれ!

 俺はようやくこいつの右腕になったんだ。

 こんなすぐに主人が死んでたまっかよ!

 どうすればいい?

 どうすれば──

「そこの不審者くん」

「────!?」

 突然の声。

 全身に緊張を走らせる桃は、強張りながらも即座に顔を上げる。

 一瞬、桃にはそれが何なのかわからなかった。

 人間……だよな?

 桃がそんな煮え切らない態度を取るのには幾つかの理由があった。

 まず、その人間が持っている圧倒的な存在感。姫や真熊のそれとは性質の異なる何か。視覚や聴覚なんかでは判別できない濃いオーラのような物が彼女を包んでいる。

 一応、桃も少ないではあるけれど、人間を何人か見たことがある。赤鬼村を訪れる大体の人間は、意味もなくヘラヘラとしていて、自分が被捕食者側だと知るや否や、泣き叫んだりするのが通例で、当然そんな奴らにはオーラのへったくれもない。

 だが、目の前にいるそいつは違う。

 明らかに、そいつは捕食者のオーラを出している。

 本来捕食者側の鬼である桃達に向かって。

 もう一つの理由は、その鋭い眼光。

 その突き刺すような鋭い瞳で見つめられただけで、身体中から汗が噴き出る。

 こんな人間初めてだ。

 何だこいつ?

 何なんだこいつ?

 性別は女。齢は二十といったところか。

 髪型は大きなポニーテールで、まだまだ顔に幼さは残っているけれど、年相応の落ち着きもある。

 その格好は赤い作業着となかなか奇抜であり、姫とは対照的に大きく実った果実が服を押し上げている。多分姫的にはあのくらいが目標なのだろうが、現状を鑑みる限り、それは無謀としか言いようがない。

「君、真夜中上半身裸で抜き身の刀を持ちながら、ボロボロの倒れた女の子にキスしてるとか、どんだけ不審者なのだよ?」

 そう言いながら女は桃の方に歩いてくる。

 どうやら、熱を計る行為がキスをしているように見えたらしい。

「近寄るな!!」

 その様子に女は「ふるっふー」とよくわからない声を上げる。

「近寄れば斬る」

 桃は、近づいてくる得体の知れない女に向かって、剣先を向ける。

 そもそも、殆どの生物にとってそうであるように、鬼にとってもまた、人間というのは、相性最悪の天敵であるのだ。

 鬼と人間の力関係が逆転した背景としては、二つ──第六天魔王織田信長が、天下統一(厳密には失敗したらしいが)した折に、日本全国に種子島という銃を復旧させた事と、過去数百年という長い年月、鬼達の間で語り継がれてきた、宿敵桃太郎の鬼ヶ島襲撃事件が挙げられる。

 一つ目は単純。

 銃弾を脳天や心臓に食らって生きていけるほど、生命力の高い生物なんて、鬼を含めてもこの世にいないからだ。超高速で飛んでくる鉛の塊を無条件で跳ね返せる程、鬼の皮膚は丈夫じゃない。

 二つ目は、鋭い爪や角を持たない人間であっても、鬼を殺せるポテンシャルは十分にあるという事。

 現状、銃を所持している人間がほんの一部である事は知っているけれど、もしも、そのほんの一部が現れてしまっては、現在息も絶え絶えな姫を連れた自分はどうする事もできない。

 ならば、やる事は決まっている。

 桃は刀を握る手に力を込める。

 いつでも目の前にいる、その女を殺せるように。

 一方──

「……斬る?」

 女は可笑しそうに、

「斬る斬る斬る切る着る著るキル気る木る期る?」

 なんて言う。

 酷く、酷く不気味に嗤って言う。

「いや、別にいいのだよ? でも、不審者君はその子を助けたいのではないのかね?」

「────っ」

 桃は、しかし、気付く事ができない。

 背を伝うその冷たさが、彼女の不気味さから来ている事に。

 自分が、たかだか人間相手に慄いていることに。

「…………てめェは何者だ」

 警戒を解かない桃と対照的に、どこか楽しそうにその場で一回転してみせた女性は、何かのポーズをとって言った。

「私は近衛真理子。通りすがりで、ちょっとコインが好きな、しがない配管工……なのだよ」

「……配管工?」

 ナニイッテンノコイツ?

 

 ──世界は汚物で満ちている。

 前後左右上も下も見渡す限り、クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ。

 そんな掃き溜めのような世界に華が一輪咲いている。

 華は思った。

 何故、何のためにこんな場所で自分は咲いているのだろうかと。

 ただ、華は知っている。

 何故かも、何のためかもわからない。

 でも、誰のためかは知っている。

 あの日、自分を照らしたあの光。

 自分はあの光のために咲いている。

 ──夜はまだ明けない。

 


現在改造中です。

一応公開はしているものの、できれば、3〜4月辺りにまた来てもらえると助かります。

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